【書評】「新世界」に羽ばたいた女性ナチュラリスト:サラ・B・ポメロイ&ジャヤラニー・カチリザンビー著『マリア・ジビーラ・メーリアン 蟲愛(むしめ)ずる女(ひと)』

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17-18世紀の欧州に、画家で学者、冒険家でもあった傑出した女性がいた。新大陸・南米に渡り、蝶など昆虫が幼虫から蛹(さなぎ)、成虫へと変態していくサイクルを描き続けた。本書は彼女自身も“変身”を遂げていく波乱の生涯をたどる。

昆虫の変態サイクル、一葉で描写

マリア・ジビーラ・メーリアン(1647-1717年)。彼女は当時、欧州で名声を博した一流の芸術家であり、自然の動植物を観察・研究するナチュラリストであった。本書では次のように紹介している。

「マリア・ジビーラ・メーリアンの肖像画」(ヤコブ・マレル画、1679年)=本書38ページ
「マリア・ジビーラ・メーリアンの肖像画」(ヤコブ・マレル画、1679年)=本書38ページ

昆虫学の先駆者の1人であり、ある環境における諸生物の相関性を研究する生態学者としても世界最初期の1人である。イモムシが蛾や蝶に変化する過程、つまり変態の重要な研究にとりかかったのは13歳の時だった。

諸生物の相互関係を理解していた彼女は、誰よりも早い時期に複雑な生態系をたった1ページに描き出して見せた。多くの昆虫、動物、植物の学名が彼女を記念して付けられている。

彼女の作品の真骨頂は、昆虫の変態の過程をその食草とともに一葉に収める画期的な図法だ。卵、イモムシ(幼虫)、蛹、成虫それぞれの生き生きとした姿が原寸大で精緻に描写されている。その昆虫のライフサイクルだけでなく、食餌や隠れ家となる植物との関係も一目でわかる構図だ。

しかも実際の色に合わせて彩色されている。カラー写真のように正確であり、芸術的な仕上がりになっている。彼女がほぼ一生書き続けた「研究帳」には「318種の昆虫の研究と数々の卵、蛹、イモムシ、甲虫、蝶、蛾、等々の写生画が収められた」。1枚の画面に生活環を天然色で記録した昆虫は200種近くにのぼるという。

フランスの博物学者で詩人、ジャン=アンリ・ファーブル(1823-1915年)の『昆虫記』10巻(1879~1907年)はつとに有名だ。しかし、彼女はそれよりも2世紀前、観察、記録、写生に基づいた自然科学書『イモムシ その驚くべき変身と花々から得る特異な食餌(イモムシの本)』(1679年)を出版していた。

芸術家の家族に囲まれ英才教育

マリア・ジビーラは1647年4月2日、ドイツのフランクフルトで生まれた。実父マテウス・メーリアン・ジ・エルダーはスイス出身の版画家であり、各地で修業、フランクフルトでは出版社も経営した。彼にはマリア・ジビーラの母、オランダ人のヨハンナ・ジビーラ・ハイムと再婚する前、先妻との間にもうけた息子たちがいた。

実父は17世紀のドイツを代表するイラストレーターでもあったが、マリア・ジビーラが3歳の時、昇天した。未亡人となった母ヨハンナは、同じく連れ子があったドイツ人の静物画家ヤコブ・マレルと再婚する。義父ヤコブはフランクフルトで工房を営んでいた。

彼女は義父に絵の才能を見出された。異母兄弟を含めて芸術家が多い家族と工房に現れる画家らに画業を学んだ。「素描、彩色、版画と、森羅万象を芸術家らしく観察し考察する術を習得した」という。

17世紀、欧州の若い女性たちは料理、洗濯、掃除、縫物など家事全般を担当しなければならなかった。彼女の家では「縫い針による絵画」ともいうべき刺繍(ししゅう)も教え込まれた。

家事をこなし芸術家修行に励みながら、マリア・ジビーラは母から、もしくは教養ある年配の婦人(デーム)が少女たちを教育する私塾「デームスクール」で読み書きを学んだ。

マリア・ジビーラはそのうえフランス語とラテン語(学者に使われた言語)を、おそらく両親、義理の兄あるいは家庭教師から学んだ。当時の女子教育にあって、これは破格だった。

生きている虫に魅せられ研究へ

義父ヤコブは花を題材とした静物画を得意としていたが、「花だけでなく、昆虫も描いた」。工房には各種の昆虫標本もあった。だが、マリア・ジビーラは「生きている虫」に魅せられた。本書ではこう記している。

とりわけ蚕(かいこ)のうごめき方や、卵から幼虫、蛹、蛾へと姿を変える様子を観察するのが大好きだった。「私はあの美しい蝶や蛾が、なんとイモムシから出現することに気づいた」と書いている。「こうして私はイモムシの採集と、その変態の観察に駆り立てられた」。変態(メタモルフォーシス)はギリシャ語で「変身」を意味する。彼女がその冒険的な人生で経てきた数多くの変化からして、この言葉はマリア・ジビーラ本人にも当てはまる。

最初の“変身”は、13歳の彼女が「社会生活はさておき、私はすべての時間を(昆虫の)観察と絵画の腕の向上に捧げよう」と決心したときだ。「若き日のマリア・ジビーラは昆虫の研究に、読書に、家事にと多忙をきわめた」という。

『虫愛づる姫君』が収められた日本最初の短編物語集「堤中納言物語」は平安時代後期以降に成立したといわれる。それから数世紀後、西洋に「蟲愛ずる女」が誕生したのである。

結婚、二人の娘に恵まれるも離婚

1665年5月、18歳のマリア・ジビーラは義父の徒弟ヨハン・アンドレアス・グラーフとフランクフルトで結婚した。68年には長女ヨハンナが生まれた。同年、アンドレアスの故郷ニュルンベルクに移り住んだ。78年には次女ドロテアを出産、二人の娘に恵まれた。

アンドレアスはニュルンベルクの工房に銅版画用の印刷台を導入した。この工房からマリア・ジビーラの銅版画『新しい花の本』初版(1675年)が出版された。彼女は結婚後も育児と並行して昆虫の研究を続け、『イモムシの本』の出版に漕ぎ着けたのである。

しかし、義父が亡くなってから、「マリア・ジビーラの人生に劇的な変化があった」。1682年、彼女と娘たちはニュルンベルクを去ってフランクフルトに戻り、再び未亡人となった母と暮らすようになった。

アンドレアスも一定期間、フランクフルトに来たが、1685年の夏、単身ニュルンベルクに戻った。「2人の結婚生活が、誰もが望むような幸せなものではなかったかもしれないことをうかがわせる」。結局、アンドレアスは1690年、離婚が今以上の大醜聞とされていた時代に、マリア・ジビーラと離婚した。

娘たちと黄金時代のオランダへ

夫と別居したマリア・ジビーラは母、二人の娘とオランダに移住した。当初はオランダ北西部にあるキリスト教カルヴァン主義(プロテスタント)の信仰生活共同体「ラバディ教団」に入団したが、1690年に母が死去。マリア・ジビーラと娘たちは退団して翌年、首都アムステルダムに移った。貿易拠点であり、金融や造船、ダイヤモンド加工の中心地で、当時のオランダは“黄金時代”を迎えていた。

アムステルダムは「ヨーロッパ第3の大都市で、芸術、科学そして出版の中心地だった。ここには画家、印刷者、地図制作者、版画家、科学者、自然を愛でる人々、そしてマリア・ジビーラにとって重要なことには、美術品を購入できる経済力を持った人たちが暮らしていた」。彼女と娘たちは工房を立ち上げ、画業を開始した。

ときには、マリア・ジビーラが前に出した本の挿画頁を敷き写し、手彩色を施した絵を販売した。そして、アムステルダムへ持参した銅板で新作の版画を刷った。全く新たに植物や花や鳥や昆虫の線描画を制作することもあった。

当時のアムステルダムには世界中から珍しい動植物の標本、色彩豊かな蝶や甲虫の標本なども集まってきた。「母娘が絵画制作で得る収入に加え、マリア・ジビーラの保存標本の売買による稼ぎが増えていった」という。

南米スリナムへ「命がけの旅」断行

「マリア・ジビーラが最も強く興味をかき立てられた動物標本は、南アメリカ大陸北東沿岸のスリナムから運ばれてきた」。熱帯に位置するスリナムは当時、オランダの植民地だった。彼女は大胆にも大西洋を横切ってスリナムに向かう船旅を断行する。

大旅行の費用を捻出するため、マリア・ジビーラは「自身の作品と収集品を売り払った。旅の危うさを想い、出発前に遺書を認(したた)めた」。1699年6月、アムステルダム港から彼女は次女ドロテアとスリナム行きの商船に乗り込んだ。

52歳のマリア・ジビーラと21歳のドロテアは、科学的探検を目指す世界旅行者になった。日中は海面にカメ、クジラ、イルカやトビウオが姿を現し、夜は果てしなく満天の星で、初めのうち、この航海は心躍るものだった。しかしながら海にはまた、略奪が生業(なりわい)の海賊や船を難破させるハリケーンの恐怖があり、大西洋の三角波は誰をも船酔いで苦しめた。船での居住にはプライバシーも快適さもなかった。

海上にあること2カ月。母娘は同年8月、ようやくスリナムに到着した。二人はこの植民地の首都パラマリボで小さな庭付きの家に住み、2年間にわたって昆虫の研究を中心に科学調査を続けた。ときには熱帯の密林に分け入り、奇妙な昆虫やタランチュラ、極彩色のオウム、トカゲや蛇にも目を奪われた。

マリア・ジビーラがスリナムで目撃したのは自然界だけではなかった。サトウキビ農園などのヨーロッパ人農園主は労働力としてアフリカから奴隷を連れてきた。土着の先住民を「インディアン」とか「奴隷」と呼んで使った。彼女は非人道的な奴隷制には明確に反対の立場だった。

スリナムは年間を通じて平均気温が摂氏27~32度、平均湿度は80~90パーセントと高温多湿の熱帯気候。マリア・ジビーラは「蚊が媒介したマラリアだったと思われる」重篤な病に罹った。1701年春から帰国の準備に入り、3カ月に及んだ帰路の航海を経て同年9月、アムステルダム港にたどり着いた。彼女は友人に宛てて「ほとんど命がけの旅だった」と書いた。

代表作『スリナムの昆虫』を出版

スリナム滞在中、マリア・ジビーラは動植物の標本をオランダに送り続けた。帰りの船には大量の標本類だけでなく、生きたままの幼虫や花の球根、アルコール漬けの1匹のワニまで積み込んだ。現地で雇っていた先住民の女性1人も、新しい本の出版を手伝ってもらうため、アムステルダムまで同道した。

『スリナムの昆虫』の図版、左は「ベニサンゴバナとシロスジフクロウチョウ、アシナガバチ」、右は「ブドウとスズメガ」=本書112-113ページ
『スリナムの昆虫』の図版、左は「ベニサンゴバナとシロスジフクロウチョウ、アシナガバチ」、右は「ブドウとスズメガ」=本書112-113ページ

1705年、マリア・ジビーラは手彩色銅版画集『スリナムの昆虫』をオランダ語もしくはラテン語の本文付きで出版した。彼女は序文で次のように書いた。

本書はイモムシやウジムシの研究90編から成り、それらの色や形が脱皮の際にいかなる変化を見せ、最後にはどんな蝶、蛾、甲虫、蜂および蠅に変態するかを示した。これらの小動物はすべて、彼らが特に摂食する植物、花、果実の上に描いた。さらに、西インド諸島の蜘蛛、蟻、蛇、蜥蜴と珍しい蟇(がま)や蛙の発達過程も取りあげた。現地のインディアンたちの話に基づいて描いた一部の例外を除き、すべては私がアメリカで観察し、生きたままを描いたものだ。

この本には横14インチ(約36センチ)、縦21インチ(約53センチ)と大判のページに60点の図版が掲載されている。変態の段階を図示し、それぞれの絵の向かい側のページに科学的な観察記録を配した。原住民の女性たちからの聞き書きで、植物、花、昆虫の食用あるいは薬用の仕方についての情報も盛り込んだ。

『スリナムの昆虫』は、臨場感あふれる精密な絵と科学的正確さが特徴で「ヨーロッパ全土の芸術家、科学者たちの称賛を獲得した」。まさにマリア・ジビーラの代表作と言えるだろう。

時代を先取りした自立した女性

マリア・ジビーラは晩年の1715年、卒中に見舞われ、もはや仕事を続けることができなくなった。1717年1月13日、『イモムシの本』完全版の刊行を目前にして、天に召された。享年69。

古稀まで人生を全うした彼女は、自立した女性の先駆けだった。スリナム行きは友人や知人が必死に止めたが、本人の固い決意は揺るがなかった。そればかりか、ヨーロッパから「新世界」へと羽ばたき、飛躍を遂げたのである。

こうしたマリア・ジビーラの前向きな姿勢は、信仰とも関係しているのではないか。ルターの宗教改革を引き継いだジャン・カルヴァン(1509-64年)の教えは、勤勉に働くことで富を得ることを必ずしも否定していない。彼女が工房を設けたアムステルダムでは当時、「女性にも財産を持ち事業を営む法的権利があった」という。

本書では「この350年以上前の芸術家、科学者にして冒険家は、時代のはるか先を行く女性だった」と讃えている。

本書の原題は『Maria Sibylla Merian: Artist, Scientist, Adventurer』で、2018年にイングランドで出版された。著者二人も女性である。

日本語版は箱入り風の凝った装丁だ。『スリナムの昆虫』ほど大判ではないものの、ほぼ毎ページに図版があり、マリア・ジビーラの美しい作品も盛りだくさん。見応え満載の一冊である。

59 x 50.5 cm |; Öl auf Leinwand- links modern angestückt und auf Holzfaserplatte aufgezogen; Inv. 436

『マリア・ジビーラ・メーリアン 蟲愛ずる女 芸術家|科学者|冒険家』

サラ・B・ポメロイ&ジェヤラニー・カチリザンビー(著)
Kohtaroh“Yogi”Yamada(訳)
中瀬 悠太(監修)
発行:エイアンドエフ
発行日:2022年3月1日
価格:3740円(税込み)
B5変型判:168ページ
ISBN:978-4-909355-29-4

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