【書評】核時代は終わっていない:大江健三郎著『ヒロシマ・ノート』

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先日、広島市の大型書店で、もう60年近く前に出版された「古典」が、店内に入ってくる人々の目を引くような棚に、表紙を見せるようにして縦積みされているのを目にした。ノーベル文学賞を受けた日本人作家で、ことし3月に88歳で死去した大江健三郎が1965年に世に問うた、エッセイでありルポルタージュである「ヒロシマ・ノート」だ。

大江が最初に広島への取材に赴いたのは、1963年のことになる。当然ながら、広島を取り巻く社会状況や国際環境そのものは、この60年間で変わった側面の方が大きい。まず何より、広島原爆の被害に遭いながらも生き延びた人々、つまり被爆者の社会の中での立ち位置が変わった。厚生労働省によると、被爆者は、長崎で被爆した人々も含めて2023年3月末現在で日本国内に約11万人いる。平均年齢は85歳を超えた。

この本では、健康なはずの若者の生が原爆症によって、むごたらしく断ち切られるさまが、被爆後20年近くなっても日常的に続く広島の状況が描かれ、大江は「広島は人類全体の最も鋭く露出した傷のようなものだ」とたとえている。だが、今の広島ではその傷が「かさぶた」に覆われたような状態にある、とでもいえばよいだろうか。

では、核兵器の脅威は消え去ったのか。答えは明らかにノーだ。広島・長崎を最後に核兵器は現在まで、幸いなことに戦時下で使用されていないが、再使用のリスク自体は、厳然としてなお存在する。2022年春以来、ウクライナへ国際法を度外視して侵攻したロシアが、核使用も辞さないという威嚇を度々重ねていることで、その現実が改めて浮き彫りになった。

大江がこの本で、「鈍感さ」あるいは「頽廃」の具体例として批判した、朝鮮戦争の最中に、再びの核兵器使用を被爆者に向かって論じたという米国通信社の東京支局長のような人々が抱く考え方や、大江の表現を借りれば「平和をまもるための威力としての核兵器保持」を説く思想、つまり核抑止論も依然として、大国の論理として保持されている。

核時代は終わっていないのだ。むしろ、鋭角な悲劇性が見えにくくなった分、大江がこの本に託した警告と希望もまた、私たちが無為でいれば、忘却の彼方へ押しやられてしまいかねない。

核時代の生と死の尊厳

大江は、いわゆる「原爆の地獄絵」の惨劇の時だけを取り扱っているわけではない。プロローグの「広島へ…」で、本を通じて最初に登場する、名前のある特定の個人の死は、長崎の被爆者であり詩人だった人物のものだが、それは、自死だった。「被爆者はすべて原爆の後遺症で、悲劇的な死をとげねばならぬものであろうか」と手紙で綴ってきたある医師からの問いかけとして、この詩人の自死は「原爆後遺症として非人間的、没個性的に一括されるのでなく、ひとりの生をいきた人間の、いかにもそのひとらしい死を、原爆の手からはなれて遂げようとしたのではないか」と指摘された経緯があったと、大江はあえて言及している。

大江はほかにも何人もの自死のエピソードを綴っているが、それらの行為を決して否定せず、個人が「威厳」(大江はフランス語のdignitéを挙げているので、「尊厳」とも言い換えられるだろう)を保つため、あるいは取り戻すための行為として描いている。

それと対置されるような死の例が、この「広島への最初の旅」の最中だった8月の朝、原爆病院で亡くなった「ひとりの娘」のものだ。彼女の遺体が広島市内・比治山にあった米政府機関「原爆傷害調査委員会」(ABCC)の建物へと「運びあげられ」、無機質で明るい研究施設内で、データとして処理されていくさまを大江は目撃する。

名前のある個人として尊厳をもって死んでいくという権利すら人間から奪ってしまう、という核兵器の本質的な非人道性がここにある。しかもそれは原爆から20年近く経過した時点でなお続いていた、ということが、この対比から浮かび上がってくる。

古典であり同時代の書

原爆・核兵器の圧倒的な非人道性と、やりきれないほどの政治の無為の間には、呆然(ぼうぜん)としてしまうほどの断層が存在する。その落差のはざまで「それでもなお自殺しない人々」のモラルとヒューマニズム、あるいは「人間的悲惨の極をあかしだてることで核兵器時代の人間的希望の確実な見通しをたてようとする」試みに大江は期待する。この姿勢には、核兵器の非人道性に関する国際社会での認識を強め、そこから核兵器を「使ってはならない兵器」として位置付け、核兵器禁止条約の制定へとつなげた、現代の市民社会のアプローチとも通底するものが感じられる。

この本には、原水禁運動の政治的分裂に多くの紙幅を割いている点や、中国核実験への視線など、古くささを感じる箇所もある。それでもなお、大江の文章は随所で、核兵器と原爆についての今も変わらぬ本質を突いている。

被爆した平和運動の参加者たちの意志は、すなわち、《自分たちの味わっている苦しみを、他の人間たちに味わわせてはならない》ということである。

この本は、そうした「真に広島的な人間たち」への大江からの連帯表明で終わる。今や、大江は亡くなり、「真に広島的な」人びとの世代も、歴史的存在となりつつある。だが、この本に描かれた思想は、過去の遺物ではない。60年前、さらに78年前へとさかのぼって連帯できるか、想像力を馳せられるかどうかは、核時代をいま生きている私たちへの問いだ。その意味で、古典であるが、同時代への警告の書でもあり続けている。

『ヒロシマ・ノート』

『ヒロシマ・ノート』

岩波書店
発行日:1965年6月21日
新書判:206ページ
価格:902円(税込み)
ISBN:978-4-00-415027-5

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