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映画『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』:国立競技場近くから立ち退かされた住民の悲しみと怒り

Cinema 社会 東京2020

未知のウイルスが世界に広がり、1年延期となった東京2020オリンピック・パラリンピック。感染者が増え続ける中での開催に、国民の多くが懸念を抱き、五輪利権への批判が高まった。メイン会場となった国立競技場の建て替えに伴い、長年暮らした住居を失った人々もいる。『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』は、団地の取り壊しが目前に迫った日々の生活風景を記録したドキュメンタリー。監督と出演者の元住民が語る。

半世紀に2度の立ち退き

都営霞ヶ丘アパートは、東京都新宿区霞ヶ丘町にあった10棟からなる都営団地で、道路をはさんで国立競技場の向かいに建てられていた。2016年から17年にかけて、競技場の建て替えと合わせて取り壊された。

映画『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』は、人々がそこで暮らす最後の日々を記録したドキュメンタリーだ。監督は青山真也。撮影と編集も自ら行なった。

解体が始まった霞ヶ丘アパート ©Shinya Aoyama
解体が始まった霞ヶ丘アパート ©Shinya Aoyama

青山監督が触発されたのは、市川崑が監督した1964年の五輪公式記録映画『東京オリンピック』の冒頭。大会エンブレムの日の丸が、輝く太陽へと変わり、続いて建物を打ち砕く巨大な鉄球が映し出される印象的なオープニングだ。「スポーツそのものではないオリンピックについて、映像に関わる私に何かできるのではないか」と考えさせられたという。

そんなときに知ったのが、霞ヶ丘アパート取り壊しの計画だ。国家的イベントは古い建物の解体とともに始まるという、まさに市川崑が映し出したオリンピックの序章が、半世紀を経て繰り返されようとしていた。

元は、戦後まもなく建てられた木造平屋の都営住宅があった場所だ。それが1964年五輪の開催前に、競技場周辺の再開発の一環で、団地に建て替えられ、立ち退かされた近隣住民たちの移転先となった。それが半世紀を経て老朽化し、またもや再開発・立ち退きの対象となったというわけだ。今回で2度の立ち退きを経験した人もいる。

霞ヶ丘アパートの建て替え当時を知る元住民 ©Shinya Aoyama<
霞ヶ丘アパートの建て替え当時を知る元住民 ©Shinya Aoyama

オリンピック以前の既定計画

東京都議会の資料によると、霞ヶ丘アパートの敷地が整備計画に含まれることになったのは2012年7月。独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)が、国立競技場の建て替えにあたり、「バリアフリーに対応した観客動線やたまり空間を確保するため」に決定した。

東京都は翌月、この計画に協力する方針を固め、霞ヶ丘アパートを「撤去団地に決定」したという。その直後、これを決定事項とする一方的な移転の通達が住民に届くことになる。この時点で、ラグビーW杯が2019年に日本で開催することにはなっていたが、東京五輪は未定。スタジアムのデザインすら決まっていなかった時の話だ。

都営霞ヶ丘アパート敷地内の公園 ©Shinya Aoyama
都営霞ヶ丘アパート敷地内の公園 ©Shinya Aoyama

競技場のある神宮外苑一帯は、五輪招致のずっと前から、広告代理店、ゼネコン、東京都、政界が関与する大規模な再開発計画の対象だったと言われている。国立競技場はそれを推進するシンボルであり、その建て替えのためにラグビーW杯と東京五輪が強力な口実となったのだ。

おそらくすべては再開発計画ありきで進められ、イベントはそれに吸い寄せられるようにしてやってきたのだろう。そして2013年9月、2020年五輪の開催地が東京に決まる。霞ヶ丘アパート住民の立ち退きは、もはや有無を言わさぬ既成事実と化していた。

失われていく生活風景の記録

青山真也監督
青山真也監督

青山 オリンピックによって奪われてしまう生活があることを知りました。あのアパートに暮らす人々のリアルな生活の場面を映像に記録しておかなくてはと思いました。

居住するおよそ200世帯のほとんどが高齢者で、伴侶に先立たれた一人暮らしの人も多かった。それでも互いに声を掛け合い、助け合って生活してきたのが分かる。かつては餅つきや盆踊りなど、町内の行事も盛んだったという。

青山監督は、固定カメラの長回しを多用し、淡々と日常の風景を切り取っていく。ナレーションは一切なく、情感を排した映像ながら、取り壊しを唐突に知らされた戸惑い、強引な進め方への怒り、長年の住処を奪われる悲しみ、引っ越しへの不安が画面を通じて伝わってくる。

青山 生活のありのままを撮ろうとしても、カメラが入る時点でそうではなくなってしまいます。でも可能な限りそこに近づけるようにしたかった。どのように撮るのが一番効果的かを考えたときに、三脚にカメラを据えて、静かに観察するように撮影する方法を選びました。

霞ヶ丘アパートの住民には、伴侶に先立たれ一人暮らしの高齢者が多かった ©Shinya Aoyama
霞ヶ丘アパートの住民には、伴侶に先立たれ一人暮らしの高齢者が多かった ©Shinya Aoyama

カメラが回されたどの家にも、長年の暮らしで増えていった身の回りの物が、所狭しと置かれている。やがてこれを整理して、不要な物は廃棄し、必要な物は段ボール箱に詰めていかなくてはならない。片付けに疲れ、かかってきた電話の相手に「引っ越し、泣きたくなるよ」とぼやく女性がいる。

障害者に冷淡な東京都

平成元年にこのアパートへ引っ越してきたという菊池浩司さんは、元の職場の仲間とバンドを結成して活動する音楽好き。撮影当時、部屋にはギターやトロンボーンから、エレクトーン、ドラムセットまであった。

菊池 楽器が多いんですよ。最初はこれで引っ越しするの無理だよなあと思って。前は3部屋あったのが、新しいところは1部屋だけ。なかなか物が収まらない。ドラムなんか、しまったままでもう出せなくなってるんですよ。

青山 菊池さんが移転に反対していた理由に、片腕なので荷物の出し入れができないということがありました。もう片方の腕も障害があって上がらない状態です。収納があっても使えないから、生活するには広いスペースが必要なのです。以前は2DKだったのですが、単身者に用意されたのは1Kのアパートでした。

菊池浩司さんは1932(昭和7)年生まれ。来年は90歳になる
菊池浩司さんは1932(昭和7)年生まれ。来年は90歳になる

菊池 僕は「霞ヶ丘から出ません」と、駄々こねて反対したんだけど、全然話を聞いてくれない。それなら病院に近い青山一丁目にしてくれと。それもダメ、3カ所のどこかにしてくださいって。いくらゴネてもダメで、強く言ってくるんですよね。誰も相談に乗ってくれないし。

菊池さんは熊本で高校を卒業して工場に勤めていたが、ベルトに巻き込まれる事故に遭い、右腕を失った。左腕1本で楽器の演奏や家庭菜園の作業も器用にこなすが、重い物を運ぶとなるとそうはいかない。都は立ち退きに際して、障害者への配慮を一切示さず、福祉団体を紹介するなどの便宜を図ることもなく、担当者の対応は思いやりに欠けていた。

青山 ほかの人たちが退去し出した頃、最後まで反対していた菊池さんは、東京都の職員から連日の訪問を受けました。腕のことなど、移転に反対する理由を話して、みんなと同じような条件では引っ越せないと説明するんですけど、聞いてもらえない。職員が病院にまでついてきて、本当に腕が悪いのか、確かめることまであった。そうこうするうちに菊池さんはノイローゼになってしまいました。

2015年6月22日、都庁記者クラブでの会見で「2度目」の立ち退きについて語る住民 ©Shinya Aoyama
2015年6月22日、都庁記者クラブでの会見で「2度目」の立ち退きについて語る住民 ©Shinya Aoyama

引っ越しを業者に頼むにしても、東京都から出された補償金はわずか17万1000円。引き取ってくれる粗大ごみは5個までで、それ以上は有料だ。ほとんどの住民にとって引っ越し費用は持ち出しにならざるを得なかった。

菊池 この年になって引っ越すなんて思ってもみませんでしたよ。ほとんど1人でやりました。大きな物だけ業者に頼んで、あとはリヤカーを借りてきて。

青山 菊池さんが移転を受け入れざるを得ないという心境に至って、その間際にお話を聞いたときは、怒りと悲しみの入り混じった声でしたけど、だんだん怒りの方が大きくなってきましたよね。17万円しかもらえないのに、エアコンの室外機も含めて、すべて外に出してくださいと言われて。住んでいるのは4階ですよ。それで怒りが爆発して、「ベランダから捨ててやる!」となって…。

菊池 怒って上からボンボン投げてた(笑)。

青山 そこにテレビ局のカメラマンが乗っかってきましたね。

菊池 そうそう。菊池さん、そこからクーラー落としなさいって言うんですよ。うちは1号棟。ちょうど真ん前の2号棟の4階にそのカメラマンがいたんです。今にも落とそうとしているときに「ちょっと待って!」と声が聞こえて。その人が手を挙げて、「ハイ、今ですッ!」って(笑)。あれ重かったなあ…。

一方で、青山監督は徹底して被写体から一定の距離を置き、菊池さんがリヤカーに荷物を積むのに苦労しているときさえ、手を貸すようなことはしない。

菊池さんの引っ越し。残りの荷物はリヤカーで運んだ ©Shinya Aoyama
菊池さんの引っ越し。残りの荷物はリヤカーで運んだ ©Shinya Aoyama

青山 菊池さんの引っ越しの場面は、ほかにもテレビの取材が来ていましたよ。常にメディアに囲まれていたわりには、報道が少なかった気もするんですけど…。

菊池 カメラを意識するなんてことはなかったなあ。青山さん以外にもカメラマンたちがたくさんいて。しょっちゅう、どこかから写されていましたから。あの頃、カメラ慣れしてたもんね(笑)。

思い出の場所を失う痛み

基本的に被写体である住民にリクエストすることのなかった青山監督だが、1つだけ提案をしたことがあるという。

青山 引っ越しの準備を進める中で、写真を捨てる方が非常に多かった。真っ先に始める引っ越し準備として、思い出を捨てていくんですね。その流れとは逆に、昔の写真を集め出した女性がいたんです。昔から住んでいる方で、引っ越しはしたくないけれども、しなきゃいけないという複雑な心境の中で、写真を集め始めた。せっかく集まったので、これをみなさんに見せたらどうかと僕から提案しました。ほかの方からも集めて、写真展を開いてみたらどうかと。

こうして立ち退きの期日を1カ月後に控えた頃、霞ヶ丘アパート最後のイベントとして、集会所で写真展が開かれた。女性の亡くなったお父さんが、おそらく最初のオリンピックの頃に撮ったという8ミリフィルムも出てきた。まだ全棟完成していない時期の貴重な映像を集まって見るようすが映画にも登場する。

青山 移転問題で住民の間にも分断が起きてしまいました。必要なはずのコミュニケーションが取れなくなっていた。引っ越しの準備で心が傷つき、これからバラバラになってしまう人たちが昔の写真やフィルムを見て、何か語り始めることはできないか、と考えたのです。

菊池 あれは楽しかった。みんな長く近所で暮らしてきたから、仲良くて、いろいろ世間話をしたよね。どこどこの誰々さん、いま病気だから出てこれないのよ、どうしてるかしらとかね。そういう話ができたからよかったんですけど、今はそれもなくなっちゃった。ハァー、思い出しますねえ!もう懐かしいですよ。あの頃はよかったなあ。

映画には、団地内に併設された小さな商店もたびたび登場する。足の不自由な一人暮らしの高齢者にとって、配達に来てもらえ、話ができるのはありがたかったろう。

菊池 奥さんが天ぷらとか、いろいろお惣菜を作ってくれて、便利でしたね。結構買ってましたよ。奥さんとは移転先が一緒なので時々会いますけど、やっぱり懐かしいねえっていう話になりますよ。

霞ヶ丘アパートは最初の東京五輪の前に建てられた ©Shinya Aoyama
霞ヶ丘アパートは最初の東京五輪の前に建てられた ©Shinya Aoyama

こうした温かい血の通ったコミュニケーションは、長年住み慣れたコミュニティーならではのものだった。それが失われた寂しさは、察するに余りある。移転後、これまでに20人以上が亡くなったのを確認したと監督は話す。引っ越しが寿命を縮めたとは言わないまでも、人生の最後に寂しい思い出が刻まれてしまったことは否定のしようがない。

その切なさが、大友良英のギターの音色とともに胸に迫ってくる。これが2017年の東京オリンピックだ、記憶してほしい、と静かに語りかけてくるような映画だ。

青山監督と菊池さんに話を聞いたのは、オリンピックの開幕が迫るタイミングだった。しかし菊池さんは開会式が何日かも頭になかった。

菊池 もう興味なくなっちゃった。オリンピックの聖火って太陽から火をとって運んでくるじゃないですか。コロナというのも太陽が発するもので…。いま起きていること(五輪開会直前の新型コロナウイルスの感染拡大)も、太陽神の怒りなんじゃないのと考えて、自分の怒りを抑えています。組織が上から強制的にああしなさい、こうしなさいという姿勢で、弱者への思いやりもなくて…。因果応報ってあると思いますよ。そう考えないとね、やっていられませんよ。

インタビュー撮影=五十嵐 一晴
取材・文=松本 卓也(ニッポンドットコム)

©Shinya Aoyama
©Shinya Aoyama

作品情報

  • 監督・撮影・編集:青山 真也
  • 8mmフィルム映写協力:AHA! [Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]
  • 音楽:大友 良英
  • 整音:藤口 諒太
  • 配給:アルミード
  • 製作年:2020年
  • 製作国:日本
  • 上映時間:80分
  • 公式サイト:tokyo2017film.com/
  • アップリンク吉祥寺ほかにて全国順次公開中

予告編

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