【書評】母娘の葛藤をテーマにした最新作を読み解く:村上春樹著『夏帆 The Tale of KAHO』

Books 社会 家族・家庭

7月3日、文芸誌「新潮」に4回にわたり掲載された作品に加筆改稿を経た650枚が、村上春樹の16作目の長編小説として刊行された。前作『街とその不確かな壁』から3年、長編では著者初の若い女性を単独で主人公とする物語である。そこから何を読み取るべきか。

シロアリの巣をなめ尽くす

「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」

主人公は26歳の絵本作家の夏帆。親しい編集者の紹介で初めてデートした年上の男性から唐突にそう言われ、彼女は即座にその意図が読み取れない。

夏帆は思った。

「この男は夏帆の心の動きを瞬時に残らず読み取っている。まるでありくいがその細長い舌の先で、シロアリの巣をきれいに舐め尽くすみたいに。」(第一章「夏帆とモーターサイクルの男」より)

彼はいったい何者なのだろうか。

「いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。そこがあなたのいるべき場所です」

「ふさふさした立派な尻尾を持つ真っ黒なありくい」が、何度も彼女の目の前に現れてはそう告げる。武蔵境は東京都のずっと西となる武蔵野市にある。夏帆は、東京都足立区と埼玉県との境にある下町から引っ越すことになる。どうして武蔵境なのか。(第二章「武蔵境のありくい」より)

物語は突拍子もない謎かけから幕を開け、そこから夏帆の冒険が動き出す。愛読者にはなじみの深い村上ワールドの始まりだ。「ありくいの夫婦」「凶暴なジャガー」「『とぎや』の耳の尖った店主」「シロアリの女王」「モーターサイクルに乗った守護天使」「スカーレット・ヨハンソンという名の猫」といった不思議なキャラクターが登場するのも、これまでの村上作品同様、ファンにとってはうれしい限り。彼らはどんな役割を与えられ、私たちを楽しませてくれるのだろう。

「秘密の通路」をくぐり抜け

物語は非リアルな異界と夏帆のリアルな日常とが交差しながら進んでいく。熱心なファンなら既視感のある作品と思うかもしれないが、著者は初めて女性を単独の主人公に選び(『1Q84』では女性の「青豆」と「天吾」の2人が主人公だった)、「母娘の関係」を主要なテーマにしたところが新境地といえるだろう。夏帆と母親とは、決して対立してきたわけではないが、ある種の葛藤がある。2人の間に漂う微妙な空気を著者は繊細に描写していくのである。

あらすじをもう少し。「凶暴なジャガー」に子供を食い殺された「ありくいの夫婦」は、地球の裏側、アマゾンのジャングルから「秘密の通路」をくぐり抜けて夏帆の家の床下にすみついた。彼らは夏帆の守護者でもある。

主食はシロアリだが、日本に生息するシロアリとは似て非なるもの。夏帆はありくいの夫婦に頼まれて、「シロアリの瓶詰」を密輸する人目につかない小さな店、表看板は刃物を研ぐ「とぎや」の主人を訪ねる。そこから彼女は現実離れした事件に巻き込まれていく。

こう紹介していけば、いかにも童話的、寓話(ぐうわ)的だが、村上春樹ならではの刺激の強い毒がある。詳しくは書けないが、「殺す」という行為が、日常を取り戻すための劇的な要素になっており、夏帆はそのことに苦悩するのである。

「善き者」か「悪しき者」、そのどちらかだ

絵本作家の夏帆は、奇妙な出来事に遭遇しながら、その体験をもとに絵本の物語を編んでいく。10歳の女の子が家族とピクニックに出掛け、森の中でひとりだけ異世界に紛れ込んでしまい、「秘密の出口」を求めてさまよっていくという内容だ。この作中作の進行が、夏帆の置かれた不可解な状況とシンクロして、著者の仕掛けはより重層的になっていく。

夏帆はどんどん追い込まれていく。絵本は「両親が小さな子供たちに読んでやるようなお話だ。ネガティブな話題はできるだけ避けたい」と夏帆は思うのだが、「子供向けの絵本においては、登場人物は『善き者』か『悪しき者』、そのどちらかだ。(略)しかし現実の社会にあっては、善と悪をそれほど明確に仕分けすることはできない」と戸惑っている。「現実と非現実、夢と覚醒──私は、今、いったいどちら側の世界に属しているのだろう?」

夏帆の精神史のようなもの

村上春樹は、刊行に際してのインタビューで、「僕は非リアルのことをよく書くけれど、ファンタジーを書くつもりはない。非リアルとリアルのせめぎ合いみたいなものを書きたいんです」(朝日新聞7月3日文化面)と語っている。

母と娘の関係に踏み込んでいくここからが、本作の最大の読みどころである。夏帆は久しぶりに実家に帰った時、母親の異変に気付く。母親には「悪しき者」の「シロアリの女王」が憑依(ひょうい)していた。放っておけば、そもそもの母親の人格は破綻してしまう。夏帆はどうしたか。

読後感は、心温まるものになっている。著者は「夏帆という女の人の精神の歴史、精神史のようなものとして読んでほしかった」(同)と明かしている。子供から大人の女性になるにつれ、主人公を取り巻く状況は変わっていく。

すべてが解決した後、母親は夏帆に「みんなそうやっていつかはいなくなってしまうのよ」と「穏やかなため息をついた」。成長とともに失われていくもの。それと入れ替わりに得られるもの。本作は、喪失と和解、再生の物語であるのか。

『夏帆 The Tale of KAHO』

新潮社
発行日:2026年7月3日
四六判:352ページ
価格:2860円(税込み)
ISBN:978-4-10-353440-2

書評 本・書籍 村上春樹