【書評】新事実満載のドキュメンタリー:西野智彦著『異次元緩和-10年間の全記録』

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2023年4月に第32代日本銀行総裁に就いた植田和男にとって、最大の課題は金融政策の正常化だとみられる。あっさり「正常化」と言うが、取りも直さず前任総裁の黒田東彦による異次元緩和が「異常」だったことを意味する。

黒田の政策が「非伝統的」であったのは、誰もが認める。ただ、功罪どちらが勝るのか、については評価が分かれる。

ベテラン経済ジャーナリストの著者は、異次元緩和に批判的な立ち位置にいる。しかし、彼が本書を上梓したのは、「論」を展開するためではない。誰が何を考えどう行動したかを「記録」し、後世の参考にすることが目的だった。

そして、黒田日銀10年間の軌跡を執念深い取材で掘り起こし、それに成功した。本書には、知られていない新事実が満載だ。いくつか挙げてみよう。

黒田時代を振り返る時、リフレ派の存在を無視することはできない。リフレ派とは、構造改革などしなくても日銀が通貨を大量に供給さえすれば、デフレと円高は解消される、と主張するグループ。本書の物語は、その主要人物である内閣府参与の本田悦郎の携帯電話が、東京メトロ・国会議事堂前駅で鳴る場面で始まる。

アジア開発銀行総裁(ADB)総裁だった黒田が、マニラから折り返しの電話をかけてきたのだ。本田はトイレに駆け込み小声で「もし総理が黒田さんを日銀総裁に指名したら、お受けになりますか」と問うた。黒田は、遠回しながら受諾の意向を伝える。当時、黒田と本田の古巣である財務省は、元事務次官で先輩でもある武藤敏郎を推していたのだが、黒田総裁の流れがこうしてできていった。

政策面では、2年間で2%のインフレを目指した量的・質的金融緩和(13年4月、黒田バズーカ)、量的・質的金融緩和の拡大(14年10月、黒田バズーカII)までは大きな成果を上げた。株価は上がり、円高は是正された。これについて、著者の指摘は新鮮だ。

この成果もしょせん為替市場に精通した黒田だからこそできた”個人芸”のようなものだ。(中略)金融政策が為替安定に効くという誤解と幻想を広げたとすれば、これも「負の遺産」となりかねない。

本書の主人公・黒田は、前任総裁の白川方明を理論派の秀才とすれば、天才と言っていいだろう。官僚出身者らしく部下たちが積み上げた政策を尊重するが、自分の信念に絶対の自信を持ち、そこから外れた政策を一蹴する。サプライズ効果も重視した。

「期待への働きかけ」を強調するあまり、「期待を削ぐような発言」ができなくなり、やがて経済の実態を誠実に語ることが困難になる。現実との乖離や矛盾を批判された黒田は、「そういう見方は全く当たらない」「そういう議論は全く無意味だ」などと激しい言葉で記者に反論し、それがかえって日銀の信認と総裁の権威を傷つけた。

しかし、所期の目標である肝心の物価上昇は実現せず、達成の目標年次を何度も先送りし、ついには安倍の関心が薄れたのを機に、年次目標を放棄してしまう。日銀は、次の一手を探った。

マイナス金利や長短金利操作(YCC)は、この過程で導入された。この辺りは、群像劇としての読ませどころだ。

登場人物をもう一人挙げるとすると、前半5年間を企画担当の理事、後半5年間を副総裁として黒田を支えた雨宮正佳だろう。彼は一貫して金融政策の立案に関わってきた。本書の「陰の主役」とも呼ぶべき存在だ。

それまでの伝統的な金融政策を覆した雨宮は、日銀OBからの激しい批判にさらされる。さらに満を持して放ったマイナス金利は、株安と円高ばかりでなく、日銀内の足並みの乱れを招いてしまう。著者は、雨宮ら日銀マンの苦悩を淡々と描写している。ただ、その筆致にどこか温かいものを感じさせるのは、生身の日銀マンを長年にわたり取材してきたからではないかと思う。

最終章「エピローグに代えて」は、黒田の後任総裁に植田が決まるまでをつぶさに語る。

最有力候補だった雨宮は、周囲に自身の「昇格」を明確に否定し、初の学者総裁誕生に向けて奔走する。一方で、首相の岸田文雄は最後まで雨宮の起用にこだわった。面白いのは、黒田が後任選びから微妙に外されていたとみられることだ。

異次元緩和という壮大な経済実験の評価は、後世の歴史家に委ねるしかない。そうだとしても一つだけ間違いないのは、植田日銀総裁の前には異次元からの脱出という「地獄」が待っている―。本書が最も強調したい点は、そこにある。(敬称略)

『ドキュメント 異次元緩和-10年間の全記録』

『ドキュメント 異次元緩和-10年間の全記録』

岩波書店
発行日:2023年12月20日
新書版:256ページ
価格:1056円(税込み)
ISBN: 978-4-00-431997-9

書評 本・書籍 黒田東彦 日銀 異次元緩和 出口戦略 植田和男