【新刊紹介】現在の自分へと導いてくれた人生の「先生」:伊集院静『タダキ君、勉強してる?』

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遠藤周作の『狐狸庵先生』や北杜夫の『どくとるマンボウ』など、かつては著名作家のエッセイが嬉々として読まれた時代があった。いま、もっとも人気を博しているのが伊集院静であろう。本書は、著者の人生における有名無名、出会った人々との交遊録を綴ったものだが、そこには多くの学びがあった。

人はさまざまな人と出会い、そして別れを繰り返して、現在へと至っている。
そんな中に、自分を現在の自分へと導いた人との出会いが、必ず、何回か含まれている。

と著者は書く。通信簿オール1だった小学生が、長じて故郷から東京に出て、いかにして作家という職業につくことになったのか。本書は、来し方を自ら振り返った内容であるのとともに、導いてくれたそれぞれの「先生」についてユーモア溢れる筆致で描かれており、著者の人間観察としてもまた興味深い。

ビートたけし、高倉健、騎手の武豊、野球の松井秀喜などとの交友を綴った章は、著者のファンならずとも、そこだけでも立ち読みしてみたくなるだろう。

著者は、武豊に仲人を頼まれた。普段なら絶対に引き受けないので「君の仲人をしたら、馬券が買えなくなるじゃないか」そんな断り方をしたが、「いいじゃないですか。楽になりますよ」と笑って言われ、結局、やることにした。

自分より若い男に、遊び方を、生き方を、こんなに鮮やかに教わることがあるなんて、思いもしなかった。

と、著者は書いている。それはどういうことだったか。

松井がヤンキースの現役時代、ニューヨークで著者は彼の運転でレストランに出掛けた。おりしも、ハロウィンの当日で、道路は仮装した人々で埋め尽くされていた。松井は言った。「この辺りの人は、おかしな恰好をしているんですね。なぜでしょうか」「君……、知らないのか?」「ハロウィンだよ」「何ですか、それ」
松井のある機転で、この雑踏を車はなんなく切り抜けた。ヤンキースのスター選手の威光はすごい!著者は彼についてこう書いている。

発光している。静かで、控えめで、それでいて眩しい、独特の光り方で。

著者を創った「父の言葉」「母の言葉」

それよりはるか昔、「『故郷』の先生」の章から本エッセイは始まるのだが、小学校1年生の著者に、

「スケッチに行こう」
夏休みが終わったある日、オール1の私に先生はそう声をかけてくれた。

それがきっかけとなって著者の才能は見る間に開花していく。中学、高校と、故郷の「先生」たちとのふれあいは、心温まるエピソードに満ち溢れている。

大学から広告代理店に就職。入社にまつわる逸話は捧腹絶倒だが、超ワンマン社長からは礼儀作法や働き方のすべてを学んだ。そしてこう書く。

愛すべき理不尽からこそ、人は多くを学ぶ。

作詞家「伊達歩」として、近藤正彦の『ギンギラギンにさりげなく』などヒット曲を手掛けていた時代、作詞家への道筋をつけてくれたディレクターにこう言われた。

「ひと晩に十曲は書いてください。阿久悠さんは平気で書きます」

作家としてやっていける自信がなかった著者に、純文学作家・色川武大にして、無頼派作家・阿佐田哲也でもある「いねむり先生」はこう諭した。

「相撲の申し合いみたいに稽古をすればいい」

私がもっとも感銘を受けたのは、最後におさめられた「父の言葉」「母の言葉」である。言葉とともに語られる挿話が泣かせる。少しだけ抜粋すれば、

「チンピラみたいなことをするんじゃない。バカモノ」
「いいか、金で揺さぶられるな。金がないからといって誰かに揺さぶられるような人間になるな」
「それがお前を育てた故郷や親に対して言う言葉か。少し偉くなったかと思って調子に乗るな」

「あなたが考えているより、他の人は汗水流して働いている。それが世の中というものですよ」
「決して人を羨んだり、人を恨んではいけません。そういうことをしていたら、哀しみの沼に沈みますよ」

本書には、28編がおさめられているが、読み終えたとき、あなたもきっと、自分を導いてくれた人に感謝をこめて、思いをはせることになるだろう。そういうエッセイだ。

集英社
発行日:2021年4月10日
B6版変形:312ページ
価格:1650円(税込み)
ISBN:978-4-08-771793-8

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