国家の暴力に挑む映像の理論闘争:フランス発の異色ドキュメンタリー映画『暴力をめぐる対話』
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映画は冒頭からすぐに本題に入る。暗い室内にいる若い男の横顔。奥にもう1人いて、2人とも映画や漫画に出てくる海賊のような黒い眼帯を着けている。彼らは大きなスクリーンを前に、自分と関わりのある映像を見ようとしているらしい。
映像は夜間の市街地の路上。あちこちから白煙が上がり、遠くに警官隊の影が見える。ブルターニュ地方の中心都市レンヌから、ソーシャルメディアでライブ配信されたレポートだ。デモ隊が警官隊の圧力を受けて後退している。すると大きな発砲音が響き、その瞬間カメラは、絶叫しながら目を押さえ、路上でのたうち回る男の姿をとらえる。

映画では、デモ隊による「警官への暴力」に興味深い分析がなされる © Le Bureau - Jour2Fête – 2020
映像は切り替わり、フランス大統領、エマニュエル・マクロンが市民との討論会で熱弁をふるっている。デモ隊の中に破壊行為をエスカレートさせる一団がいるため、警察はそれを制圧する任務を果たしているに過ぎないと主張する場面だ。
それに続くのは、先ほどの負傷した若者が運び込まれた病院の待合室で撮られたスマートフォンの映像。彼の母がマクロン大統領に向けて抗議のメッセージを発する。静かな口調で「怒りも憎しみもない。あなたはそれに値しない」と。
眼帯姿の若者は、警官が発砲した硬質ゴム弾によって自分が片目を失ったときの映像を見ていたのだ。デモ、ゴム弾、マクロン、SNS…。この冒頭3分間に作品のエッセンスが凝縮されている。
黄色いベスト運動と警察の「暴力」
ゴム弾は警察や憲兵の治安部隊が装備する「LBD 40」と呼ばれる非致死性兵器(ノンリーサル・ウェポン)から発射されたものだ。フランスでは前モデルの「フラッシュボール」という呼び名が定着している。致死性がないとはいうが、目を直撃すれば失明させる威力がある。AFPによると、2018年11月から翌年4月上旬までの間に、23人がLBD 40によって片目を失った。

ジレ・ジョーヌ運動では、デモを取材するジャーナリストにもLBD 40の銃口が向けられた © Le Bureau - Jour2Fête – 2020
この時期は、「ジレ・ジョーヌ」(黄色いベスト)運動が始まってからの数カ月にあたる。運動は燃料税の引き上げに抗議するデモを発端に、徐々にマクロン政権打倒を掲げて全土へと拡大していった。従来のデモは労働組合が組織したが、この運動の参加者はSNSを通じて自発的に結集し、いつしか彼らはそろいの黄色いベストを身に付けるようになった。
『暴力をめぐる対話』の日本公開を機に、メディアの取材にオンラインで応じたダヴィッド・デュフレーヌ監督はこう語る。
「ジレ・ジョーヌ運動は最初、地方で起こりました。人々は小さな町や村のロータリーに集まってデモを行っていた。参加者があのベストを着用したのは、見事なひらめきでした。事故などで車から降りるときに着用する安全ベストです。車に積んでおくのが義務だから、多くの人が持っているし、簡単に手に入る。運動が大きくなる頃には、参加者の要求もさまざまで、出身や社会的背景も違っていましたが、同じものを着ることで一体感が生まれたわけです」

パリ・シャンゼリゼ大通りの凱旋門でもデモ隊と警官隊が激しい衝突を繰り広げた © Le Bureau - Jour2Fête – 2020
運動はやがて激化し、しばしば警官隊との衝突に至った。映画の冒頭に登場したのも、その衝突の際に撮られた映像だ。映画はここから、デモを鎮圧するために警察が行使する武力がはたして正当性を持つのかというテーマで進んでいく。
その手法がドキュメンタリー映画としてはユニークだ。デモの最中にスマートフォンなどで撮影された映像と、警察の暴力をめぐる人々の発言を交互に映し出す。映像を見ながら語るのは、警官の暴行で負傷したデモ参加者のほか、警察関係者、弁護士、社会学者、心理セラピストら、それぞれ立場の異なる24人だ。
使われている数々の映像を見れば、警察がデモ隊に対し「過剰な力」を行使しているのは明らかだと言える。しかし単純にそれを糾弾するのではなく、その正当性を主張する側の根拠を、国家と暴力をめぐる多角的な考察を通じて、辛抱強く検証していくのがこの映画のスタイルだ。

ダヴィッド・デュフレーヌ(David Dufresne)監督。1968年生まれ、パリ郊外のムードン出身。ドキュメンタリー監督、ジャーナリスト、作家。警察の暴力に関する投稿型データベースを主宰し、2019年に国際ジャーナリズム会議の審査員最優秀賞を受賞。(写真:©Patrice Normand)
警察の暴力の「証拠映像」に、人々の議論を重ねていった本作の成り立ちについて、監督はこう説明する。
「民主主義の国にも、現実には警察の暴力が存在します。ただし長い間、隠されてきました。それがここ数年の間に、ソーシャルメディアの映像を通じて、白日の下にさらされたのです。警察に好意的だった人々ですら、衝撃に言葉を失いました。しかしいまや、そのショックを乗り越えなければならない段階に来ています。そうでなければ、映像は単なる見せ物にとどまってしまう。必要なのは対話、議論です。映画を作って、その議論のきっかけにできればと思いました。映画を通じて、私自身もあらためて考えたかったし、観客にも考えてもらいたかった」
特異なドキュメンタリーが問いかけるもの
こうしてデュフレーヌ監督は、ドキュメンタリーによくあるインタビュー形式ではなく、取材相手を2人選び出し、1対1で対話してもらう形で、議論を進めていった。たった1台のカメラを暗い室内に据えて、集中の度合いを高め、彼らの「思考そのもの」を映像と音声に収めようと試みたのだ。
収録された数々の発言からは、フランスで教育を受けた人々が、いかに抽象的な思考になじんでいるかが分かる。抽象化によってこそ、経験や感情が生む単純化とは異なるアプローチで、歴史的、社会学的、哲学的、文化的な叡智とともに、問題の本質を考え抜くことができる。
ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864-1920)の「国家は暴力の正当な行使を独占的に所有する」という命題から始まった議論は、さまざまな視点を介しながら、豊かに展開していく。対話の場面の収録は合わせて3~40時間に及んだという。これを3~4カ月かけて編集していった。発言の取捨選択には当然、監督の意図が反映されている。中立性、客観性を重んじるジャーナリズムとは異なる点だ。
「私はドキュメンタリーをさまざまな視点が交わる場だと考えています。ですから、立場を明確にしないドキュメンタリーは不毛だと思う。映画の出演者や観客に対して立場を問い、思考を促しておきながら、監督が立場を明らかにしないなんて変じゃないですか。だからといって、善悪の二元論に陥ってしまいたくない。観客に自分で考えてもらうためにも、私が賛同できない発言も入れてあります。私の立場は、ジャーナリストでもデモ参加者でもありません。知的誠実さという節度を保つよう心がけながら、あくまでドキュメンタリー監督として問題に関与したのです」
フランスが従順な人々の国に?
監督は、デモ参加者に対する警官隊の明らかに度を越した乱暴な対応を見せながら、それでもなお辛抱強く、警官もまた被害者なのではないかと留保をつけて議論を進めていく。しかし、ある決定的な映像で、その留保は覆る。
2018年12月、ジレ・ジョーヌ運動が盛り上がるさなか、パリ郊外の高校付近で起きた出来事だ。150人あまりの生徒が集まって騒ぎを起こしたとして、凶器準備集合などの容疑で一斉検挙された。問題はその逮捕の様子だ。機動隊から警棒で脅された高校生たちは、まるで戦争捕虜のように膝立ちした状態で、両手を組んで頭に乗せ、整列させられている。それを警官の一人がふざけ半分に個人のスマートフォンで撮影し、こう言い放った。「よし、これでこそ、おりこうさんのクラス(une classe qui se tient sage)だ」。この映像はSNS上に流出し、フランスで大問題になった。

パリ郊外の高校で生徒が一斉検挙された映像を見る母親たち © Le Bureau - Jour2Fête – 2020
デュフレーヌ監督が名付けた映画の原題は、この時の警官のセリフをもじった『Un pays qui se tient sage』(おりこうさんの国)だった。
「タイトルについては、映画が公開した当初は皮肉や挑発と受け取られました。それが次第に、自分たちを取り巻く状況を憂慮し、警鐘を鳴らすものだと理解され始めた。反抗的な伝統を持つこの国の人々も、ついに力によって従順な国民にさせられ得るのだと。それはコロナ禍のタイミングと重なったこともありました。ワクチンパスやマスク着用の問題があって、人々が自由をめぐって多くのことを考えた時期だったのです」
怒れる民衆に対するマクロンの憎悪
フランス人の抗議の激しさを世界に知らしめた出来事として、20年ほど前、農民たちが建設中のマクドナルドの店舗にトラクターで突っ込み、グローバル化による文化の破壊に異を唱えた事件があった。首謀者たちは逮捕されたものの、警察がデモ参加者に実力行使をすることはなかった。

重装備の警官隊が銃口を向ける相手は、抗議の声を上げて武器も持たずに集まった市民たちだ © Le Bureau - Jour2Fête – 2020
「当時のフランスの警察は、物的損害だけなら、ケガ人を出すよりはましだと考えていました。それが今日、政府は強硬になり、警察がそれに従って、もうためらうことなく市民に対して武力を使うようになった。デモを報じるジャーナリストですら警棒で殴られる。ジレ・ジョーヌ運動では、100人以上のジャーナリストが負傷したと国境なき記者団が報告し、フランスはそのせいで報道の自由度ランキングを下げたのです。その後、内務省は、デモを取材するジャーナリストに取材登録を義務付けようとした。これはナンセンスです」
SNSが普及する以前の2005年、フランスの都市郊外で、主に移民家庭出身の若者たちが暴動を起こしたとき、政府が展開したメディア批判を思い出す。
「2005年の暴動は、警察の暴力に抗議して発生したものです。メディアは連日、車が何台燃やされたか、警察との衝突がどの地区で何件発生したか、ランキングにして伝えました。これを当時の内務大臣、のちに大統領になったニコラ・サルコジが、若者たちが競って破壊行為をするようテレビが煽っていると批判したのです。現在、同じ批判がソーシャルメディアに向けられている。この社会的な抗議運動をそんな風に片付けてしまうのは、原因から目を背けていることにほかなりません。それでは問題の解決にならない」

白煙が青い照明と赤信号で照らされ三色旗のようだ。だがフランス共和国が掲げる「自由・友愛・平等」はいずこ? © Le Bureau - Jour2Fête – 2020
ここでデュフレーヌ監督は、映画の冒頭にマクロン大統領の演説を持ってきた理由を説明する。
「彼はフランス大統領を体現する人物ではありません。にもかかわらず、この国のシステムでは、大統領がほぼ全権を握っている。マクロンは分断によって統治しようとする。昔からおなじみの手法です。ジレ・ジョーヌ運動について説明してみせますが、彼が運動を理解したことはまったくありません。彼の話し方には、嫌悪感がにじみ出ている。人々が怒っていることに対する憎悪が感じられるのです。とても大統領の器とは言えない」
映画に出てくる人々の発言の中で、監督が印象に残った言葉として挙げたのは、アミアンに住むソーシャルワーカーの女性の語りだった。アミアンはパリの北にある小さな町で、マクロン大統領の出身地だ。女性はデモに参加中、後頭部に警棒の一撃を受け、一瞬で意識を失って路上に倒れ込んだ。その映像を見ながら、彼女は自身が受けた暴力と並列に、真の暴力性とは何かを弱者の視点から語る。その穏やかな声音と一筋こぼれ落ちる涙に、論証を超えた問いかけの力を感じずにはいられない。社会に存在する不平等とそれを放置する政治、それこそが暴力ではないかと。
取材・文=松本 卓也(ニッポンドットコム)

© Le Bureau - Jour2Fête – 2020
作品情報
- 監督:ダヴィッド・デュフレーヌ
- 撮影監督:エドモン・カレール
- 音声:クレモン・ディジュー
- 制作総指揮:ベルトラン・フェーヴル(LE BUREAU)
- 共同製作:JOUR2FETE
- 配給・宣伝:太秦
- 製作年:2020年
- 製作国:フランス
- 上映時間:93分
- 公式サイト:bouryoku-taiwa2022.com
- ユーロスペースほか全国順次公開中