【書評】人を裁く当たり前って?:原口侑子著『世界裁判放浪記』
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裁判所。
普段はなかなか、縁遠い場所だ。
振り返ってみても、(確か)中学校の社会科見学で行ったのが最初。その後は幸か不幸か縁がなく、就職した放送局で警察・司法の担当になって取材をするまで、再び入ることはなかった。
まして海外となればなおさら。無事な旅路であればあるほど、美術館やレストランはマークしても、裁判所の場所を知ることはないまま旅を終える。
本書はそんな海外の裁判所がテーマ。しかも訪ねるだけではなく、実際に法廷に入り、裁判を傍聴しているというのが珍しい。
著者は東京大学法学部を卒業後、早稲田大学法科大学院を修了して弁護士資格を取得。その後、“逃避と好奇心から”弁護士を辞め、「日本を出たい」と旅に出た。
堅苦しいルポルタージュとは違い、世界各地を旅して経験したこと、感じたことを綴ったエッセイのひとこまとして、さらりと裁判所の訪問記が入っているので、自分が裁判所へ抱いている敷居を、ふっと下げてくれる感覚になる。
登場するのはケニア、ルワンダ、エチオピアにタンザニアなどアフリカの8カ国、トルコやフランス、中国などユーラシア大陸の9カ国、さらにはブラジルやサモア、トンガなど……あわせて22カ国の裁判所だ。
あくまでも目的は旅。その合間に、「傍聴したい」とふらりと裁判所を訪れるのだが、そこは弁護士。その場にいる地元の弁護士に声をかけ、どんな裁判で何が争われているのかを聞きだしてしまう。
「裁判所」という名称や、人を裁くという機能は同じでも、国が違えば、裁判官の姿から裁判の形式、傍聴のルールまで違う。
23の言語の法廷通訳が用意されているハワイ・オアフ島の裁判所。
事前登録がないと、関係者以外は裁判所の中にすら入れないロシア。
大きな庭に柱と屋根だけを置いた「青空裁判所」があるマラウイ。
そして、「海外の裁判所」のイメージ通り、カツラをかぶった裁判官たちもあちこちに出てくる。
なんと世界は広いのだろう。
「当たり前の世界」の外との出会い
著者の旅は、日本の当たり前を軽やかに突き崩していく。
たとえばブラジルでは、連邦最高裁判所で行われる裁判はすべてテレビで中継されている。
日本ではテレビの撮影は冒頭の数分間のみ、しかも裁判官だけに限定され(誰も動かず、まるで静止画のようだ)、代わりに法廷画家が描いたスケッチがしばしばニュースに登場するが、ブラジルではテレビ中継に加え、「ジャスティスTV」というインターネット番組でも裁判や裁判官の評議の様子が終日流されている。
ルワンダでは提訴も支払いもオンライン。数十円払えば手続きを手伝ってくれる人が見つかり、ネットカフェから自分の裁判に出席する人もいる。
トンガでは、当然のようにテレビ電話を使って海外に住む証人の尋問が行われている。
そうかと思えば、ニュージーランドやザンジバルでは傍聴中のメモが禁じられていたり、中国・四川では外国人に限って傍聴ができなかったりもする。
どの国でもそれが「当たり前」なので、働いている人たちも、著者に改めて理由を聞かれると「ええと…なんでかしら」なんて口ごもったりしてしまう。
何が当たり前になっているのかを知るのは、こんな風に、当たり前の世界の外から来た人との出会いがあってこそなのかもしれない。
パターン化から遠く離れて
著者は、本書の終盤で言う。
「私たちは、『正解』に慣れて、法曹になる」
司法試験に合格後、司法修習で学ぶのは「事実を認定する方法」。まるでパズルのピースをはめていくように事実を分解し、つなぎ合わせてひとつのストーリーを「事実」としていく。
その作業を、著者はこう表現する。
ひとつひとつ異なるはずの事件の、すべてを無批判にその型に当てはめていけば、必然的に判決も、弁護活動も、パターン化していく。
本書では、著者が弁護士を辞めようと思った理由ははっきりとは書かれていない。
ただ、旅先で風に吹かれ、海を眺め、ビールを飲み、ときには地元の人に交じって歌を歌い、ダンスを踊ってのびやかに過ごす著者の姿は、パターン化や正解からはずいぶん遠いところにいるように感じる。
世界は広い。
いま自分の目の前にあって当たり前だと思っていることは、本当に当たり前のことなのだろうか?
そんな疑問が浮かんできて仕方がない。
『世界裁判放浪記』
原口侑子(著)
発行:コトニ社
四六変型判:344ページ
価格:2420円(税込み)
発行日:2022年3月30日
ISBN:978-4-910108-07-0