【書評】後醍醐天皇、足利尊氏と戦った北朝初代の光厳天皇:荒山徹著『風と雅の帝』

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鎌倉幕府滅亡に続く南北朝の動乱の時代、帝王学を学び、分裂していた皇統を一つにしようと挑んだ天皇がいた。南朝の後醍醐天皇や、裏切りを繰り返す足利尊氏と戦い、地獄を二度も見る体験を経て、山寺の禅僧として亡くなった北朝初代の光厳(こうごん)天皇である。本書は、その生涯を描いた長編歴史小説。

令和の陛下が熟読する「誡太子書」

南朝初代の後醍醐天皇は有名だが、対する北朝の天皇はほとんど知られていない。本書の主人公である光厳天皇をはじめ北朝5代の天皇は、明治末の南朝、北朝のどちらを正統とするかの論争で、南朝正統を決定した明治政府により歴代天皇から外されてしまった。「天皇であったが歴代天皇には数えられていない」存在になっている。

しかし、光厳天皇は現在の皇室にとって欠かせない方である。学問に優れた花園天皇が自ら甥にあたる皇太子(光厳天皇)に書いた「誡太子書」(かいたいしのしょ=皇太子を訓戒するための文書)が今日に伝わる。これを令和の陛下が浩宮時代から熟読されていることで知られている。この帝王学の書が本作の重要な意味を持つ。

廃位され、偽の天皇とされる

光厳天皇がいかに過酷な生涯を送ったかは、本書の書き出しでわかる。

「よもや弓射(きゅうしゃ)の標的にされる日が来ようとは思わなかった。矢はまごうことなくわたしの左腕に突き立った」

「わたし」つまり光厳天皇が、上皇の父(後伏見天皇)、叔父(花園天皇)と都から落ち延びてゆくところを襲われたのだ。

当時の天皇家は二つに分裂し、交互に天皇を出し合う状況だった。後醍醐天皇が倒幕に失敗し、光厳天皇は即位した。だが、在位3年目で隠岐に流されていた後醍醐が再び挙兵し、鎌倉幕府軍と東国に逃避行中の光厳天皇らは、足利尊氏軍の裏切りに遭う。敗北を悟った幕府軍数百人は集団で自害し、死者の山の中で残された光厳と2人の上皇は囚われの身となり、謹慎生活に入る。

京都に戻った後醍醐は、光厳天皇の即位を認めずに廃位させ、偽の天皇「偽帝」とした。後醍醐は隠岐に流されていた間も自分は天皇であり、我が治世は今なお継続しているという宣言だ。

光厳たち嫡系(本家筋)を消し去ろうとする後醍醐の計画が進む。後醍醐は勅命で光厳の姉を中宮にと申し入れ、さらに後醍醐と亡き中宮との間に生まれた内親王を光厳の正室に送り込んできた。両家に男児が生まれて、その子が家を継げば、後醍醐天皇に吸収される形で両統は統合されるはずだったが、結局、男児は生まれなかった。

当たった大乱の予言

自分は無意味な存在かと苦しむ光厳を奮起させたのは、愛する女官との間に男児(後の崇光天皇)が生まれたこと、そして日々続けている筋力訓練、さらに誡太子書だった。

天皇家の嫡男として生まれた光厳は、7歳から父の弟で「学問帝」と呼ばれた花園天皇(すでに上皇)から帝王教育を受けていた。「天皇とは、最高の徳を備えた存在でなくてはならない」と。元服して間もない18歳の皇太子(光厳)に、花園天皇が自書の誡太子書を授けた。

「国に功もなく、民に恵もない。皇子に生まれただけで天皇になるというのは、厳しく戒められるべきことだ」「おまえが即位する時こそは未曾有の大乱が起きる」「皇統の継承は、おまえの徳にかかっている」

誡太子書の予言が当たったのは先述の通りだが、まだ序幕にすぎない。「建武の新政」を始めた後醍醐天皇が足利尊氏によって都を追い出され、吉野に逃れた。上皇となった光厳は弟(光明天皇=北朝2代)、次いで我が子(崇光天皇=同3代)を天皇にして院政を敷く。完全に分断された両統が別々に天皇を出し、二つの朝廷が存在する「南北朝時代」となり、戦乱の世となってしまった。

光厳は「歌の力によってこの乱れた世の中に真の平和をもたらそう」と、勅撰の「風雅(ふうが)和歌集」を自ら編纂した。本書名はこれに由来する。このころは徳政と評価される期間もあったという。

だが、足利幕府に内紛があり、今度は尊氏が南朝と手を結んだ。崇光天皇は廃位され、北朝天皇3代がそろって南朝があった山奥の粗末な家に幽閉されてしまう。二度目の地獄だ。光厳は後醍醐の後継者である後村上天皇(南朝2代)との対面を求めたが会えない。

光厳はある目的を秘めて出家した。5年の幽囚生活を終えて禅僧となった光厳は、ついに後村上天皇と対面する。天皇としては会えなかったが、僧との対面なら許されたのだ。しかし、光厳が誡太子書について語る機会はなかった。

意外にも後村上天皇が見送りをしてくれた。そして、二人だけになった瞬間をとらえて後村上天皇が質問してくる。「天皇とは、何でありましょうや」。実は光厳も皇太子時代に、天皇だった後醍醐に同じ質問をしていた。

南朝の天皇も本当は北朝の光厳と話したかったが、側近たちが許さなかったことを光厳は察する。後村上天皇が臣下に逆らってまで直接話しかけてきたのは、「恩讐を超え、同じ皇族としての血のなせるわざであったに違いない。(わたしたちは)高祖父を同じくする血族なのだ」。

天皇家中興の祖

光厳は崇光天皇の子、つまり直系の孫である栄仁(よしひと)親王が天皇となることを期待したが、皇位につけなかった。しかし、宮家が創設され、伏見宮初代となる。やがて4代で力尽きた南朝は、北朝に吸収される形で南北朝合一された。そして、栄仁親王の孫、つまり光厳の嫡系が後花園天皇(歴代102代)となり、この流れが令和の皇室につながる。伏見宮家は、今日の皇位継承問題で注目される「旧宮家」の本家である。

後醍醐の天皇中心の政治は「建武の中興」とも言われるが、歴史小説家の著者は「光厳天皇こそ天皇家中興の祖」だという。この国で「唯一無二の家」である天皇家が分裂すれば、世が乱れ多くの血が流れることを本作は教えている。

『風と雅の帝』

『風と雅の帝』(かぜとみやびのみかど)

PHP研究所
発行日:2023年9月26日
四六判409ページ
価格:2530円(税込み)
ISBN:978-4-569-85550-9

書評 本・書籍 後醍醐天皇 光厳天皇 南北朝時代 足利尊氏