【書評】香港が「生き残りの文化」を守るために:レオ・F・グッドスタット著、曽根康雄編訳『香港 失政の軌跡:市場原理妄信が招いた社会の歪み』

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2019年から21年にかけて、香港は未曾有の変化に見舞われた。毎週行われた100万人規模のデモ。内戦のような警察とデモ隊の激しい攻防。20年に国家安全維持法が導入されてからは、活動家、民主派議員、メディアなどに対して、権力による容赦のない「清算」が行われている。本書は、1997年の中国返還後、歴年にわたる香港政府の「失政」が結果として生活・経済の苦境を招き、人々を抗議行動に駆り立てた要因になった可能性を示唆している。

2019年に香港で話題作に

著者の英国人レオ・F・グッドスタットは香港大学のアジア研究センターに所属した後、1966年から88年にかけてファーイスタンエコノミックレビューやタイムズなどの香港特派員を経験した。89年からは香港政庁のシンクタンクで働いた。ジャーナリスト・研究者として、香港社会を知り尽くした人物である。グッドスタットは本書の刊行を見届け、2020年に他界しており、本書はその遺作でもある。

香港社会経済のありようを赤裸々に描いた本書は、大規模デモに揺れた19年の香港で刊行されるや大きな話題を呼んだ。英語版は電子を含めて2400部、繁体字版は3500部売れたという。人口750万人の香港で、この種の書籍としては異例の部数だ。多くのメディアも書評で取り上げた。

本書の原題は『A City Mismanaged : Hong Kong’s Struggle for Survival』。「生き残りのための香港の闘争」は香港という都市の本質を表している。中国大陸からの「逃亡者」が作った街である香港は、事実上、自由すぎるほどの環境で激しい生存競争を勝ち抜いた者だけが生き残れるサバイバル都市だった。

その無数の人々の努力の結果、香港は貿易都市、観光都市、金融都市として「東洋の真珠」と呼ばれるほどの繁栄を築いた。

どのような立場でも、香港人は香港の「死」を願ってはいない。だが、香港を前に進めてきた歯車が取り返しのつかないほど狂ってしまったのではないか。そんな香港人の集団不安にこの本のタイトルは刺さったようだ。

自由競争重視による公共サービスの軽視

本書は、中国に英国から返還された香港が「一国二制度」のもと、歴代の行政長官らが「レッセフェール(自由放任主義)」と「均衡財政」の伝統に縛られ、公共サービスの軽視によって社会福利政策に対する適切な対応を行なっておらず、香港社会が不安定化する種がまかれていたのではないか、という問題提起を行なっている。

私の記憶に残っているのは、2014年、梁振英・前行政長官が外国メディアに対して語った言葉である。「住民が代表者を選ぶようになれば、香港住民の半分を占める月収1800米ドル以下の所得層が決めることになる」

1800米ドルは月収20数万円であり、決して低所得とはいえない。一人一票の「普通選挙」の導入を拒否するためとはいえ乱暴な論理を持ち出したものだが、この言葉から浮かび上がったのは、政策決定のターゲットに社会全体をインクルーシブ(包摂)していこうという発想の欠如であった。

注目すべきなのは「ビジネスフレンドリー」という言葉で、歴代の香港トップが重視した経済界とは、つまるところ、中国が香港統治にあたって代理人として位置付けていた親中派経済人たちのことである。香港は「港人治港(香港人による香港統治)」を建前としたが、実際は「商人治港(経済人による香港統治)」と呼ばれた。北京をバックに香港経済を牛耳る不動産業を中心とする香港経済界に対する香港政府の「忖度」が働いていたのではないか。

特に不動産問題分析をライフワークとした筆者は冒頭で「住宅問題は政府の失政の最も深刻な例となっているが、悲劇的なことに、ほとんど同様の問題が政府全体に見られる。事実上、政府の全ての部門が基準を下回るサービスしか提供してきておらず、関連する法律を無視している」と手厳しい。

ここで指摘されている「住宅」は香港社会の肝となる問題だ。人口の多くを占める大陸からの流入者にとっては住宅の確保は何よりも切実な課題であり、英国統治時代に香港政府は1967年の大暴動の反省を受けて住宅供給に積極的に取り組み、社会を安定化させることに成功した。

ところが近年の香港政府は住宅政策を市場まかせにした結果、地価が高騰する一方、「スラム」と呼ばれる狭小住宅が蔓延し、経年劣化で老朽化した建物も突然崩落するなど問題が続出した。自由経済を過信した香港政府が社会福利プログラムによる社会的弱者への配慮を欠いた一連の政策決定が社会関連サービスの弱体化を招いたというのが著者の論点である。

香港のデモで掲げられた不満は主に政治面による民主化プロセスの進捗のなさに対してであり、「経済格差」「住宅事情」が主要問題であるという議論を受け入れることに、デモの先頭に立った人々は消極的だった。

ただ、本書では、香港政府の社会福利政策軽視によって置き去りにされた階層や世代があり、100万人単位の巨大人口が街頭に現れたモチベーションになっていたのではないか、と思わせるのに十分な論拠が提供されている。少なくともデモを応援する市民の感情には「失政への失望」があったと見ることは可能だ。

中国本土との矛盾

「一国二制度」とはいえ、中国という国家の中では、北京の中央政府と地方政府という関係が存在しており、香港も例外ではない。中央政府は、香港の一国二制度の成功を重視するため、経済貿易緊密化協定(CEPA)を香港と結んだり、国家五カ年計画に香港を参入させたりした。しかし、それらは決してうまく機能せず、香港社会がメリットを感じられるところまでは至らなかった。

その理由の一つが、本書によれば、隣の広東省をはじめとする地方政府の冷淡さだった。改革開放初期の間、広東省を中心とする内地に対して香港のヒト・モノ・カネは絶大な効果を発揮し、香港に対して大きな「恩義」があるはずなのだが、香港を超えるような実力を持つに至った広東省は「忘恩」といえるほど、香港をライバル視し、香港との協力に消極的な態度をとっていた。

香港もまた、中国の経済成長のなかで「一帯一路」や「人民元国際化」などを掲げた中央政府との一体化ばかりを志向し、その独自性を強化するイノベーションに向けた体質転換を怠り、都市間競争で深圳に大きく遅れをとった。こうした点も、筆者が指摘する「ミスマネージメント(失政)」の一つである。

レジリエンスを発揮できるか

香港で抗議行動があそこまで巨大化・過激化した背景には確実に複合的な要因が存在する。現在も厳しい当局の責任追究が続くなか、解明に向けた客観的な議論すらできない状況にあるが、本書のような経済・社会の構造的状況からのアプローチは、ぜひ検討に加えられるべき分析の切り口である。

香港には、強力な「レジリエンス(復元力)」があると著者は言う。官僚・公務員の能力の高さ、透明性、成長を求める人々のエネルギーなど、ほかの都市にない「生き残りの文化」が香港には備わっている。

そのレジリエンスも、香港を支えてきた法と制度の公平な運用があってこそ。国家安全維持法を駆使した過剰な弾圧で、香港がこれからの世界で生き残っていくための力の源が損なわれないことを祈りたい。

『香港 失政の軌跡:市場原理妄信が招いた社会の歪み』

発行:白桃書房
発行日:2021年10月7日
225ページ
価格:3300円(税込み)
ISBN: 978-4561913177

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