【書評】衰えゆく人の側で:若井勝子著『東大教授、若年性アルツハイマーになる』

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脳外科医で東大教授。そんな夫が50代半ばで若年性アルツハイマーを発症したら――。葛藤する夫を支え、受け入れ、励まし、看取った妻が綴った闘病の記録。自分の家族が同じ病気になった時、あなたはどう行動しますか?

第1章を開き、次の見開きで見た写真に手が止まった。

ノートを埋め尽くす、「善 善 善 善 善」の文字。

まるで小学生が漢字の練習をするように、いくつもいくつも書かれた漢字は、ときおり書き間違えて塗りつぶされたところもある。
よく見ると、横棒が1本足りないもの、下の口が田になっているものもある。

次のページには愛、愛、愛。
ほかには、宛、宛、宛。捨てる、捨てる、捨てる。
東武百貨店と書こうとして書けなかったのか、5箇所ほど、横線が引っ張ってあるところも。

著者の夫であり、若年性アルツハイマーを発症した若井晋さんが、自らの病状に疑いを持ち、54歳でつけはじめた日記の最初のページだ。

2001年6月9日(土)深夜
漢字を相当忘れるようになったため日記をつけることにする。
単純(注 純の字も違っている)な漢字がすぐに出て来ない。Dementia(注 認知症のこと)か。

Dementiaという専門用語を使って自分に疑いの目を向けている晋さんは、東京大学医学部を卒業して脳外科医として日本や海外で勤務した後、東大の国際地域保健学の教授を務めていた。

本書は、脳の専門家であり現役の東大教授である夫が50代半ばで若年性アルツハイマーを発症し、定年まで1年を残して59歳で退官、74歳で亡くなるまでを、妻・克子さんの目で綴っている。

得意だったことが奪われる

冒頭の日記は、若年性アルツハイマーであろうと診断を受けたあとに、克子さんが晋さんの書斎を整理していて、偶然見つけたものだ。

日記を書き始め頃、晋さんは克子さんに漢字が出てこないことがあると嘆いていた。昔から達筆だった晋さんは、ひとり深夜の書斎で手帳に向かって漢字を練習し、何を思っていたのだろう。

「得意だったことができなくなる」こと。
冒頭の写真を目にして、これは肉体より精神的につらいのではないかと言葉が出なくなった。

いや、まさか。そんなはずは。きっと。もしかしたら。
専門家だからこそ、頭の中を行ったり来たりしたいくつもの言葉があっただろう。
晋さんは、何度も自分の脳のMRI画像も撮影し、見返していたという。

当時まだ54歳。東大教授としても、バリバリの現役だ。
強い筆圧とともに幾度も書かれた漢字は、自分は大丈夫だと信じようとしているように見えた。

思わず自分の年齢を計算してみる。あと10年足らずで、同じ病にかかるとしたら。
子どもは?仕事は?パートナーは?そして自分の人生は?

想像するだけで苦しくなる。

「僕の住んでいる世界は、たいへんなんだよ」

診断から2年弱が経ったとき、晋さんは自分がアルツハイマー病であることを公表した。

その翌年、ノンフィクション作家である最相葉月さんのインタビューで晋さんはこう振り返っている。

公表に至るまでは、本当に大変でした。そもそも、自分がアルツハイマーという病気になったことを受け入れるまでに4-5年かかったのです。そのあいだ、「自分は本当にアルツハイマーなのか」「もし、本当であれば、どうしてそうなったのか」と考え続けました。毎日毎日が、やるせなく、どうしようもない思いでした。

 「どうしてそうなったのか」。

苦しい問いだ。
変えられない現実に出会ったとき、人は諦めるために理由を探すのかもしれない。

きっとアルツハイマーになった明確な原因などないことは、脳の専門家である自分自身がわかっているのだろうから。

症状が進行するまでの6年ほど、晋さんはメディアのインタビューを受けるほか、日本各地で20回以上講演を行い、ときに言葉に詰まる自分の姿を見せながら自分の考えを伝え続けた。

そんな晋さんをすぐ横で見てきた克子さんの視線は、非常に冷静だ。
今何ができて、何が難しいのか。どんなリスクが考えられるのか。
本人の意思を尊重しながらも、夫を守り、励まし、周囲とコミュニケーションする。
そんな妻に、晋さんは自分の気持ちを最後まで伝え続けた。

「僕の住んでいる世界は、たいへんなんだよ」
晋さんの言葉だ。
なんとも研究者らしい客観性と表現だろう。

晋さんが病気を受け入れ、公表し、人前に立ったように、克子さんも変わりゆく夫の病状を受け入れ、気持ちに寄り添い、本を書いた。

嘆きたくなることも山ほどあったに違いないのに、凪のような穏やかさが感じられるのは、2人とも敬虔なクリスチャンであり、日曜礼拝で出会って結婚。その後も生涯、信仰をともにしていたからかもしれない。

凪いだ海のように

アルツハイマーという病は、もはや珍しいものではない。
若年性アルツハイマーも、症例数はまだ多くはないものの、映画や小説で取り上げられたこともあり、認知は高まっている。

でも、その現実はどうだろう。

64歳以下で発症する認知症が「若年性アルツハイマー」と定義されている。
早い場合は、18歳で罹患したケースもあるという。

夫が、妻が、親が、子どもがそうなったら?
自分はその横で、何ができるだろうか。

きっとうろたえるだろう。泣きたいことも、怒鳴りたいこともあるだろう。
それでも、凪いだ海のようにそこにいたい。そう思った。

『東大教授、若年性アルツハイマーになる』

若井 克子(著)
発行:講談社
四六判 :242ページ
価格: 1540円(税込み)
発行日:2022年1月7日
ISBN: 978-4-06-526668-7

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