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映画『熱のあとに』:実在の事件から着想、全編を覆う「何かが起こる予感」

Cinema

愛した男を刺した女が、別の男との結婚生活を送るなか、自らの愛と幸福を追い求め、そして葛藤する……。橋本愛・仲野太賀が演じる夫婦と周囲の人々を描く映画『熱のあとに』は、実在の事件から着想された物語だ。監督の山本英と脚本家イ・ナウォンによる緊迫の一作は、釜山国際映画祭や台北金馬映画祭にも出品されるなど、早くから大きな話題を呼んでいる。

白いTシャツを着た血まみれの女が、マンションの非常階段を駆け下りてくる。1階のエレベーターホールには、血を流して下着姿で倒れている金髪の男。女はその姿を見下ろしながら、無表情のまま、右手に持っていた煙草をくわえる……。この異様なファーストシーンに、思わず心をつかまれた。

映画『熱のあとに』は、2019年に東京・新宿で発生したホスト殺人未遂事件にインスパイアされた物語だ。監督の山本英は、東京藝術大学大学院にて諏訪敦彦や黒沢清に師事し、本作で商業デビューを飾った新鋭。実際の事件に着想を得ているものの、事件関係者の発言をそのまま使うことはせず、イ・ナウォンとともにオリジナルの脚本を創り出した。

沙苗(橋本愛)は新宿の精神科に通い、カウンセラーの藤井(木野花)に自身の愛情と怒りを語る ©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha
沙苗(橋本愛)は新宿の精神科に通い、カウンセラーの藤井(木野花)に自身の愛情と怒りを語る ©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha

愛したホストの隼人を刺し殺そうとした沙苗は、数年間の服役を経て、林業に従事する青年・健太とお見合いで出会う。結婚する気がなかった沙苗と、自分も同じだと答えた健太は、どういうわけかそのまま結婚し、元ペンションの物件を新居として夫婦生活を始めた。精神科に通いながらも穏やかな生活を送っている沙苗は、もはやかつての彼女とは別人のよう。しかし、そのこと自体が沙苗にとっては大きな問題だった。

ある日、健太は仕事中に、謎めいた女性・足立と出会う。やけにフレンドリーで、遠慮なく距離を詰めてくる足立に、健太だけでなく沙苗も少しずつ心を開きはじめる。ところが、足立には沙苗に近づかなければならない理由があった……。

健太(仲野太賀)が出会った足立(木竜麻生)には、まだ幼い息子がいる ©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha
健太(仲野太賀)が出会った足立(木竜麻生)には、まだ幼い息子がいる ©2024 Nekojarashi /BittersEnd/Hitsukisha

愛とはなにか、幸福とはなにか

タイトルの「熱のあとに」とは、相手を刺し殺すほかないと思うほどの情熱的な愛情に自らを委ね、鮮やかな生の感覚を味わった女性が、その後の人生で過ごす時間のことだ。お見合いの場でも、健太が電話に立ったあと、沙苗はテーブルに突っ伏しながら健太が戻るのを待っている。「熱のあと」という味気ない時間の重みに、まるで少しずつ押しつぶされつつあるかのように。

映画の中心にあるのは、すさまじい愛を内に秘めながら、その情熱を押し殺している沙苗の存在だ。それゆえに沙苗の心境ひとつで、リアリティあふれる日常的な台詞(せりふ)がやりとりされる時間と、仰々しく劇的な言葉がぶちまけられる時間が瞬時に切り替わることになる。その繰り返しのなか、物語は「これはリアルなのか、それともリアルでないのか?」という繊細な一線の上を進んでゆくのだ。

沙苗と、お見合いに同席する母・多美子(坂井真紀) ©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha
沙苗と、お見合いに同席する母・多美子(坂井真紀) ©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha

もっとも、沙苗は足立の秘密を知ったことをきっかけに、再び過去の情熱に引き込まれはじめる。すると彼女に巻き込まれるように、健太や足立も、そして台詞の言葉も、日常を飛び出してアンリアルのほうへ向かいはじめるのだ。テレビのニュースに遠く離れた戦争が映し出されるとき、健太は「戦争って経験してないとわかんねえ感じあるじゃん」と口にする―それはある意味でリアルな感覚だろう―が、健太もまた“愛の戦争”とも言うべき争いに身を投じざるを得なくなる。それは、「愛とはなにか、幸福とはなにか」をめぐる対立である。

「何か」が起こる予感

魅力的なのは、映画の大半を覆っている、今にも何かが起こりそうな「危うさ」だ。この物語は事件から始まるが、再びまた恐ろしい出来事が迫っているという気配が、あるいは唐突な「暴力の予感」が(これは足立の台詞にもある言葉だ)、一見安穏とした生活の端々に顔を出すのである。たとえば猟銃、あるいはスパナや包丁……。

山本英監督の演出は、激情をはらんだ登場人物たちと、彼らの「危うい」やり取りを、ほとんど醒めたタッチで曖昧に描いている。とりわけ、まだ何も起こっていない時間をサスペンスフルに、緊張感をもって提示する前半部分は秀逸だ。映画の後半は展開そのものが激しさを増し、言葉もどんどん劇的になってゆくため、往年のトレンディドラマめいた味わいに転じた感もあるが、ラストには曖昧さと緊張感が戻ってくる。

沙苗と健太の視線のすれ違いが、抜き差しならない2人の関係を示している ©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha
沙苗と健太の視線のすれ違いが、抜き差しならない2人の関係を示している ©2024 Nekojarashi /BittersEnd/Hitsukisha

そして、何よりも特筆すべきは、沙苗役の橋本愛と、健太役の仲野太賀が見せる、リアルとアンリアルの境界線を自在に飛び越える演技だろう。劇中の沙苗と健太は、ともに食事をすることもなければ、夫婦の日常的な時間を送ることもなく、性的関係に至ってはそれを示唆する場面さえない。しかし、それでもスクリーンには夫婦の日常と非日常が確かに浮かび上がってくるのだ。

沙苗と健太の2人が全編にわたって発する独特の空気は、橋本と仲野がごく短いお見合いのシーンだけで両者の性格を精確に表現し、その後もささやかな台詞と挙動によって人物像を積み上げていったことの賜物だ。127分間、橋本と仲野の底力を存分に味わえる一作といって過言ではない。

©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha
©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha

©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha
©2024 Nekojarashi /BittersEnd/Hitsukisha

作品情報

  • 出演:橋本 愛 仲野 太賀 木竜 麻生 坂井 真紀 木野 花 鳴海 唯/水上 恒司
  • 監督:山本 英
  • 脚本:イ・ナウォン
  • プロデューサー:山本 晃久
  • 製作:ねこじゃらし、ビターズ・エンド、日月舎
  • 制作プロダクション:日月舎
  • 配給:ビターズ・エンド
  • 製作年:2024年
  • 製作国:日本
  • 上映時間:127分
  • 公式サイト:https://after-the-fever.com/
  • 2月2日(金)、新宿武蔵野館、渋谷シネクイントほか全国ロードショー!

予告編

バナー写真:映画『熱のあとに』©2024 Nekojarashi/BittersEnd/Hitsukisha

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