【書評】生が無条件に正しいとされない世界で:李琴峰著『生を祝う』

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2021年の芥川賞受賞後、李琴峰の第1作となる『生を祝う』が刊行された。妊娠中の胎児本人とコミュニケーションをとる技術が開発された50年後が舞台だ。まだこの世に生まれ出ていない胎児自身が誕生を拒否する未来は、ユートピアなのか、ディストピアなのか。生をめぐる自己決定の限界を、鋭く私たちに問いかける作品である。

「人生の生きづらさ」を数値化

 本を開くと、私たちは疫病の時代を乗り越えて50年あまりが経った未来にいる。ここは安楽死が合法化され、さらに「合意出生制度」が法制化された世界だ。「合意出生制度」とは妊娠9ヶ月の胎児本人の「出生意思の有無」を確認し、同意アグリーであれば出産を、拒否リジェクトであればキャンセルつまり中絶処置をおこなう制度である。胎児の意思確認を怠ったり、拒否リジェクトであったにもかかわらず出産したりすると「出生強制罪」に問われ、実刑判決を受ける。また出産時にこの犯罪が露見しなかったとしても、出生を強制された子どもはこの事実に気づいた際、20歳までは親を民事で訴えることができるし、生を継続したくない場合には安楽死費用を請求することもできる。

 妊娠9ヶ月の胎児とごく簡単なコミュニケーションをとる技術の確立によって実現されたこの制度は、「生と死に関する自己決定権」を人類にもたらし「人類史上最大の人権回復の成果」であると評価されている。

 妊娠9ヶ月の胎児が同意アグリーを判断する材料は、妊娠期間中に何度か測定される胎児の「生存難易度」の数字である。これはその胎児の出生後の「人生の生きづらさ」を数値化したもので、「性別、性的指向、国籍、出生地、先天性疾患の有無や、その種類と度合い、知能指数や才能、親の経済状況や社会的地位、親との相性など」さまざまな要因から弾き出される。胎児はその測定値の平均値を知らされた上で、この社会に生まれるか生まれないかを自分で決めるのだ。

 このような未来の日本で、立花彩華は妻の趙佳織とのあいだの子どもを身籠もっている。ここではすでに差別の解消がいくらかは達成されており、レズビアンであることはさほど生きづらさには直結せず、同性婚は法的に認められ同性同士で子どもをつくることも医学的に可能となっている。彩華と佳織は合意出生制度を支持し子どもの意思を尊重しようとする人権派の常識人として、この社会に完全に適合している。

 いっぽうで制度の撤廃を求めるデモ隊や、「自然出生主義」を唱える新興宗教も存在する。ついには大規模なテロ事件までが新興宗教団体によって引き起こされ、多くの死傷者が出てしまう。そんな中で、彩華は身近な人物から、拒否リジェクトによって法に則り出産を「キャンセル」したために心に大きな傷を負ったことを告白される。動揺しながらも順調に妊娠を継続する彩華だが、彼女とお腹の胎児にも出生意思確認コンファームの日が迫る……。

無条件に正しいものではない「生」

 本を閉じると私たちはまだ、安楽死や中絶が忌避される社会にいる。たとえ安楽死を支持していても健康な若年者の安楽死には強い抵抗を感じる人が多いだろうし、中絶を支持していても妊娠9ヶ月に至った胎児の中絶手術にはやはり強い抵抗を感じる人が多いだろう。ここは、生は絶対的に善であり、正しいとされている世界だ。しかしそれは、真実ではない。

 真実というものは、おそらく存在しない。あるのは理想だ。私たちはこの理想を胸に抱き続け人格の基礎とするよう躾けられている。なぜなら、この理想こそが社会を安定的に維持し円滑に機能させるとされているからだ。それゆえに、生の無条件の正しさに公然と背くことは、私たちにとってはとても難しい。

 李琴峰『生を祝う』は、その難しく危険な試みに正面から挑む衝撃的な作品だ。ここでは、生は無条件に正しいものとはされていない。

 彩華は、「合意出生制度」の恩恵をこのように述懐する。
「もちろん、生きていく上で様々な挫折はあった。(中略)それでもどんな挫折も耐えてやろうという気持ちになれたのは、この人生は他でもない、自分が選んだものだからだ。」

 この小説には、自己責任という単語は一度たりとも書かれてはいない。しかし、私の頭の中ではこの単語が耳障りなアラートのように鳴り響く。私たちはこの社会で、いさぎよく生を切り上げること――それは自分自身の生のみならず、ときとして反社会的な傾向を示す肉親、多くは自分の実の子どもの生も含む――にまつわる自己責任を押し付けられ、崖っぷちに追い詰められている。そこへ加えて、生をはじめることの自己責任までもが課されることになるのかと思うと、癒えることのない傷に新しい刃を突き立てられるような気持ちになる。

 彩華は決してそうは考えない。別の場面で、「合意出生制度」に対する反発をぶつけられた彩華は言い返す。
「生まれてからでは遅いんだよ。人生という名の無期懲役になる。いくら安楽死制度があるからといって、そんなの不完全な救済措置でしかない。死んだ人間が生き返らないように、一度生まれてしまった人間も二度と無には戻らない。そんな悲惨なことを未然に防ぐために合意出生制度があるんでしょ?」

行間から聞こえる私たちの悲鳴

 物語のちょうど真ん中あたりに位置するこのあたりから、私の頭の中でわんわんと鳴っているものが自己責任のアラートではないことがわかってくる。行間からどうしようもなく漏れ出ているもの、それは悲鳴だ。

 この小説の文章は、終始明快で端正で淡々としている。歴史を踏まえた社会の様相を概観し、「合意出生制度」の成り立ちとその仕組みについて、説得力を持って語るその語りは見事と言うほかない。また、登場人物たちの心の動きはかすかな揺れ動きから彼女たちの人生がそれまでとそれ以降に分断されてしまうほどの激しい変動までが丁寧に追われているが、それでいてあくまで文章のまっすぐさはいささかも揺らがない。

 しかし、その隙間からたしかに悲鳴が聞こえる気がするのだ。それは、主人公たちの悲鳴ではない。このあまりにも不完全すぎる世界に、「合意なき出生」を強いられて必死で生きている私たち全員の悲鳴だ。

 私たちは実際に、生まれながらにして「生存難易度」を測る項目にあるようなものを背負わされているが、それらは捨てたり変えたりすることが非常に難しいか、ものによっては完全に不可能である。そのせいで、生まれてくるんじゃなかったという思いをしたことのある人は多いだろう。むしろ、そう思ったことのない幸運な人が果たしてこの世にいるのかどうか怪しいとさえ思う。

 そんな私たちにとって、この小説で描かれている社会には、しりぞけがたい誘惑がある。なんといってもこの社会では、「生存難易度」を下げるために社会全体が適切に努力し変化しているのだから。ひるがえって、私たちの社会を見ると絶望的ではないか。常に自己責任を問われ、自分と他者のすでにある生をともすれば否定させられてしまう現状を鑑みるに、私たちが生きているこの社会は、ぜんぜん生まれてきて大丈夫な場所ではない。

 もちろん、この小説は決してユートピアを描いたものではない。作中、胎児の出生意思確認コンファームの精度と信頼性にそもそも改良の余地のない欠陥があることが示唆される。それが、この小説がディストピア小説であることのなによりの証拠だ。しかし私たちの社会だって、理想は空虚な建前にまで貶められてしまっている。ここだって結局は、生が無条件に正しいと信じ切ることなんてできない場所なのだ。

 だからこの小説は、私が途中で感じたような、私の傷に向けられた刃物ではない。そうではなくて、いまだかたくなに私たちの「生存難易度」を下げようとしないこの社会へと突きつけられた刃物である。私はこの刃物を握りしめる手に、自分の手を添えたい。そのように社会に変化を迫ることこそが本書のタイトルである『生を祝う』ことなのではないかと私は思う。

『生を祝う』

発行:朝日新聞出版
発行日:2021年12月7日
184ページ
価格:1760円(税込み)
ISBN: 978-4022518033

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