【書評】『昭和史発掘』と『日本の黒い霧』を読み解く:保阪正康著『松本清張の昭和史』

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41歳で世に出た松本清張(1909~92)は、小説家だけにとどまらず、古代史や近現代史の研究者でもあった。その作品群はそびえたつ山脈に例えられるほど膨大だが、清張はある時期、昭和の暗黒史に関心を寄せていた。そのノンフィクションの代表作を、碩学(せきがく)の歴史研究家である著者が読み解いていく。

「二・二六事件を語ることですべて説明がつく」

先の終戦から来年で80年を迎えようとしているが、昨今の国際情勢や我が国の防衛政策の進む方向を見据え、令和の時代を「戦前」と再定義する向きもある。本書は松本清張のノンフィクションの代表作『昭和史発掘』と『日本の黒い霧』を取り上げ、その内容を論考していくものだが、著者は「総対的に今日的な視点も感じられる。いや私たちに現実の風景の背後に隠されている本質とは何か、を教えているように思う」と記している。

不確かな時代であるからこそ、改めて「清張史観」と呼ばれる作品を読んでみる価値はあるだろう。本書はその取っ掛かりとなるお薦めの解説書である。

『昭和史発掘』は昭和39年から46年にかけて週刊文春に連載されたものであり、俎上(そじょう)に載せられたテーマは20編ある。この時、松本清張は年齢にして50代から60代、作家として脂の乗り切った仕事となるのだが、主だったものを挙げると、初回の「陸軍機密費問題」から年代順に「石田検事の怪死」「芥川龍之介の死」「満州某重大事件」「五・一五事件」「小林多喜二の死」「天皇機関説」「陸軍士官学校事件」などと書き続け、最後に「二・二六事件」で結ばれる。

これらは、自身が世に出る前、貧しかった青年期にあたる大正末期から昭和11年にかけての出来事である。本連載は、成熟期に差し掛かった作家が暗黒の過去を振り返り、そのときには知り得なかった時代の謎に挑んだ、まさに意欲作といえるだろう。その執筆意図について、保阪氏はこう書いている。

清張史観を成り立たせている二十の事件・事象には、最終的になぜあのような戦争にいきついたのか、という松本の疑問が凝縮されている。(略)『昭和史発掘』は、日本のファシズムがどのように誕生したか、その主たる役割を担ったのは誰か、謀略まがいの闇に隠れている黒い動きとは何だったのか、という図式を示していた。 

「当事者の証言や収集された資料の迫真性や衝撃性」

とはいえ、それは既成左翼の立場に立った視点で書かれたものではない。『昭和史発掘』は多くの読者に支持されたが、その理由は、「当事者の証言や収集された資料の迫真性や衝撃性にあった」からであり、保阪氏は「記録、ドキュメント、ノンフィクションの先駆的な仕事」であったと評価する。

『昭和史発掘』は文春文庫(新装版)で全9巻あるが、そのうち5巻から最終巻までが昭和11年に起こった二・二六事件についてだ。これは圧巻のボリュームである。昭和史発掘と銘打ちながら、そこで止まっているのはどうしたわけか。保阪氏は、松本清張自身の「ふりかえってみていまさら気づくことは、これが日本の敗戦に直接に結びついている点である。その意味で二・二六事件は、これまで歴史上で過小評価されてきた」という言葉を引いて、こう指摘する。

松本は二・二六事件を調べ、多くの資料を手に入れるうちに、昭和史前期を語るには、二・二六事件を語ることですべて説明がつくとの確信を持ったのではないかと思う。

松本の昭和史に対する考え方は(略)そこには怒りがあると見ればその意味がわかりやすい。青年将校はなぜ決起し、どのように権力内部で利用され、そして破滅していったかを丹念に追うことで、彼ら青年将校の怨念を見事に浮かびあがらせている。

松本清張は「陸軍士官学校事件」(文春文庫第4巻)のなかで、「二・二六事件に至るまで互いが因となり果となって縒(よじ)れ合っている」と書いているが、連載で取り上げた19の事件・事象が、すべて最終回の二・二六事件へと収斂(しゅうれん)されていくのであろう。二・二六事件だけは独立の決定稿として全3巻と、研究資料2巻が刊行されている。それほど作家にとって思い入れの深い作品だった。

アメリカの謀略史観で貫かれた『日本の黒い霧』

『昭和史探訪』に続いて本書で紹介される『日本の黒い霧』は、終戦後の占領期に起こった不可解な事件を取り上げたもので、『昭和史発掘』より先、昭和35年、月刊誌『文藝春秋』に12回にわたって連載されたものである。テーマは「下山国鉄総裁謀殺論」「『もく星号』遭難事件」「二大疑獄事件」(昭電疑獄と造船疑獄)「帝銀事件の謎」「推理・松川事件」「謀略朝鮮戦争」など。

松本は『日本の黒い霧』で、これらの事件や事象の背後には、アメリカ側の謀略があったのではないかという見方を貫いている。

という内容で、保阪氏はそれぞれについて論評を加えていくが、この作品群に関しては批判があることも紹介している(例えば大岡昇平との論争)。戦後まだ15年の時点で執筆されただけに、資料の発掘に限りがあり、「着想や推理だけで事件を見ていく」ことに難があったのではないか。保阪氏は「やや牽強付会に過ぎる面」があるとしながらも、こう読むべきだとしている。

『日本の黒い霧』を真実として読むのではなく(むろん真実に近いものも多くあるが)、隠された事実に対して挑んでいくという、昭和三十年代においては先駆的といえる、その戦闘的精神、姿勢こそを読み取るべきではないだろうか。

保阪氏によれば、それと比べて『昭和史発掘』は歴史書として「今でも通用する」もの、なかでもあらかたの資料を収集して編まれた二・二六は「普遍的に残るもの」という高評価だ。

あらためて『昭和史発掘』を手に取ってみれば分かると思うが、同書には綿密な取材と資料を基にしたミステリー作家ならではの確かな人物描写と物語性があり、学術書にはない読み物としての抜群の面白さもある。「そこに人間の顔を描きだして記録してみせた。それが松本の『昭和史発掘』の本質である」という分析は正鵠(せいこく)を射ているだろう。

『松本清張の昭和史』

『松本清張の昭和史』

中央公論新社
発行日:2024年2月25日
四六版:309ページ
価格:2420円(税込み)
ISBN:978-4-12-005752-6

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