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映画『サンマデモクラシー』:米国統治下の沖縄で「暴君」に挑んだウシ、カメ、ラッパの物語

Cinema 歴史

本土復帰から来年で50年を迎える沖縄。その戦後史の知られざる一面に光を当てた映画が『サンマデモクラシー』だ。一人の魚屋の女将が琉球政府を相手に「サンマ裁判」を起こし、それが本土復帰の運動につながっていくという、一見すると奇抜な筋立てが、れっきとした実話だったことが明らかになる。埋もれた史実を掘り起こし、異色の歴史ドキュメンタリーに仕上げた山里孫存監督に話を聞いた。

山里 孫存 YAMAZATO Magoari

1964年、那覇市生まれ。琉球大学社会学科でマスコミを専攻。89年、沖縄テレビ入社。以後、バラエティーや音楽・情報番組などの企画・演出を手がけ、数多くの番組を制作する。報道部への異動を機に沖縄戦に関する取材を開始。米軍撮影のフィルムを検証し制作した「むかし むかし この島で」(2005年)が数々の賞を受賞。「戦争を笑え 命ぬ御祝事さびら!沖縄・伝説の芸人ブーテン」(06年)は放送文化基金賞ドキュメンタリー番組賞・企画制作賞を受賞した。10年には「カントクは中学生」を手掛け「ギャラクシー賞・選奨」を受賞。18年にはドキュメンタリー映画『岡本太郎の沖縄』を製作。現在、全国で公開中の映画『ちむぐりさ 菜の花の沖縄日記』でもプロデューサーを務めた。ディレクターとしての最新作は民教協SP「サンマ デモクラシー」。

記憶に刻まれた復帰前後の沖縄の空気

『サンマデモクラシー』は、米国の統治下にあった沖縄に生まれた本土復帰運動の流れを、これまでとは違った視点で見渡したドキュメンタリーだ。

監督は、沖縄テレビで長年ディレクターを務めてきた山里孫存氏。1964年生まれというから、この映画にも使われた記録映像にあるような、東京五輪の聖火リレーが到着して沸き立っていた頃は知らなくても、その8年後の復帰前後についてはよく記憶しているという。

「右側通行の道路をアメ車が走り回り、MPという、いわゆるアメリカのポリスが、琉球警察よりも幅を利かせている印象がありました。実家のすぐ裏に基地があって、向こうの芝生はきれいでしたから、よくフェンスの裂け目から忍び込んで遊んでいた。向こう側からも、アメリカ人の子たちが駄菓子屋に来たりしていました。ドルをたくさん持っているから、いいお客さんなんですよ。駄菓子屋のおばぁもブロークンな英語でご機嫌をとったりして(笑)。僕らはフェンスの向こうで見つかると捕まるけど、あいつらがこっちへ来ても捕まらない。その理不尽さは子供心に感じましたね。弟が一度、逃げ遅れて連行されたときは、冗談でしょうけどピストルを抜かれ、弟は殺されると思って泣いたそうです」

テレビの仕事を始めてから、当時の実体験を基に教室コントを書いたことがあった。女子が「山里君にフラーと言われました」と教師に言いつける。教師は真面目な顔でこう諭す。「山里、ダメじゃないか。これからはバカと言いなさい」。復帰運動を中心で担っていた教師たちはある時期、方言でなく標準語で話すよう指導していたのだという。

「先生たちは、日の丸の旗を振って、日本に帰ろうと動いていた。ところが現実に復帰が近づいてくると、おや何だかこれは違うぞ、望んでいた復帰じゃないんじゃないかと疑念を抱き始め、やがて疑念が失望へと変わっていった。子どもながらに先生たちの空気が変わっていくのが分かったんです」

復帰後の変化として山里少年の印象に残ったのは、1セントで買えた駄菓子屋の塩せんべいが、10円に「値上がり」したこと。基地を残した復帰に失望した教師たちが、「復帰はお祝いじゃない」と言い出し、郷土の歴史についての副読本を配るなど、ナショナリズム的な姿勢へ180度舵(かじ)を切ったことだった。

沖縄史の分岐点、知られざる「サンマ裁判」とは

しかし、そうした失望を味わう以前には、沖縄の人々が熱烈に日本復帰を希求した時期があったのも確かだ。戦前戦中の皇民化教育で日本人への同化を迫られ、戦後は一転して統治者の米国から「君たちは琉球人だ」と言われ、一度は沖縄戦で本土の「捨て石」にされたという意識を持ったはずなのに、なぜなのか。

「サンマ裁判」を起こした魚屋の女将、玉城ウシ ©沖縄テレビ放送
「サンマ裁判」を起こした魚屋の女将、玉城ウシ ©沖縄テレビ放送

そんな本土復帰に至るまでの背景を読み解いたのが、映画『サンマデモクラシー』だ。「サンマ裁判」という珍事を思わせる名の訴訟が、実は占領下にあった沖縄の方向性を決定づける事件の1つであったことが明らかになるのだが、テレビマンとして長年、沖縄に関するさまざまな出来事を調べてきた山里監督でさえ聞いたことがなかった。

「同級生のフェイスブック投稿で初めて知りました。彼のお父さんがこの裁判を担当した判事だったというんです」

調べてみると裁判は1966年、ある漁業会社が、「物品税法」(関税)を定めた琉球列島米国民政府(USCAR)の布令が無効であると訴えたもので、のちに「裁判移送」という重大な事態を招き、当時の報道でも大きく扱われていたことが分かった。

裁判移送は沖縄の戦後史に刻まれる大問題で、復帰運動が高まるきっかけの1つと言われている。USCARはこの年、審理中だった2つの訴訟を琉球政府の裁判所から取り上げ、米国民政府裁判所に移すという強権を発動し、沖縄の自治を制限したのだった。2つを合わせ、「友利・サンマ事件」と呼ばれた。立法院選挙で当選した友利隆彪(ともり・たかとら)を失格とする決定に異議を申し立てた「友利裁判」、そして「サンマ裁判」だ。

「これは『第2のサンマ裁判』とも呼ばれていました。ということは、最初の『サンマ裁判』があったことになる。調べていくと、確かにそれ以前、サンマにかけられた物品税が不当であると、魚屋のおばぁが起こした裁判があったのです」

1961年2月から約3年半、琉球列島米国民政府の第3代高等弁務官を務めたポール・W・キャラウェイ(1905-1985)。絶対的な権力者ぶりは「キャラウェイ旋風」と呼ばれた ©沖縄テレビ放送
1961年2月から約3年半、琉球列島米国民政府の第3代高等弁務官を務めたポール・W・キャラウェイ(1905-1985)。絶対的な権力者ぶりは「キャラウェイ旋風」と呼ばれた ©沖縄テレビ放送

戦後、沖縄の人々にも日本の味として親まれるようになったサンマ。しかし1958年の高等弁務官布令17号によって、大衆魚サンマにも20%の輸入関税がかけられてしまう。高等弁務官とは、USCARのトップで、布令は沖縄住民にとって絶対のルールだ。

ところが布令の文書を精査すると、課税品目の中にサンマは記載されていなかったことが明らかになる。そこで、冷凍サンマの輸入販売業者であった玉城ウシなる人物が63年、課税を不当として、納税先であった琉球政府を訴えた。結果は見事勝訴、ウシは59年から納付してきた約4万7000ドル(現代の貨幣価値にして7000万円超)の還付を受けた。

「玉城ウシの裁判があったからこそ、第2のサンマ裁判が生まれた。これが高等弁務官の強権発動を引き起こし、それに対する抗議がどんどん大きくなっていった。こうして、教職員らを中心とする復帰運動の大きなうねりへとつながっていくんですね」

その一連の流れは、映画の中で沖縄出身の噺家、志ぃさーをナビゲーターに、当時の映像や資料、関係者の談話を交えながら、川平慈英のナレーションとともに、丹念に分かりやすく説明されていく。

沖縄の美しい自然をバックに、ストーリー仕立てに歴史を語る志ぃさー ©沖縄テレビ放送
沖縄の美しい自然をバックに、ストーリー仕立てに歴史を語る志ぃさー ©沖縄テレビ放送

「ウシがサンマで戦ったという落語みたいな話に出会ったとき、今までにない沖縄を描けるんじゃないかと小躍りするような気持ちでした。これまでの沖縄ドキュメンタリーというと、どうしても基地問題に結びつく、難しい話になってしまいがちですよね。でもウシさんのエピソードから占領下の沖縄史をたどっていくと、視点が変わるんです。これまで知識としてあった歴史上の出来事を、サンマ裁判の経緯とリンクさせることで、分かりやすく整理できるんです」

こうして山里監督は、弁が立つことから「ラッパ」と呼ばれた名物弁護士・下里恵良、その盟友で米国統治への抵抗運動を展開した瀬長亀次郎ら、戦後の沖縄を語る上で欠かせない破天荒な人物たちを描きながら、サンマ裁判との接点を探っていく。

口八丁手八丁で知られた弁護士、下里恵良(1911-1979) ©沖縄テレビ放送
口八丁手八丁で知られた弁護士、下里恵良(1911-1979) ©沖縄テレビ放送

沖縄の「悲しさ」を越えて未来へ

もう1つ、米国統治下の沖縄を語る上で忘れてはならないのが、ウシら庶民の要求を徹底的につぶしにかかった、「暴君」キャラウェイをはじめとする高等弁務官という存在だ。

「今回、高等弁務官をきちんと描くというのもテーマの1つではありました。いまだに沖縄テレビの編集室の片隅の壁には、先輩たちが貼った、歴代の高等弁務官の名前を記した顔写真が残っています。当時、名前と顔を取り違えては大変でしたから。やはりそれくらい、沖縄を語る上で外せない存在だったはずなのに、復帰から50年近くたった今、その認識がだいぶ薄れてきているんです」

2015年、翁長雄志沖縄県知事(18年没)が、米軍普天間飛行場の辺野古移設をめぐり、当時官房長官だった菅義偉現首相と初会談したとき、その強硬な姿勢をキャラウェイ高等弁務官に例えた真意も、この映画を観れば腑に落ちる。

「あの時代は、高等弁務官という目に見える権力がいて、理不尽なことを押し付けられて、戦う相手が明確だったんですね。沖縄の人々が一つにまとまって突き進んでいくエネルギーに満ちた時代だったなあというのが、あらためてよく分かる。ある意味ではうらやましい。あの時代に生きてみたかった、あの群衆の中に入って声を上げてみたかった、そんな気持ちになるんですよ。今の沖縄にエネルギーのぶつけどころがないせいだと思うんです。沖縄の言葉で『ワジワジー』と言いますけど、そういう我慢できない怒りを、どこにぶつけたらいいのかが分からない時代を生きているんだなあと」

戦後、ジャーナリストから政界入りした瀬長亀次郎(1907-2001)。米国民政府の弾圧と闘い、那覇市長、立法院議員、衆議院議員などを歴任。沖縄の市民から絶大な支持を得た ©沖縄テレビ放送
戦後、ジャーナリストから政界入りした瀬長亀次郎(1907-2001)。米国民政府の弾圧と闘い、那覇市長、立法院議員、衆議院議員などを歴任。沖縄の市民から絶大な支持を得た ©沖縄テレビ放送

そして今、沖縄は新型コロナウイルスという新たな脅威に直面している。少し前まで、人口10万人あたりの感染者数では、都道府県別で全国1位を独走していた。

「沖縄の悲しさが表れましたよね。島なので入り口を閉じてしまえば、(感染の拡大を)抑え込めたと思うんですけど、観光客が来ないと生活できない人たちがたくさんいる。基地の問題もそう言われてきました。基地がなくなったら沖縄の人が困るんじゃないのと。コロナ禍でも、米軍関係者たちは日本の検査を経ずにダイレクトに基地に入ってきますよね。さっきの話のように、僕らはフェンスの中に入れないけれど、彼らは平気で外に出てきて遊ぶじゃないですか…」

観光客が集まる国際通りは、コロナ禍直前までアジアからの訪日観光客で大にぎわいだった。今はシャッターを下ろした店も少なくないという。近くに住み、街の変遷を半世紀以上にわたって見てきた山里氏は、そこに前向きな新しい変化の兆しを感じ取ってもいる。

「玉城ウシが働いていた公設市場は、おばぁたちの話術で売っていたはずなんですが、観光客向けに中国人のアルバイトを雇うようになっていました。それがピタッとなくなった。店を閉めたところも多いんですけど、新しくそこで開業する人たちも徐々に出てきた。お土産屋をやればもうかると考えたこれまでのやり方じゃなく、地元の人もターゲットにできるような商売のアプローチが始まっています。コロナで沖縄ならではの問題があぶり出されて、ここからですよね。ここからどう次の、あるべき未来の沖縄像を考えていくか、そういう復帰50周年になるんじゃないかな。この映画はそのヒントになる。ウシ、ラッパ、カメといった、当時のキラキラした人物たちから『お前ら、今のままでいいのか』と、そう言われているような感じがするんです」

©沖縄テレビ放送
©沖縄テレビ放送

取材・文=松本 卓也(ニッポンドットコム)

©沖縄テレビ放送
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作品情報

  • 監督・プロデューサー:山里 孫存
  • ナビゲーター:うちな~噺家 志ぃさー
  • ナレーション:川平 慈英
  • 音楽:巻く音/Jujumo
  • 撮影・編集:祝 三志郎
  • 製作協力:公益財団法人民間放送教育協会
  • 製作:沖縄テレビ放送
  • 配給:太秦
  • 製作年:2021年
  • 製作国:日本
  • 上映時間:99分
  • 公式サイト:www.sanmademocracy.com/
  • 7月17日(土) ポレポレ東中野ほか全国順次公開

予告編

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