日本人留学生が見た武漢封鎖記

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新型コロナウイルス感染症の猛威が世界中を混乱に陥れている。最初にこの感染症がニュースに取り上げられた頃は、「中国の武漢という都市が大変なことになっている」と対岸の火事のように思っていた人も多かったのではないだろうか。中国古代史の研究のため京都大学の博士課程から武漢大学に留学していた宗周太郎(むね・しゅうたろう)さんが、渦中の武漢で綴ったチャーター便で日本に帰国するまでの手記。

今回の新型コロナウイルスの流行はまさに衝撃的な出来事だった。中国湖北省の武漢大学に留学していた私は、事件の渦中にいたと言ってもよいだろう。「日常」が刻々と「非日常」に変化していく様を、平凡な一学生の視点から以下に記すこととしたい。

「対岸の火事」 のんきに初詣

2019年12月、新年を迎える準備をしようという時、未知のウイルスは静かに産声を上げた。12月30日、保健機関が作成した「原因不明の肺炎」に関する公文書が中国のネット上に出回ったことで、多くの人が新型肺炎に関心を寄せるようになった。私が初めて今回の肺炎を知ったのはその翌日の大晦日で、自身から遠くない場所で未知の病気が存在することを知ったものの、特段大きな関心を寄せることはなかった。元日には武漢にある帰元禅寺に初詣に行き、のんきに新年を祝っていたほどだ。

長江中流域の中心都市である武漢には多くの湖があり、風光明媚な水の街
長江中流域の中心都市である武漢には多くの湖があり、風光明媚な"水の街"でもある。封鎖前の大学近くの水辺で撮影。柳が青々としていた

1月6日に外務省からメールが届き、正体不明の感染症に関する連絡を受ける。翌7日、原因が新種のコロナウイルスと特定され、9日に最初の死者が出た頃から徐々に感染症に対する意識が高まっていった。

16日には、日本の国立感染症研究所の検査により、日本国内でも新型コロナウイルス感染者の存在が確認され、これを機に日本での新型肺炎に対する危機感が一気に高まった。

このように、1月中旬までは特に中国以外で危険性を指摘する報道がなされ、新型肺炎への関心が高まっていたが、一方で中国国内では他のニュースを押しのけるほどの大きなニュースとなることはなく、私自身も危機感はなかった。例えば当時のメールのやりとりで、私は「対岸の火事」と評していた。最初の発症地区である漢口地区が武漢大学のある武昌地区の川向うであるからだが、心持ちとしてもまさに他人事だと感じていた。後にその火の粉が武漢市どころか、中国全域、そして世界各地に飛び火することになろうとは、当時思ってもみなかったのである。

感染症の拡大がなければ、今ごろは遊覧船で水辺の景色を楽しむ観光客で賑わっていたかもしれない。封鎖前の時期に撮影
感染症の拡大がなければ、今ごろは遊覧船で水辺の景色を楽しむ観光客でにぎわっていたかもしれない。封鎖前の時期に撮影

映画の中のことが現実に

1月22日、春節を前にして、大学構内もいよいよ静かになっていった。他の地方や外国から大学に来ていた多くの友人はすでに帰郷しており、私は一人武漢の街を歩いていた。武漢大学東門を出てすぐの地域は再開発によって打ち壊しが始まっており、半ば廃墟と化していたが、わずかに残った住民たちは家の中でのんびりと過ごしていたようだ。この頃には肺炎関連の不穏なニュースが増え、外出自粛のムードが漂っていたとはいえ、春節の準備のためか、緊張感はあまりないように見えた。だが、家が打ち崩されて瓦礫も放置されたままのこの町並みは、奇しくも今後の事態を予言するかのように、もの恐ろしげな静寂をたたえて横たわっていた。

武漢大学東門近くの再開発エリアで打ち壊された住居。封鎖直前の時期に撮影
武漢大学東門近くの再開発エリアで打ち壊された住居。封鎖直前の時期に撮影

大きな変化があったのは1月23日未明の武漢封鎖の通達である。午前10時に封鎖する報せを受け、不安を覚えてはいたが、もともと帰国予定のなかった私は何をすることもできず、ただニュースを見るばかりだった。朝のうちに武漢を脱出し、上海に着いた人の話を聞いて、まるで映画のようだ、などと感じていた。実際は後に自分も映画のような経験、政府チャーター便による日本への渡航をすることになるわけだが、この時はそんなことになるとは予想もしていなかった。この日の友人とのやりとりでは「歴史的イベントに立ち会っている」などと捉えていた。

だが帰国を考えていた周りの友人たちは突然の事態にさまざまな対応を見せた。例えば朝のうちに上海に逃げおおせた人もいれば、列車での脱出に失敗するも、高速道路なら脱出できたなどの話が昼頃には話題に上っていた。だが、案の定午後になると高速道路も封鎖され、いよいよ完全な武漢封鎖が始まった。残されたわれわれは、住み慣れた土地とはいえ、異国の地で孤立してしまったのだ。

先輩が帰国を助言

封鎖以後、武漢市以外の場所で、武漢から来た人々に対する差別的な対応を伝える記事が急増する。見えない病原菌に対する恐怖と無知が、少しずつ社会をむしばんでいく様を見ているようで、心が痛んだ。だがこうした差別は中国に限った話ではなく、世界各地で見られ、また日本帰国後も武漢からの帰国者に対する差別的感覚、過剰な反応を実感することとなる。

翌24日、懇意にしている大学の先輩からも帰国を勧める連絡をもらった。この辺りの危機感の差は情報の差というよりは個人の嗅覚の差であるといって良い。結果的に私が日本への帰国を決意したのも、この先輩や周りの方々の助言によるものであった。しかしまだこの時は事態がここまで深刻になるとは思っておらず、一月もすれば落ち着くのでは、などと考えていた。

私の楽観的予想とは裏腹に、日本では外務省が中国湖北省に対する感染症危険情報を引き上げ、渡航中止勧告を出した。中国国内でも23日の封鎖以後、おそらく隠ぺいされていたであろう情報が開示され、急速に患者数が増加する。事態は着実に悪化していたことが、徐々に明らかになる。

1月25日夜、武漢大学は学内に残っている留学生の把握に乗り出した。こうして得られた情報をもとに、週明け27日から食事の配給が始まることとなる。26日武漢市は市内中心部での市民の一般車両の通行を禁止、27日に武漢大学の門が封鎖され、車両通行禁止になる。少しずつ自身の生活圏においても制限が強まっていくことに不安を覚えだしたが、一方で食事の配給が始まったことで、ひとまず生きることはできそうだという見込みが立ち、多少、安堵する。この翌日、大学内にあるスーパーマーケットから連絡があり、生活用品を宿舎の門まで配達してくれることになった。結局、私は利用しなかったが、こうした措置は不安の緩和につながっていた。

大学からは1日3回の食事が配給された。左から昼食、朝食、夕食
大学からは1日3回の食事が配給された。左から昼食、朝食、夕食

後ろ髪を引かれながら帰国を決める

そんな中、日本に帰国できるという話が持ち上がる。日本政府が帰国希望の日本人をチャーター機で帰国させることを決定し、26日の夕方、私のもとにも外務省から希望の調査メールが届いた。その時点では、私自身、まだ日本に帰国する意思が固まっておらず、できることなら武漢に留まりたいという想いの方が強かった。感染症に対する恐怖こそあれ、自宅にいれば安心だし、人の多いところに行く方がかえって危ないのではないかと考えていた。

不安を抱きつつも、帰国をためらっていた私だったが、27日、転機が訪れる。この日、以前帰国を勧めてくれた先輩と、お世話になっている先生から連絡があり、帰国を強く促された。事態の深刻さを痛感し、ついに帰国を決意した。急ぎ各方面に連絡し、政府が手配した帰国計画に参加することを決める。この時の心情については、なお武漢に後ろ髪を引かれる想いはあったものの、心配してくれた人たちの気持ちをむげにはできないというものが大きかった。実際のところ、今でもこの決断が最善だったかは分からないが、心情としてはこの選択をしてよかったと感じている。

帰国「後」の情報なく不安が募る 

1月28日、武漢市への渡航歴がないにもかかわらず、武漢市からのツアー客を乗せた日本人バス運転手の感染が確認され、日本での最初の二次感染例が報道された。日本のニュースを見るにつけ、今回の件は中国の一都市でなく、世界に大きな影響を与えていることを実感し始めるが、同時にそうした世界規模の事件の中心地が不気味なほど静かなものであったことに、奇妙な感覚を持っていた。翌29日夕方、無期限の大学開始延期が通達される。事態の終息は全く目処が立たなくなっていた。

1月29日、武漢市に滞在している日本人を帰国させるための政府チャーター機(第一便)が、羽田空港に到着した。翌30日、前日のチャーター機で帰国した内の3名の感染が確認され、自宅待機に対する世論の反対の声も受けて、武漢からの帰国者は一定期間の隔離を余儀なくされる。しかし、この時点で中国にいたわれわれには十分な連絡がなく、隔離についての具体的な情報はほぼ皆無であった。帰国した後、どのような措置を取られるのか、住居や食事はどうなるのか、家族に会えるだろうか、といったさまざまな不安がよぎる。自分でどうすることもできない状態は、何よりも不安だった。

30日夜9時ごろ、日本大使館よりチャーター機第二便に搭乗可能との連絡があり、その日の深夜1時に武漢大学の正門に集合し、空港に向かうとのことだった。支度を整え、寮から大学正門に向かったが、実はこの時初めて封鎖された大学正門を訪れた。深夜ということもあったが、封鎖以前は多くの人でにぎわっていたここも、静まり返っていた。プラスチック製の封鎖壁が広い正門を覆い尽くしている様を目の当たりにすると、武漢の封鎖というものが自分の生活圏にも起きていたことを改めて実感する。見えない病原菌が可視化されたような恐怖である。

決して死の街ではない!

正門の外は清掃員がいたものの、店のシャッターは下り、街は静かだった。バスの遅延もあったが無事乗車し、空港に向かう。空港への道すがら、車両の通行は少なかったが、皆無ではなかった。公用車だったのかもしれないし、あるいは都市封鎖に業を煮やした市民が外出していたのかもしれない。封鎖され、活動を抑制されていたとしても、やはりここは人が息づく街なのである、決して死の街などではなかった。

渋滞のない武漢の街から空港へ一路向かう。道中、車内で咳払いする人がいた。一瞬どよめく。まさかとは思うが、感染者ではあるまいか……疑心暗鬼はどこにでも現れる。車内は平静を装っていたが、後で同乗者と話したら、やはり不安に思っていたとのことだった。それが素直な気持ちだろう。同じ日本人だろうと、そしてこれから祖国に帰れるとしても、今この空間が安全を保証してくれるわけではない。

空港に着き、閑散とした場で諸手続きを行う。当日はシンガポール行きの飛行機もあり、似たような境遇の人々がいたようだ。荷物を預けた後、予告のなかった検疫用紙に記入することになった。日本語担当者を用意する余裕がなかったのか、中国人スタッフのみが対応しており、若干の混乱が見られた。結局この検疫時の混乱が飛行機出発の遅延の原因になった。

諸手続きを終え、飛行機に搭乗する。ようやく日本に帰れるということで安心、と言いたいところだが、日本に着いてもそこで隔離措置が取られることは予想できた。ただどういった施設に何日間隔離されるかなどの情報はなく、武漢を脱出してもどんな生活が待っているかは分からない状態だった。また、いつになったらこの事態が終息し、再び武漢に戻れるかも不透明な状態だった。危険地帯からの脱出というよりは、一寸先は闇の中をわずかな希望を頼りに這いずり進んでいる、そんな気持ちだった。機内でも体調の確認や飛行機代についての誓約書などいろいろと手続きがあり、満足に眠ることはできなかった。だが無事羽田空港に到着、ついに日本に戻ってきた!

どうかご無事で、また会いましょう

その後は肺炎の検査を受け、政府が指定した宿泊施設に滞在することとなる。当然施設外には出られず、部屋から出ることも極力禁じられたが、食事は毎食用意され、生きる上では問題なく生活できた。そしてこうした生活は2週間以上続くことになる。検査結果が陰性でほっとしたが、まだ今回の騒動は終わらない。武漢からの帰国者に対する日本での反応は必ずしも温かいものばかりではなく、不確定な情報によって人々の心は乱されている。また日本や世界各地でも罹患者は続々と増え、もはやこの地上に安全な土地など残されていないようである。

今回の肺炎流行は未だ終息しておらず、2月に入ってから世界各地で感染が拡大している。武漢にいても日本にいても、この病原菌と戦わなければならないことに変わりはない。最後になったが中国に滞在する多くの友人たちの無事を切に願う。どうかご無事で、また会いましょう。

2020年2月 宗周太郎記

オリジナルの記事は一覧扶桑に掲載されたもので、写真は同サイトからの転載
筆者の協力で、日本語向け記事としてアレンジした

バナー写真 : 封鎖された武漢大学東門(筆者提供)

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