【書評】表現者であるということ:永田和宏『あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春』

Books 文化 健康・医療

夫婦そろって日本を代表する歌人だった河野裕子と永田和宏。妻が亡くなって10年余り。ふたりが結婚するまでに交わした300通の手紙と日記が、妻の実家から見つかった。いまなお瑞々しい言葉とともに夫が振り返る、若きふたりが結ばれるまでの日々。

手をのべてあなたとあなたに触れたきに
息が足りないこの世の息が

数年前にこの短歌を知ったとき、ぐっと胸が苦しくなったことをよく覚えている。
その感覚は、今も変わらない。

31文字に込められた、深い深い情念。

この世を去ろうとするその瞬間に、愛する相手の名を呼び、少しでも触れたいと手を伸ばす。けれども息は苦しく、何をも掴むことなく手はその動きを止める。

頭にそんな映像が浮かぶ。

読み手の河野裕子は、大学生のときに角川短歌賞を受賞、戦後生まれの女性歌人として現代の歌壇をリードしてきた。宮中歌会始の選者でもあったが、2010年、64歳でがんのため逝去。

絶筆となった先の短歌で「あなた」とうたわれたのは、38年連れ添った伴侶で、本書の著者である永田和宏だった。夫もまた大学時代に短歌をはじめた歌人であり、妻とともに宮中歌会始の選者を務めた。2009年に紫綬褒章を受章している。

ふたりは大学時代に京都で出会い、結婚。本書とは別のエッセイでは、夜中に夫婦が相対して歌を作り、批評し合う様子が描かれていたが、現在はふたりの子どもたちも歌人として活躍しており、文字通りの「短歌一家」なのである。

しまわれていた300通のラブレター

亡くなる間際に夫にこれほどの歌を遺す夫婦は、いったいどれほどの愛情で結ばれていたのか。

夫・永田和宏の視点から、学生時代に河野裕子とはじめて出会った瞬間から、結婚までの“若き日々”を振り返る本書は、その答えを垣間見せてくれる。

題材となったのは、ふたりが交わした300通を超える手紙。いわゆるラブレターだ。

その数は、結婚するまでの5年間で約300通。単純に計算しても、1年に60通、つまり30往復していることになる。

20代ならではの激情とも思える文章もあれば、日常をユーモラスに揶揄したものや、将来への不安を吐露したものもある。便箋に数枚、ときに10枚を超えてびっしり綴られた手紙は、大事に大事に、箱に収められ妻の実家にしまわれていた。見つかったのは妻の死後だ。

同時に見つかった妻の7年分の日記10数冊も加わって、1967年に、大学生のふたりが顔を合わせてからの、まさに「青春」がくっきりと浮かび上がってくる。

将来の夫に出会った頃の日記には、こう記されている。

一緒にすわった永田さんの身体のあったかみを
身体にかんじていると、ほんの一瞬の間でも
やはりこころは傾いてしまう

本書が夫婦の甘い記憶で終わらないのは、著者が歌人であるとともに、細胞生物学の分野で活躍した科学者でもあるからだろう。常に客観的、冷静な視点で恋する若い自分を眺め、心理状態を分析する様は、白衣を着た研究者が顕微鏡をのぞき込んでいるようでおもしろい。

また、学生紛争が起こるなど日本が大きくうごめいていた1960年代後半(ノンポリ学生だった著者も、ゲバ棒を持って大学の建物に立てこもった)という時代の熱や、幼い頃に母を失って継母に育てられたという自身の複雑な生い立ちについても触れられていることで、歌人・永田和宏がどのように生まれ、どんな風景を歌にしてきたのかもよく伝わってくる。

骨も砕ける程抱きしめられながら

常に歌を詠み、後には日本を代表する歌人となるふたりにとって、自分の感情を文字にして表現することは、若いころからまるで呼吸をすることと同じくらいに当たり前で自然だった。

時に目をそむけたくなるような負の感情ですら、ふたりは綴る。相手へのありったけの愛情も怒りも、自分への不満も、世の中への憤りも、言葉にして記し続ける。

くちづけ 骨も砕ける程 抱きしめられながら
しないやすい草みたいに 限りなく 奪われてしまった
(河野裕子の日記より)

あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年
(永田和宏)

表現者であるとは、なんと素敵で、なんと苦しいことなのだろう。

書いても苦しみは楽にならない。
逆に逃げ場を断って自らの命の価値と相対し、自身を追い詰めていくのだが、その過程すら克明に記してしまうのが、表現者の性というものなのだろう。

互いに知らせないまま、ふたりともが一度は自殺を試みていたという驚きの事実も、本書では明かされている。

結婚から何十年たっても、ずっと会話し続けていたというふたり。後年、闘病中の妻は、自分の死後、夫が話し相手を失うことを心配していた。そんなふたりがひとつ屋根の下でともに歌を作ることはもうない。

自分のすべてを知っていて欲しいと思える存在を持つこと、それが人を愛するという、もうひとつの側面なのかもしれないとも思う。
(中略)
河野の知らない時間を生きているということが、私には悔しいのである。

それでも表現者である夫は言葉を綴り続ける。
本書は、妻が残した情念の歌に対する夫からの最後のラブレターだ。

「あの胸が岬のように遠かった 河野裕子との青春」

発行:新潮社
四六変型判:320ページ
価格:1870円(税込み)
発行日:2022年3月25日
ISBN978-4-10-332642-7

書評 本・書籍 詩歌