【書評】肖像面が隠し持つ表と裏:石沢麻依著『月の三相』

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ドイツに住み、昨年にデビュー作で芥川賞を受賞した著者の第2作品である。少女の肖像画ならぬ「肖像面」がなくなって、それを探し求める主人公たちが、東西ドイツ分断の歴史の悲しさを知り、またコロナ下で顔形だけでの差別も体験していく。

舞台は旧東独の「月の裏側」のような街

旧東独の森に囲まれた架空の街・南マインケロートが舞台。ドイツ語で「月の裏に住む」と言うと、時代や流行に取り残されたことを表すが、この街は「月の裏側」のような所だった。発展して自由のある西独に脱出した住民も少なくない。

この街では10歳になると自分の顔をかたどった肖像面(ポートレートマスク)を作り、毎年のように自顔をそこに写し取らせていく習慣があった。肖像保管所という特別な建物もある。そこに勤務する主人公の望(のぞみ)は、日本を離れて10年以上ドイツにいる。

望はかつて東西の壁があったベルリンの骨董(こっとう)屋で、眠る青年の顔をした木彫りの面に出会ったのが縁で、この街にたどり着いた。あの面は壁ができる前に西側に向かう青年が、旅費を得るため売ったものらしい。

フローラという女性の肖像面が「逃亡」あるいは「失踪」したことから、ストーリーはゆっくりと展開する。面が逃亡とはおかしな話だが、本書はこうした奇想天外なことが続く。

フローラ面の所有者は、肖像保管所で望と同じ仕事をしている初老のフランク。周囲はフローラについてあまり知らなかったが、二人の関係がだんだんと明らかになっていく。

フランクはフローラの面に服を贈っていた。しかも、数年前からは若い女性の服ではなく、彼と同年配のものを。フローラの面は傾けると、少女の顔から、年齢を重ねた優雅で威厳のある顔に変化した。年齢が全く違う二つの女性の顔が混ざり合った変容面だった。

遠い昔、少年フランクが地元の奇病の「眠り病」で寝込んでいる間に、蝶捕り仲間だった少女フローラが街から姿を消してしまうという悲しい思い出があった。彼女も西側に行ってしまったのだろうか。フランクは習慣には従わずに自分の肖像面は作らない。その代わりに、少女の面を作らせて長い間、大事にしてきたのである。

コロナ下でのアジア人への差別

この肖像保管所には、ドイツ生まれのベトナム人、グエットも働いている。父はベトナム戦争の孤児で、幼い時にドイツ人夫婦の養子になった。母も家族全員で戦争を逃れ、西独にやってきた。ドイツ生まれのグエットはドイツ語を普通に話せ、舞踏家としても活動しているが、英語で話しかけられることが多い。

望もグエットも外見のせいで、数年前のパンデミックが始まってから、冷たいむき出しの視線にさらされ続けた。通りを歩いていると、向こうからきた少女がわざとらしく手をマスクにして離れていった。望は白い面をかぶった4人ほどのグループに襲われる。「アジアだ」「帰れ」。ビール瓶が投げられ、足をかすめて砕け散った。

望は肖像保管所で働くドイツ人の面作家(面作り)のディアナの家に駆け込んだ。望が事情を話すと、ディアナは面かぶりの連中のことを強い言葉でののしり、こう言う。

「顔で排除する人たちは、面の表も裏も関係なく何も見ることができない。だから、あなたの顔ではなく、薄っぺらい印象を面に仕立てて暴力を振るった」

光が当たらない裏側も月の一部

ディアナは、面を包む両手は窓越しに見える夜空の月の形を表しているから、面は月につながるものだと考えている。月は表と裏の両面があるが、見られるのは常に表だけ。太陽の光を受けた表側は、当たり方によって月の相を変え、印象も移ろいゆく。太陽光が当たらない月の黒い陰の部分も、月の一部だ。だから、彼女は面の「裏顔」は月の裏側につながると思って、顔を彫っている。

満月に近い夜、ディアナが作った月の三相、すなわち新月、半月、満月の面を用いて、グエットらによる幻想的な舞踏の会が開催され、本書は静かに終わる。

登場する中心人物の名は、望が満月(望月)に由来し、グエットが翡翠(ひすい)の緑色の月、ディアナが月の女神で、すべて本書名の月にちなんでいる。また、東西ドイツの話に、南北で争ったベトナム戦争を加え、さらに面と顔から連想させる「差別」をコロナ下につなぎ合わせるなど、著者の練った構成が感じられる。

その一方で、著者の芥川賞受賞の前作品も一部で難解だと指摘されたが、本作も大きな山場がないまま進み、望を除く登場人物はすべて外国人なので、難易度はさらに高くなっている。読者は丁寧に読み続けていかないと、著者に置いてけぼりにされるので、読破するには覚悟がいる作品だ。

『月の三相』

講談社
発行日:2022年8月23日
四六判:232ページ
価格:1870円(税込み)
ISBN:978-4-06-528838-2

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