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映画『アダマン号に乗って』:セーヌ川に浮かぶ精神科デイケアセンターと、名匠のゆるぎない視線

Cinema 健康・医療

ドキュメンタリー界の巨匠、ニコラ・フィリベールによる映画『アダマン号に乗って』は、フランス・パリにある精神科デイケアセンターの日々を観察した一作。「精神医学は私たちの⼈間性について多くを語る⾍眼鏡、拡⼤鏡」と語るフィリベールは、みずみずしい筆致で精神疾患のある人々のありようをていねいに切り取り、本作で第 73 回ベルリン国際映画祭の最高賞「⾦熊賞」に輝いた。

フランス・パリ。セーヌ川の右岸、リヨン駅からほど近い位置に、しずかに浮かんでいる一隻の〈船〉がある。この場所「アダマン」は、精神疾患のある人々を対象とした木造建築のデイケアセンターだ。2010年7月の開館以来、さまざまな活動を通じて患者同士や社会との結びつきを支援している。

田舎町にある小学校の教師と子どもたちを観察し、世界的に高い評価を受けた『ぼくの好きな先生』(02年)で知られるニコラ・フィリベール監督は、21年から22年の数カ月間、このアダマンに足を運び、この施設に通う人々をカメラ越しに見つめてきた。

アダマンと河岸の間には細い橋が架かっている © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022
アダマンと河岸の間には細い橋が架かっている © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022

アダマンの日常

朝の柔らかな光が満ちるセーヌ川で、〈船〉のシャッターがゆっくりと開き、アダマンの一日が始まる。大きな窓があり、内部もガラス張りになった開放的な空間は、建築家が介護者や患者と連携しながら、「病院というよりアーティストのスタジオのように」というコンセプトのもとデザインしたものだ。

パリ中央精神科医療グループに属するアダマンは、ほかのセンターとともにパリ 1〜4 区の患者を受け入れている。患者の年代や背景、症状はさまざまで、毎日必ずやってくる者もいれば、たまにしか姿を見せない者もいるという。もちろん精神科医や看護師、⼼理⼠などの職員も常駐しているが、服装などでは患者と区別されていないため、誰が患者で誰がスタッフなのかをぱっと見で判断することはできない。

アダマンで開かれているワークショップの風景 © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022
アダマンで開かれているワークショップの風景 © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022

アダマンでは人々が思い思いの時間を過ごしている。月曜日の定例ミーティングでは新たなメンバーを歓迎し、互いの近況を報告し、それぞれの興味を議題として提案する。ワークショップでは自分が描いた絵について話したり、一緒に映画を観てディスカッションしたり、身体を動かしたりする。カフェではお客さんにコーヒーを淹れ、レジ打ちをして、会計作業まで担当するのだ。自由で創造的な活動の中で、患者は自分を見つめ、他者と触れ合い、社会とのつながりを再確認していく。

優しいまなざし、ゆるやかな時間

アダマンに対するフィリベール監督のまなざしは、ひたすらに温かく、また優しい。映画の冒頭、フランソワという男性がロックバンド「テレフォン」の『La bombe humaine(人間爆弾)』を歌い上げる場面や、アダマンの外観を捉えたショットは、その場所に流れる時間をそのままキャプチャーしたかのようにゆるやかで、のんびりとしていて、まるで実際以上に時間が引きのばされているかのようだ。

映画はアダマンの日常風景をじっくりと時間をかけて切り取っていく © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022
映画はアダマンの日常風景をじっくりと時間をかけて切り取っていく © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022

この映画には個性豊かな人物たちが登場する。医師に悩みを打ち明けたいが、言い過ぎてはこの集まりに来られなくなってしまうと葛藤する女性。ひとりでギターをかき鳴らし、「良い一日にするため、今日なにをするのか考えるのが大事なんだ」と持論を述べる男性。自分と兄はゴッホ兄弟の生まれ変わりで、ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』(1984年)に登場する兄弟は自分たちがモデルだと確信する芸術家肌の男性……。

カメラは彼らの姿をまっすぐに捉え、その言動や一挙手一投足を見つめつづける。そこには偏見も先入観もなく、もちろん、あわよくば対象をおもしろがってやろうという欲望もない。ただ、そこにはアダマンに通う一人ひとりの生きている時間と、それぞれにとっての“真実”がごろりと投げ出されるのだ。

この男性は書き留めておいたアイデアから曲を作り、カメラに向けて弾き語る © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022
この男性は書き留めておいたアイデアから曲を作り、カメラに向けて弾き語る © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022

アダマンで日常を過ごす患者たちの様子は、それゆえに切実であり、それゆえに時としてユーモラスなものとして映し出される。またフィリベール監督は、患者それぞれが症状を抱え、そのことに葛藤しながらも独特の形でコミュニケーションを結ぶ姿もじっと見つめている。逆に言えば、それはカメラを手にした監督と患者たちの間にも信頼とコミュニケーションがあるということでもあろう。

ただ、そこにあるということ

もっとも『アダマン号に乗って』という映画は、ただ穏やかで優しいだけの映画ではない。インタビューの中で時折患者が語る言葉は、それぞれの苦痛をダイレクトに物語るものでもあるからだ。

患者たちは協力し合いながらワークショップや作業に参加する © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022
アダマンに通う人々は協力し合いながらワークショップや作業に参加する © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022

たとえば冒頭で『人間爆弾』を歌ったフランソワは、自分は画家ジェラール・ゴスランの息子だと言い、父親との思い出を話したかと思えば、「こうして話していられるのは薬があるからだ、カウンセリングよりも薬が必要だ」と訴える。また別の男性は、自分の内なる声がもたらす被害妄想ゆえに他者を憎んでしまうと言い、「憎みたくないから薬を飲む」と口にする。ある女性は、自らの病気のために息子と一緒に暮らせなくなった過去を明かす。

フィリベール監督は、いわゆる“優しい目線”によって精神疾患のある人々を神聖化することも、その症状のありようをわざわざ直接的に映し出すこともなく、ただそこにいる人間として被写体を扱う。したがってこの映画に、アダマンという施設や患者をめぐる、わかりやすいストーリーや展開はない。セーヌ川にはアダマンという〈船〉が浮かんでおり、そこには様々な人々が日々乗り込んでくる、ただそのことがあるだけだ。

大きな窓から射し込む光が、アダマンの人々を包む © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022
大きな窓から射し込む光が、アダマンの人々を包む © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022

映画のファーストシーンからラストシーンまで、自らカメラを回した監督のアプローチは終始一貫している。しかし画面が暗くなった後、監督は自分の言葉をほんのわずかに差し挟むことで、穏やかなアダマンの日常を捉えた映画をあえて相対化してもいるのだ。その瞬間にこそ、監督の狙いは本当の意味で完遂されることになる。

長らく精神医学に関心を抱き、「映画作家にとっては、どれだけ追求しても足りない分野」だと語るフィリベールは、この四半世紀で精神医療の状況が悪化したことを指摘。その背景に、ごく一部の患者による事件をあたかも全体の問題のように扱い、自身の目的や思想などのために利用する政治家やマスコミの振る舞いがあることは明らかだと述べた。

「もはや彼らは、危険な⼈間であるという偏⾒を通してしか語られません。(…)この惨憺たる状況の中で、アダマンのような場所は奇跡的でさえあり、いつまで続くのか疑問に思うほどです」

© TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022
© TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022

作品情報

  • 監督:ニコラ・フィリベール
  • 製作年:2022年
  • 製作国:フランス・日本
  • 上映時間:109分
  • 共同製作・配給:ロングライド 
  • 協力:ユニフランス
  • 公式サイト:https://longride.jp/adaman/
  • 4月28日(金)ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国公開

予告編

バナー写真:映画『アダマン号に乗って』より。パリ市の精神科デイケアセンター「アダマン」で、絵画のワークショップに参加する女性 © TS Productions, France 3 Cinéma, Longride - 2022

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