【書評】没後50年、新資料を多用した大著:増田弘著『政治家・石橋湛山研究 リベラル保守政治家の軌跡』

Books 政治・外交 歴史

戦前はジャーナリスト、戦後は保守合同した自民党初の総裁選で多数派を破り総理大臣となるが、在任65日で病気のため退陣した石橋湛山。戦後政治史に異彩を放つ政治家の没後50年に、新資料を多用した600ページを超える大著が刊行された。

国会議員が超党派で「湛山研究会」設立

湛山は東洋経済新報の記者として大正期の1910年代から、領土拡張をめざす「大日本主義」に反対し、旧来の領土での平和的発展は可能だとする「小日本主義」を掲げた。言論統制下でも戦争反対を訴えた。敗戦で植民地などを全て失った時点で、湛山は「日本は本来の領土で平和的、経済的な国家発展は可能」と断言。その主張が正しかったことは、後に日本が世界2位の経済大国に発展したことで実証されている。

超党派の国会議員約40人が昨夏、「石橋湛山研究会」を立ち上げた。米中対立や台湾有事危機など、わが国を取り巻く国際環境が厳しくなる中、与野党の議員が日本の針路を湛山に学ぼうとしているのだ。

湛山は敗戦の翌年(1946年)、35年に及ぶ言論人生活から政界に転身した。衆院選には落選したが、吉田茂の第1次内閣の蔵相に抜てきされた。積極財政を提唱し、その年度は歳出560億円、歳入305億円、差引不足255億円の大赤字予算をまとめた。平和国家建設を目指し、生産を再開して経済再建のため、緊縮財政を退けたのである。

だが物価高騰が起き、「インフレ財政」だと批判された。湛山は連合国軍総司令部(GHQ)に対し、歳出の36%を占めていた「終戦処理費」(占領軍の日本駐留経費)こそインフレの要因だと指摘して、同費の削減を求めた。GHQは経費減少に応じたが、湛山は反占領軍の中心人物とみなされ、公職追放された。吉田首相が守ってくれなかったことも、後の政界に影響を与える。

1951年、湛山は4年の追放生活を終え、政界に復帰した。当時、GHQ経済顧問のドッジが指導した、インフレ対策の「超均衡財政」をはじめとする経済政策「ドッジ・ライン」が行われていた。インフレは収束したが、デフレが進行し、失業と倒産による「ドッジ不況」が引き起こされた。

長い抑圧生活から解放された湛山は、自分のことを「インフレ政策支持者」と批判したドッジに対し、雑誌や新聞で批判の矢を放つ。ドッジの経済思想は古典的であり、「物価騰貴を恐れるあまり、ただ事態を静観するようなドッジ方式では、今日の日本の経済問題は解決しがたい」と反論した。本書によると、戦後の悪性インフレがドッジ・ラインによって収束したという説に対し、湛山が蔵相期に始めた積極財政こそが日本経済を再建、発展させる基盤となったという見直し論が、米大学教授の間でも起きている。

総裁選で湛山勝利と分析していた米国

日ソ国交回復を果たした鳩山一郎の退陣で行われた自民党初の総裁選(56年12月)で、湛山(当時は通産相)は大派閥を率いる岸信介・党幹事長、石井光次郎・党総務会長(後に衆院議長)と戦いを繰り広げる。10人ほどの小派閥にすぎない湛山だったが、石井支持派と「2、3位連合」を成立させ、第1回投票でトップの岸に決選投票で逆転勝利し、72歳で首相となった。

本書は、この総裁選を米国側が東京の大使館、米中央情報局(CIA)からの情報で、日本のマスコミより早く「石橋勝利」と分析していたことを記している。そして米側は、湛山がGHQに公職追放されて憤慨しており、共産中国との通商拡大を望んでいるなど、前任の鳩山以上に日本の意思と行動を示すだろうと予想した。米国は「石橋訪米」を計画するが、湛山が病気のため潔く早期退陣し、米国が期待していた岸が後継者となる。

周恩来に台湾での武力不行使を求める

退陣後の湛山についても、本作に詳しく描かれている。退陣から2年後(59年)、健康を取り戻した湛山は、断絶状態の日中関係改善のため、自民党除名を覚悟で訪中し、総理の周恩来と会談した。

「この極秘会談で、両者は極めて重要な意見を交換していた。湛山は持論である『日中米ソ平和同盟』構想を周に提示し、周から原則的に賛成を得たことと、もう一つは、湛山が中国による台湾への武力の不行使を求め、周がこれに同意したことであった」

今日、大きな問題となっている台湾有事を、湛山は65年前に中国の実力者に提起し、武力不行使を訴えていたのである。湛山がいかに先を読むことができる人物であったかがよくわかる。中国側はこの会談内容が外部に漏れることを嫌い、今なお非公開だ。

日中米ソ平和同盟は、この4か国が集団安全保障条約を締結するという湛山の世界平和構想である。かつての湛山が「小日本主義」を提唱して冷笑された時と同様に、この構想に耳を傾ける人は少なかった。しかし、72年のニクソン訪中で米中和解が実現すると、湛山の構想が空想論ではなかったことを知らされた。

中道保守の新党計画

本書はさらに、国会図書館憲政資料室の資料をもとに、岸首相の安保騒動期、自民党を脱党し、湛山あるいは松村謙三(元文相、農相)を党首候補にした 中道保守の新党結成を目指す動きがあったことを明らかにしている。

湛山は晩年も世界平和を目指し、2度目の訪中(63年)やソ連訪問(64年)を行った。日中国交回復を決断した首相の田中角栄は72年9月、訪中出発に先立ち、病床の湛山を見舞った。日中親善の功績者に敬意を表したのである。

著者は「石橋湛山研究学会」の初代会長で立正大学名誉教授(現・平和祈念展示資料館館長)。すでに湛山関係の6冊の著書を出しているが、本書は半分の章が新資料をもとにした初出で、注だけで58ページになる。湛山研究の第一人者による集大成の大著である。

『政治家・石橋湛山研究』

『政治家・石橋湛山研究』

東洋経済新報社
発行日:2023年10月10日
A5判615ページ
価格:7700円(税込み)
ISBN:978-4-492-06221-0

書評 本・書籍 吉田茂 岸信介 石橋湛山 東洋経済新報