司馬遼太郎生誕100年:記念館館長が語る司馬文学の原点

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8月に司馬遼太郎(1923年8月7日~1996年2月12日)の生誕100年を迎えた。今も司馬作品は世代を超えて多くの人々に読み継がれ、映画・テレビで映像化もされている。司馬は歴史小説というものをどう捉え、どのようにして数々の名作を生み出していったのか。司馬遼太郎記念館の館長・上村洋行氏(80)に話を聞いた。

上村 洋行 UEMURA Yōkō

司馬遼太郎記念館館長。司馬夫人の福田みどり氏の弟にあたり、小学生のころ司馬が実家をしばしば訪れたという。1967年、同志社大学を卒業後、司馬と同じ産経新聞社に入社。社会部などに配属され、京都総局長、編集局次長を歴任した後、司馬遼太郎記念財団(2012年に公益財団法人)の専務理事となり、今は亡くなったみどり氏の後を継いで同財団理事長兼記念館の館長を務めている。

館内に広がる大書架の蔵書の世界

目指す住所は東大阪市下小阪3丁目。近鉄奈良線八戸ノ里(やえのさと)駅から歩いて10分ほどの住宅街に司馬遼太郎記念館はある。司馬の自宅とあわせ、隣接の安藤忠雄氏設計による建物は、うっそうとした雑木に囲まれている。記念館の図録『司馬遼太郎』に、館長の上村洋行氏は次のように書いている。

安藤忠雄氏が設計した司馬遼太郎記念館(同記念館提供)
安藤忠雄氏が設計した司馬遼太郎記念館(同記念館提供)

「司馬遼太郎が好きだったクスやシイの木立、ツユクサやナノハナが咲く雑木林風の庭、その中に記念館が誕生しました。ゆるやかに円弧を描くガラス窓の回廊、館内に広がる大書架の蔵書の世界、安藤忠雄さんは見事に司馬遼太郎の創造空間を造形化されました」

正門をくぐれば、すぐそこが自宅であり、案内に従って少し歩くと庭に面した陽光の差す書斎を窓越しに見ることができる。司馬はこの部屋で執筆し、机の上には愛用の万年筆や大きなルーペなどが生前のまま残されている。

安藤氏による記念館は弓型の形状をしており、円弧となった回廊を進むと記念館の入口となる。地上2階地下1階の館内には、地階から天井まで吹き抜けとなった高さ11メートルの書棚が壁面に設えてあり、2万冊もの蔵書が収められているが、自宅には6万冊ほどの本があるという。

2万冊の蔵書を収めた高さ11メートルの書棚(司馬遼太郎記念館提供)
2万冊の蔵書を収めた高さ11メートルの書棚(司馬遼太郎記念館提供)

海外の司馬ファンも記念館来訪

記念館は2001年11月に開館して以来、当初の賑わいが落ち着いてからは毎年2万5、6000人ほどの入館者があるという。館長の上村洋行氏が語る。

「コロナ禍が落ち着いてようやく7、8割まで入館者数が回復してきました。外国の方も1、2割います。当初は安藤忠雄さんの建造物を目当てに海外からいらっしゃっていましたが、今では司馬遼太郎の本は欧米をはじめ中国、台湾、韓国でも翻訳されていますので、司馬作品を読まれて来られる外国の方もおられます」

現在、記念館では生誕100年を期して、地下展示場にて企画展「作家の道へ―司馬遼太郎と『近代説話』」を開催している(~2024年2月18日まで)。この企画では、司馬の新聞記者時代から作家となるまでに焦点を当てており、まさに司馬文学の原点がここにある。8月12日、上村館長はこのテーマで1時間ほどの講演を行ったが、地下1階の150席あるホールは補助席を設けるほどの盛況となり、老若男女の聴衆で満員であった。あらためて館長に話を聞いた。

講演する上村洋行館長(筆者撮影)
講演する上村洋行館長(筆者撮影)

きっかけは戦争体験と新聞記者の経験

「司馬遼太郎が作家の道を歩むきっかけは、戦争体験や新聞記者の時代にあったと思います」と、上村館長は語る。

司馬は、大阪外国語学校(現大阪大学)でモンゴル語を専攻するが、1943年学徒出陣によって仮卒業し、その後、満州に送られ戦車部隊の所属となる。45年本土決戦のため帰国し、栃木県で少尉として終戦を迎えた。産経新聞入社後、京都支局の勤務となり、浄土真宗東西本願寺にあった宗教記者クラブを担当した。

「司馬遼太郎は、戦争について日本人はなんと愚かであったか、この戦争はいったい何だったのかと思う。さらに戦後、宗教の取材を通じて、日本の宗教というものが日本の歴史の補助線をなしていると考える。そして、日本という国とは何なのか、日本人とは何なのか、ということを深く考える。それが司馬の作家活動の原点になっています」

「司馬遼太郎は22歳で終戦を迎えますが、新聞記者になって25、6歳のときに、10年新聞記者をやって人生の勉強をしてから小説を書いていこうと思ったと言っています。新聞記者時代、司馬は西本願寺が出している『ブディスト・マガジン』(のちの『大乗』)という雑誌に、本名の『福田定一』名で短編小説をいくつか書いていますが、ここには後年の司馬作品を思わせるものがあります」

「一枚の絵」の裏に記された作家となる覚悟

上村館長は、1955(昭和30)年が「司馬遼太郎の作家への切り替わりの年ではなかったか」と言う。同年9月、福田定一名で、書き下ろしの小説『名言随筆サラリーマン』を出す。司馬の目でとらえたサラリーマン像を描いたものだが、これは後に文藝春秋社から『ビジネスエリートの新論語』と改題されて出版される。さらに「司馬遼太郎」の筆名で『ペルシャの幻術師』という小説を書き上げ、翌年、講談倶楽部賞に応募し、受賞する。当時、小学生だった上村氏には鮮烈な記憶があるという。

司馬遼太郎記念館の入り口(筆者撮影)
司馬遼太郎記念館の入り口(筆者撮影)

「当時、司馬遼太郎は私の実家によく遊びに来ていましたが、ある日、突然、私に『絵を描いたろか』と言うのです。家に色紙があったので、司馬はクレパスで絵を描いてくれました。夜明け前、丘の上にある1本の木に月光が差している抽象的な図柄でした。それを母が額装して、抽斗(ひきだし)にしまって時折見ていました。そして司馬が亡くなった後、そういえば絵があったなと出してみて、その絵の裏を見てびっくりしたのです」

そこには、司馬の筆で「暁闇に立つ一本の孤梢(こしょう)な樹を描きました。人生へのきびしい覚悟としたかったのです」と記されていた。日付が書かれ「昭和三十年十一月十四日 定一」とあった。この「一枚の絵」は、開催中の企画展に展示されているので必見である。

「『ペルシャの幻術師』を書いていた頃でしょうか。私には、司馬遼太郎がこれから作家生活に入ろうとする覚悟を記したものに思えました。このときが作家への道を選ぶ起点であったろうと思います」

上村館長には、もう一つ司馬のペンネームにまつわる忘れられない記憶があるという。司馬遼太郎の名は、中国前漢時代の歴史家・司馬遷には「遼(はるか)に及ばない」という意味で付けられたといわれている。

「ある日、司馬遼太郎が実家に来たときに、私と母と姉のみどりがいる前で、『司馬』の名前は浮かんでいる。下の名前を『遼』とするか『遼太郎』とするかで迷っている、と言うのです。すると母が、『遼太郎』の方が落ち着くでしょうね、と言ったわけです。もちろん司馬も『遼太郎』にしようと思っていたのでしょうが、そのときの光景はよく覚えています」

「史料を通じて歴史上の人物と自在に話す」

上村館長によれば、司馬が作家としての基礎を固めたのが1957年であった。この年、友人だった作家の寺内大吉と同人誌『近代説話』を創刊する。

「これまでにない枠にとらわれない同人誌を作ろうということで、会合を持たない、同人同士で批判しない、説話の原点に戻して楽しい作品を書く、というのがモットーだった」と上村館長はいう。58年から司馬は京都の仏教紙『中外日報』に初の長編小説『梟の城』の連載を開始。60年に単行本化され、この作品で直木賞を受賞。同人だった寺内大吉、黒岩重吾、永井路子、伊藤桂一、胡桃沢耕史らも後に直木賞作家となる。

司馬遼太郎の書斎(筆者撮影)
司馬遼太郎の書斎(筆者撮影)

その翌年、司馬は産経新聞社を退社し、作家生活に入る。その後、続々と長編連載を手掛け、『竜馬がゆく』(63年初版)、『燃えよ剣』(64年初版)と本格的な歴史小説を執筆する時代に入っていく。『坂の上の雲』の新聞連載が始まったのは68年4月のことで72年8月まで続く。このとき司馬は44歳から49歳だった。司馬は歴史小説をどう捉えていたか。上村館長の見立ては興味深い。

「司馬遼太郎は自分の見方で歴史を考えることを楽しんでいた。その人物が亡くなってすぐでは、知っている人も多く存命しているので取り方がまちまちで定まらない。亡くなって100年後、皆の思いが消え、史料だけが残っていく。その史料を眺め、その人物がどういう人生を送ってきたのか、空想したり、考えたりしているときが自分にとって楽しいと司馬は言っていました」

「では、歴史なら何でもよいのかといえばそうではない。緊張がはじけた時代が面白いと言っていました。それが坂本竜馬や土方歳三、河井継之助であったりするのでしょう。ただし、司馬は一方的にものを見ることはしません。最初は、人物や事象をできるだけ近寄って観察する。そこでいったん、天井に登ってみる。その人物や周辺の人たち、その時代というものを複眼で見ていた。そうやって史料を駆使して人物を造形していったのです。私は、司馬遼太郎は史料を通して、歴史上の主要な人物と自在に話ができたのではないかと思っています」

「親子2代、3代にわたって読み継がれています」

「司馬遼太郎は30歳から40歳の頃、『歴史小説を書くには綿密に調べなければいけないので体力がいる。60歳を過ぎると体力が衰えるので、作品に影響が出る』と言っていました。そのため晩年は『この国のかたち』や『街道をゆく』などの文明論、エッセイに特化していったのでしょう」

上村館長は、20年間、記念館で多くの来館者と話をしてきた。そうした人たちの声から、司馬作品の読まれ方についての感想をこう話す。

「司馬作品は、何度も読み返されています。若い時と中高年になった時。その都度、印象が全部違う。司馬はこういうことを言っていたのかと改めて気付かされたと多くの方が言います。また、人生に迷ったとき、気落ちしたときに読むと励まされると言う人が多い。そして親子2代、3代にわたって読み継がれています。家の書棚に司馬作品が並んでいると、子供が、孫が読んでいくというというのです」

「昨年、好きな司馬作品についてのアンケートを行いました。1600人弱の方から回答がありましたが、8割の方が熱意を込めて司馬作品についての感想や思いを書き込んでくださいました。司馬作品が未来にわたって読み継がれていけばと願っています」

アンケートで好きな司馬作品1位に選ばれた『坂の上の雲』=文春文庫(ニッポンドットコム編集部)
アンケートで好きな司馬作品1位に選ばれた『坂の上の雲』=文春文庫(ニッポンドットコム編集部)

アンケートの結果、好きな司馬作品のベスト3は、1位『坂の上の雲』2位『竜馬がゆく』3位『燃えよ剣』となっている。

司馬遼太郎記念館には静謐(せいひつ)な空気が漂っている。しばし、膨大な蔵書が収められた書棚の前にたたずみ、司馬作品に思いを馳せれば、この空間は「この国のかたち」「日本人とは何か」と沈思黙考するのに貴重な時間を与えてくれることだろう。

バナー写真:文化功労者に決まり、会見する作家の司馬遼太郎=1991年10月25日、東京・港区赤坂のホテルオークラで(時事)

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