【書評】多和田ワールドを堪能できる長編3部作の完結編:多和田葉子著『太陽諸島』

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昨年秋、全米図書賞翻訳文学部門で多和田葉子の『地球にちりばめられて』は惜しくも受賞を逃したが、英訳版の『Scattered All Over the Earth』は、米『TIME』誌が選ぶ2022年の必読書100冊に選ばれている。同作に続く長編となる『星に仄めかされて』と『太陽諸島』は、いずれ翻訳される予定である。今回は、最終刊となる『太陽諸島』を紹介してみる。

『地球にちりばめられて』は、欧州に留学中、母国が消滅してしまった新潟出身の主人公のHirukoが、同郷人を探して旅に出る物語だった。彼女とともに旅をする仲間として6人の登場人物が描かれるが、彼らは人種や国籍、言語も異なっている。

デンマーク在住の「クヌート」は言語学を研究する大学院生だが、Hirukoとの出会いをきっかけに、一緒に旅をすることになる。最初に訪ねたのはドイツで開催予定の「ウマミフェスティバル」。そこで講演する「ナヌーク」は、「旨味」を研究する日本の料理人という触れ込みだが、実はグリーンランドで生まれ育ったエスキモーだった。この地でHirukoは、インド人の「アカッシュ」とドイツ人の「ノラ」と知り合う。アカッシュはトランスジェンダーで、女性として生きようと決意し、赤色系統のサリーを身にまとっている。博物館に勤務し、環境問題に敏感なノラはナヌークの元恋人である。彼らもHirukoの旅に加わる。

多和田葉子さん(共同)
多和田葉子さん(共同)

一行が次に訪ねたのはフランスのアルルだった。その地に日本の福井から来た「Susanoo」と名乗る寿司職人がいるという。だが、当人に会えたものの、彼は失語症で母国語を話すことができなかった。続編の『星に仄めかされて』では、クヌートの紹介で、「Susanoo」をコペンハーゲンの病院に連れて行き、失語症の専門医に診てもらうことになった。

ここでの波乱が、『星に~』の主要なストーリであるが、彼らの間には、奇妙な連帯感と目的意識が生まれている。ここまで、出自の異なる彼らの交流が、読者に言語を超えたコミュニケーションの在り方を問いかけており、それが一つの読みどころになっている。

境界地帯が戦場になってしまう可能性

『太陽諸島』では、言葉を取り戻した「Susanoo」も加わり、今度は6人でHirukoの母国を訪ねる旅に出る。故郷の島国は消滅してしまったのか。確かめることにはたして意味はあるのか。それぞれの思いを抱えて、一行はコペンハーゲンから郵便船に乗り、バルト海を東へ進む。途中、ドイツのリューゲン島、ポーランドのシュチェチン、カリーニングラード、ラトビアのリガ、エストニアのタリンと沿岸の港町に停泊し、ついにはロシアの古都サンクトペテルブルグへと向かう。

本作もまた、著者の問いかけるテーマは、国境、国籍、人種、言語、宗教、さらには環境問題、ジェンダーと多岐に渡っている。この船には、ロシア人や東欧、北欧圏から様々な事情を抱えた人々が乗り合わせており、さらには停泊地でポーランド生まれの亡命者など謎めいた人物が次々と乗船してくる。ここでの興味は、多種多様な人々の言語によって多彩な議論が繰り出されていく点だ。既成概念について、いくつも考えさせられるポイントがある。ここでは、私にとって強く印象に残った会話を紹介しておきたい。

「ひとつの国が消えてしまうことがあるか」というアカッシュの問いかけに、ロシア領だった時代にポーランドで生まれたという亡命者が言う。

「ポーランドにとっては国がなくなるという事件はそれほどめずらしくはない。だから国よりも町の方が信用できる。町というものは石やレンガでできているから、そう簡単には消滅しない。国は書類上の約束事に過ぎない、つまり紙でできている」

ロシアの飛び地となっているカリーニングラードを一行が訪ねたときのこと。ウラジオストックで生まれ、結婚によってこの国の住人となった男が言う。

「ヨーロッパは我々を仲間に入れようとするけれど、もし仲間に入ってしまったら我々はB級市民扱いされるでしょう。そんな風に誇りを傷つけられるくらいならば我が道を行こうと考える人も多いんです」

さらにはナヌークの「西ヨーロッパが領土を広げるために攻めて来るなんてことは、ありえないと思うのですが。」という問いかけに、こう答える。

「それは確かにないでしょう。でも、融資したり、民主主義を広めたりして、じわじわと東欧を自分の仲間に引き入れようとしていることは確かです。それに腹を立ててこちらの中央政府が相手を威嚇すれば、境界地帯が戦場になってしまう可能性がある。それが怖いんです」

バルト海沿岸はいくつもの国が国境を接しているが、古来より支配者が何度も交替し、その度に国名や国境線が変わっていった。一行が乗る船中もまた人種の坩堝(るつぼ)である。そして船はバルト海の東の果て、サンクトペテルブルグに行きつき、再び西へと向きを変え、フィンランドに向かうことになる。Hirukoらは、無事、目的を達成できるのか。

「もう方向まで失ってしまった。答えの出ない旅だね。」と尋ねる仲間に、「答えは道中、すでに何度も出ているのかもしれない。それが答えだったと気がつくのは過去を振り返ってみた時のこと」と答えるHiruko。祖国とは、故郷とは何かという問いかけが重い。

それだけに、最近のドイツの国情に触れた著者の分析が気になっている。

「亀裂が入った社会では信頼感が枯れて不安が膨張し、煽動にかき回されやすくなり、脆い社会になると言われる。危うい年が始まった。」(朝日新聞2月10日掲載『ベルリン通信』より)

『太陽諸島』

『太陽諸島』

講談社
発行日:2022年10月18日
四六版:335ページ
価格:2090円(税込み)
ISBN:978-4-06-529185-6

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