【書評】「光る君へ」の時代を理解するのにお薦めの名著:中村真一郎著『源氏物語の世界』

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たとえ現代語訳であっても、いきなり大部の源氏物語を読むのはハードルが高い。当時の風俗習慣や貴族社会の知識がなければ、なかなか物語の本質を理解できないだろう。ここは平易な解説書を読んでから本編に挑戦することをお薦めしたい。数ある源氏本のなかでも、昨年復刊された名著を紹介しよう。

「大家による最良の入門書」

復刊にあたり、末尾で解説を執筆した歴史作家の澤田瞳子氏はこう書いている。

中村は(略)『源氏』をストーリーからだけではなく、登場する女性たちの諸相、はたまた舞台となる様々な場面などから分析し、この長大なる物語を読む複数の切り口を我々に提唱してくれる(略)中村が提示した物語を切り取る様々な断片を手に『源氏』を読めば、この長大なる物語はさして難解なものではなくなる。

著者の中村真一郎氏(1918~1997)は、東京大学仏文科卒。作家として多数の作品と訳詩書を遺し、平安期の王朝文学にも造詣が深い。本書は1968年に刊行されたものだが、NHKで紫式部が大河ドラマ化されるに際し、昨年、復刊された。いわば「大家による最良の入門書」といえるだろう。

『源氏物語』は、全54帖、「四百字詰め原稿用紙にして二千四百枚に及ぶ」大作である。物語は主人公の光源氏を初代として、子、孫(源氏没後を描いた『宇治十帖』)の3世代にわたるが、著者はこの長大な物語を縦横無尽に料理していく。

まず、作者である紫式部の人物像から説き起こし、次いで時代背景となる宮廷貴族の世界、さらには物語に登場する数々の多彩な女性像について解説を進めていく。われわれは読んでいくにつれ、容易に貴族社会の在り様を理解するようになっていくし、著者の筆の力によって、豊穣な物語の世界に引きずり込まれていくことだろう。

『源氏物語』の女性像

澤田氏も解説のなかで触れているが、本書で最も興味深いのは第Ⅲ章の「『源氏物語』の女性像」である。著者によれば、

(光源氏は)敢えて言えば女性の蒐集家であり、多様な女性のその多様性を愉しむ美食家である。だからこそ彼の女性関係は複合的で、同時に何人もの女に愛を分け与えている。

一方で源氏は単なる美女家、蒐集家ではなく、いわば日常生活の上の方に、一生を通じて「夢の女」の姿が存在していた。その根元にあるのは、彼の記憶の中にはない、彼を生むと同時に死んだ母親の面影であり、この女性憧憬に彼の生涯は貫かれた。

そして著者は、源氏が愛した「個性豊かな」女性たちを、ひとりひとり現代の恋愛観と比較しながら考察していく。光源氏の父である帝の女御(にょうご)のひとり、「藤壺」は、母・桐壺更衣(きりつぼのこうい)に瓜二つであり、それ故に源氏にとっては「永遠の女性」となった。源氏は12歳で元服すると同時に4歳年上の「葵の上」と政略結婚するが、葵は「美しいけれども、気持の優しさに欠けて」いる。一方で、前皇太子の未亡人である「六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)」は生涯の恋人となる。

後年、源氏は幼いときに引き取った「紫の上」と、さらには晩年に「女三の宮」とも結婚するが、ふたりは憧れの女性、藤壺の血縁であった。こうした正妻以外にも、言いなりにならない「空蝉(うつせみ)」や、何の疑いもなく源氏を受け入れる「夕顔」、容貌が並外れて醜い「末摘花(すえつむはな)」、はては60歳に近い好色な宮廷女性「源典侍(げんのないしのすけ)」とも浮名を流す。著者は多彩な女性群をどう評しているか。

現代の価値観からすると眉をひそめる向きもあるかもしれないが、著者も記している通り、この物語を理解する上で踏まえておくべきは、当時の貴族社会は一夫多妻であり、当時の結婚生活は同棲ではなく妻の実家へ夫が通う「通い婚」であったことだ。それは「恋愛状態の延長」とも捉えられ、愛妾の存在も一般的で、「色好み」は宮廷社会での「実生活の反映」であったと分析する。

当時の貴族社会では、有力者は娘を帝に入内(じゅだい)させ、その娘の生んだ皇子が次の帝位につけば、幼い新帝の縁戚となり、摂政、関白、太政大臣など高官職に就いて政権を牛耳ることができる。源氏物語の大半を占めるのは、光源氏と彼を取り巻く女性たちとの恋愛の描写だが、紫式部はその背景にある宮廷政治をも巧みに取り込んで、大河小説に仕立てている。

「道徳的に見たら碌(ろく)なことは書いてない」

本書の結びとなる第Ⅹ章「平安朝の女流文学」の論考では、その書きっぷりはまさに中村真一郎の真骨頂であろう。『源氏物語』は何かの役に立つ教養の文学なのか。著者は「とにかく初めから終わりまで、道徳的に見たら碌(ろく)なことは書いてない」「好きな人には、忘れられない魅力を持った古代末期の物語だというに過ぎぬ」と一刀両断するのである。

では、『源氏物語』の魅力はどこにあるのか。「紫式部は天才的な小説家」と絶賛する著者は、こう書いている。

『源氏物語』は、古代王朝のデカダンスの時代の、ひとりの宮廷女性が、鋭い観察眼と豊かな想像力とを働かせて書いた物語で、当時の京都に住んでいた、ほんのひとつまみほどの貴族を愉しませることを目的とした作品なのだ。

そうであるにもかかわらず、「小説が時代の鏡だとすれば、『源氏』は腐敗した摂関政治の時代の、腐敗した貴族社会の空気を恐ろしいほど生き生きと伝えて」おり、それは現代人のわれわれにとっても、

歴史書とちがって小説であるために、その時代の人々の心のなかへも入ることができる。そして、平安期の人々の愛情や憎しみや嫉妬などの心の動きが、その社会的慣習の違いにもかかわらず、ほとんど全く現代の人間と同じであることを知って、感慨に耽(ふけ)らないではいられない。

紫式部と同時代のライバル『枕草子』の作者清少納言との比較論もまた秀逸である。本書を通読してのち源氏物語に取り組めば、千年前の人々がわれわれと等身大のものとしてよみがえってくるであろう。

『源氏物語の世界』

『源氏物語の世界』

新潮社
発行日:2023年5月25日
新潮選書:223ページ
価格:1760円(税込み)
ISBN:978-4-10-603898-3

書評 本・書籍 源氏物語 平安時代 紫式部 藤原道長 光源氏