映画『正欲』が描く、孤独な魂の漂流と出会い
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2009年、20歳の時に『桐島、部活やめるってよ』で小説すばる新人賞を受賞してデビューした朝井リョウ。13年には『何者』で直木賞を受賞した。『正欲』は作家生活10周年を記念して書き下ろした長編小説だ。21年3月に発売され、翌年9月には早くも映画化が発表された。
朝井の作品が映画化されるのは、『桐島、部活やめるってよ』から数えてすでに5作目になる。監督は『あゝ、荒野』(17/主演:菅田将暉、ヤン・イクチュン)の岸善幸。同作でタッグを組んだ港岳彦が脚本を書いた。
文庫版でほぼ500ページの小説が2時間14分の映画になる。当然ながら映画ではかなりの要素が割愛されているが、その取捨選択には熟慮を重ねた末の整合性が感じられる。物語の中心人物は5人。映画はこの5人の周辺から遠くに広げずに展開されているところがミソだ。小説であれば、たとえ脇役でも、登場した人物については徹底的に描写して、読者が頭の中で像を結べるまでにしなければならない。ところが映像の場合、極端に言えば姿を現すだけでもいい。そのきっぱりした判断のおかげで、人物間の濃淡が際立っている。
きわめて現代的な主題の群像劇
5人を映画の登場順に紹介すると、まず磯村勇斗が演じる佐々木佳道(よしみち)。小説では序盤は名前だけで、中盤に入ってようやくスポットが当たるが、映画では冒頭から登場する。ある会社の、人当たりは悪くなさそうだがどこか上の空で、明らかに孤立した社員。食堂でひとり昼食をとる彼のモノローグで物語は始まる。モノローグのようだが、親密な誰かに語りかけているようでもある。
佳道は人々が普通に暮らす世の中になじめぬ思いを抱きながら大人になった。たったひとつ、ある“もの”だけが彼の救いになっているが、他者とその思いを共有することはあきらめている。それでも最低限の折り合いをつけて、決して主張することなく、自分の違いを目立たせないように生きてきた。そんな彼がある知らせを受け取って、長く暮らしてきた横浜から、故郷の福山(広島県)に帰ることになる。
続いて桐生夏月(なつき)。新垣結衣が演じる。福山のショッピングモールに入る寝具店に勤務し、実家暮らし。職場でも家でも、車の中のラジオや、たまたま行き合う同級生との会話でも、結婚して家庭を持ち、子どもを育てるのが「標準」との考えを押し付けられ、心を閉ざしている。楽しみは家に帰って自室で一人になり、ある“もの”に関する動画を観ること。高校時代の出来事を思い出し、その陶酔に浸る。
稲垣吾郎演じる寺井啓喜(ひろき)は、横浜地方検察庁の検事。妻と息子の3人家族でマイホームに暮らす。学校に通わなくなった息子・泰希(たいき)が小学生ユーチューバーに影響を受けて「学校以外で学べることもある」と主張するようになると、職業柄か理詰めでその甘さを突く。泰希がNPO主催による不登校児のための集まりで知り合った友達とYouTubeチャンネルを立ち上げたことに苛立ちを感じている。
神戸(かんべ)八重子は大学生。学園祭の実行委員として、それまで毎年恒例だった学内の「ミス」や「ミスター」を選ぶコンテストに代わり、「ダイバーシティフェス」を企画している。ある出来事がトラウマになり、男性と軽く接触しただけで過呼吸になってしまう。映画では小説ほどに大きな部分が割かれているわけではないが、続く5人目の人物の行動に影響を与える点で重要な役だ。これが銀幕デビューとなる東野絢香(ひがしの・あやか)が演じる。
その5人目は佐藤寛太演じる諸橋大也。八重子と同じ大学に通う学生で、ダンスサークルに所属している。大也もまた、中盤から存在感を表してくるのだが、世の中に流布する“多様性”についての安易な理解に真っ向から疑いを突き付ける人物だ。物語の主旋律である「正しい欲とは」という問いを、態度こそ控えめだが誰よりも差し迫って訴えかけてくる。
孤独と欲望の果て
このように物語は群像劇の形式をとるが、序盤から中盤にかけ、登場人物を紹介しながら映し出していくのは、現代日本社会の肖像にほかならない。ダイバーシティ、インクルージョン、エンパワーメント等々、賢い人が横文字で語る理想とはかけ離れた現実を、人々は打ちひしがれて生きている。
タクシーに乗れば英会話教室の広告。地方の大型回転寿司店に行けば、人との接触をひたすら避けて腹を満たす者の横で、テレビの“食レポ”をまねて動画を撮るカップル。誰もが小ぎれいに身なりを整え、当たり障りのない話題で談笑しつつ、他人の行動を探り合いながら、自分は“普通”から外れないように気を付けている。
その裏で、子どもの不登校、結婚や出産への有言無言の圧力、性への嫌悪感、多数派と異なる性指向からの罪悪感など、表に出さないまま疎外感に苛まれている人は決して少なくない。そして人には言えぬ欲望を隠し持っている。『正欲』はこうしたのっぴきならない孤独と欲望に向き合う人々の物語だ。物語が進むにつれ、5人は思わぬ形で接近していく。
登場人物の中で唯一、啓喜だけが葛藤から逃れている。それは自分が生きる法の世界こそ正しいと信じ、おのれの孤独や欲望から目を背けてきただけに過ぎない。人間社会をシステムととらえ、そこから外れた者を「バグ」と解釈する、そういう人だ。それ以外の4人は、「自分は普通だ」などと思っていないからこそ、生きづらさを抱えながら、必死に生き抜こうともがいている。
登場人物たちの言動に対する反応は、違和感や嫌悪感、あるいは好感や共感など、人によってさまざまだろう。居心地の悪さを感じる時間もあれば、強い衝撃や、深い感動に包まれる場面もあるはずだ。閉塞感の合間に、時おり解放感があふれ出る。全編を通して言えるのは、脚本、演出、演技のどれもが、人の感情に忠実で誇張がないことだ。それは一見すると荒唐無稽に感じられそうな場面についても言える。
朝井リョウが現実社会の見えにくい層を切り取り、想像力の限りを尽くして緻密な物語に編み上げた『正欲』。その映画化には、原作のディテールに溺れる誘惑に勝って、シンプルさに徹したからこその迫真性がある。その一方で、原作にはないきわめて映画的な演出に踏み切った場面も輝きを放っている。134分を長く感じない。登場人物と観客がスクリーンを通して無言の対話を果たすような、稀有な時間が生まれるに違いない。
作品情報
- 出演:稲垣 吾郎 新垣 結衣 磯村 勇斗 佐藤 寛太 東野 絢香 山田 真歩
宇野 祥平 渡辺 大知 徳永 えり 岩瀬 亮 坂東 希 山本 浩司 - 監督・編集:岸 善幸
- 原作:朝井 リョウ『正欲』(新潮文庫刊)
- 脚本:港 岳彦
- 音楽:岩代 太郎 主題歌:Vaundy『呼吸のように』(SDR)
- 製作:murmur
- 制作プロダクション:テレビマンユニオン
- 配給:ビターズ・エンド
- 製作年:2023年
- 製作国:日本
- 上映時間:134分
- 公式サイト:https://www.bitters.co.jp/seiyoku/
- 11月10日(金)、全国ロードショー!
予告編
バナー写真:映画『正欲』に出演の新垣結衣と磯村勇斗 ©2021 朝井リョウ/新潮社 ©2023「正欲」製作委員会