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杉咲花主演、映画『52ヘルツのクジラたち』:いかにして成島出監督がこの時代の傷に向き合ったか

Cinema

2021年の本屋大賞に輝いた町田そのこの同名ベストセラー小説を、杉咲花を主演に迎えて名匠・成島出が映画化した『52ヘルツのクジラたち』。孤独なクジラの鳴き声は、他の仲間たちには聴こえない周波数で発せられるという逸話に共鳴し、過酷な境遇から解き放たれようともがく主人公たちの声なき声に重ね合わせて描かれた物語だ。精力的に映画を撮り続ける成島出監督に、現代社会が抱える複雑なテーマと正面から向き合う覚悟を聞いた。

成島 出 NARUSHIMA Izuru

1961年生まれ、山梨県出身。1994年から脚本家として活躍した後、初監督作『油断大敵』(03)で藤本賞新人賞、ヨコハマ映画祭新人監督賞を受賞。『八日目の蟬』(11)は日本アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞を含む10部門を受賞する。その他、『フライ,ダディ,フライ』(05)、『孤高のメス』(10)、『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(11)、『ソロモンの偽証 前篇・事件』(15)、『ソロモンの偽証 後篇・裁判』(15)、『ちょっと今から仕事やめてくる』(17)、『グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~』(19)、『いのちの停車場』(21)、『ファミリア』(22)、『銀河鉄道の父』(23)など多岐にわたるジャンルで、常に高く評価される作品を送り出している。

『52ヘルツのクジラたち』は、東京を離れ、海を見下ろす高台の一軒家に一人で移り住んできた貴瑚(きこ=杉咲花)が主人公の物語。母親から「ムシ」と呼ばれて虐待され、声が出せなくなった少年と出会い、彼を助けようと奔走するなかで、自身の身に起きたつらい記憶と向き合い、生きることへの希望を見出していく過程が、彼女の回想とともに描かれる。

貴瑚(杉咲花)は越してきた海辺の町で、声を出せない少年と出会う ©2024「52ヘルツのクジラたち」
貴瑚(杉咲花)は越してきた海辺の町で、声を出せない少年と出会う ©2024「52ヘルツのクジラたち」

実は貴瑚自身にも、母親から虐待を受け、義父のヤングケアラーとして人生を搾取されてきた過去があった。そんな彼女の声なきSOSを聴き取り、絶望の淵から救い出してくれた“アンさん”こと安吾(志尊淳)や、高校時代からの親友・美晴(小野花梨)と共に過ごしたかけがえのない日々が、今なお彼女の心には深く胸に刻まれていたのだ。

貴瑚は命の恩人でもあるアンさんに対し恋愛感情を抱いていたが、その想いが叶わないと知り、勤め先の社長の御曹司である新名主税(宮沢氷魚)と結ばれる。だが、思いもよらぬ出来事により、すべては一瞬で変わってしまう──。

貴瑚は新名(宮沢氷魚)に守られ、裕福な生活を始める ©2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会
貴瑚は新名(宮沢氷魚)に守られ、裕福な生活を始める ©2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

映画が呼び寄せた強運

杉咲花は、昨年公開された映画『市子』に続いて、つらい境遇を生き抜く女性を演じている。本作においては、撮影に入る1年以上前の企画段階から、チームの一員として脚本作りに携わり、役が自身の血肉となるまで突き詰めていった。

そこまでていねいに取り組む必要があったのは、この物語を構成している複数の要素が非常にセンシティブなテーマを内包しているからだ。プロデューサーの横山和宏氏(ギャガ)から原作を渡され、映画化の企画を持ちかけられたときのことを、成島監督はこう振り返る。

「小説は面白かったし、本屋大賞を獲るのも分かります。ただ、いざこれを2時間の映画にまとめるとなると無理です、と話したんです。児童虐待やヤングケアラー、トランスジェンダーを取り巻く課題など、さまざまな要素が詰まっていて、1つ1つが軽く扱える題材ではない。小説なら細かい描写で場面ごとの登場人物の心情を補足できますが、映画の場合は“セリフと肉体”だけになるのですごく難しいんです」

しかし横山プロデューサーからは、「この声なき声を、どうにかしてメジャーな作品として世に出したい」、「今だからこそこの作品をやる意味がある」と説得され、その熱意に根負けしたという。

「そこまで言うなら、やれるところまでやってみましょうかと、シナリオ開発を始めました。すると、この映画が持つ運の強さでしょうか、シナハン(シナリオハンティング)で訪れた大分市のフィルムコミッションの方が、あの高台の家に連れて行ってくれたんです。住人の方も親切に招き入れてくださって。お言葉に甘えて縁側に立って海を見渡してみたら、本当にちょうどいい距離感なんですよ」

このロケーションには、運命的とも言える逸話がまだある。

「しかも今から7年前くらいに別府湾に実際にクジラが迷い込んだことがあって。『あそこです!』って、海を指すんです。これはもうやらなきゃダメだ、逃げられないと思いました。皆さんが一生懸命、一丸となってやってくださったので、ゴールまで行けたなって感じです」

©2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会
©2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

現代の複雑なテーマに取り組む覚悟

難航したという脚本作りは、トランスジェンダー、虐待の経験者、ヤングケアラーの人たちへの綿密な取材に基づいている。さらに、トランスジェンダー監修、LGBTQ+インクルーシブディレクター、インティマシーコーディネーターが参加し、表現の細部にまで注意を払った。こうして脚本を固めていった上で、キャストと「キャッチボールしていくように」仕上げていったという。

「初めてタッグを組むメンバーだったし、これだけ複雑なテーマを扱う作品でもあったから、1つ1つの問題が表層的にならないように、登場人物たちの痛みが彼らの中でちゃんと腑に落ちるかどうかを確認し合いながら進めていく必要がありました。僕の師匠である相米(慎二)さんの時代は、『自分の頭で考えろ!』って役者ができるまでずっと待って、でも今の時代にもうそんなことはできません」

成島監督が思い出すのは、「もう1回」「もう1回」と1シーンずつ1日かけて撮っていく相米監督のやり方。それがキャストとのコミュニケーションにもなっていた。師匠から学んだことを今の時代に即した形で応用させたのが、1週間のリハーサル期間をとってお互いに探り合うことだった。こうして役を「肉体に落としていく作業」が可能になったという。

全身で痛みを表現する杉咲花から目が離せない ©2024「52ヘルツのクジラたち」
全身で痛みを表現する杉咲花から目が離せない ©2024「52ヘルツのクジラたち」

原作を「変える」必然

映像作品における「原作」と「脚本」の関係について、ここ最近、議論が高まっているが、数々の小説を映画化し、自ら脚本を手掛けたことも多い成島監督はどう考えているのだろうか。

「100パーセント原作通りというのは無理なんです。原作の良さを何とか生かしたいと考え、原作をリスペクトしながら作業を進めていきます。ただ、最終的には映画は作品が主役です。原作でも俳優でも監督でもない。今回の町田さんは初めての映画化で、『大事な子ですから変えないでください』って言われたらどうしようと思ったんですけど、分かってくださった。逆に、シナリオを読んで、いい方向に変えてくれたと言ってもらえて、ホッとしています」

2020年に出版された原作が取材・執筆されたのは、おそらく18年から19年にかけて。映画が公開される24年までの間にトランスジェンダーを取り巻く社会の状況は大きく変わった。

「それに伴い、変える必要があるところは変えさせていただくことになったのですが、そこを町田さんが快くOKしてくださったので、大変ありがたかったなと。2019年に公開していたとしたら、宣伝の段階でアンさんがトランスジェンダー男性であることは伏せたと思うんですよ。でもこの映画では、アンさんのことを初めから分かってもらったうえでお客様に一緒にアンさんの痛みを共有してもらいたいと思いました」

絶望の淵に沈んだ貴瑚は、安吾(志尊淳)から救いの手を差し伸べられる ©2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会
絶望の淵に沈んだ貴瑚は、安吾(志尊淳)から救いの手を差し伸べられる ©2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

昔気質(かたぎ)の現場で育った成島監督が、時代に合わせ、脚本の書き方から現場での撮り方まで、自分よりずっと若い人たちの意見に耳を傾けて、柔軟にアップデートさせていることに感動をおぼえずにはいられない。

「物語をドラマティックに展開するための便利遣いにしないよう注意しました。原作の流れは変えられないから、どういう形なら着地できるだろうかと相談したんです。監修の方々が、協力するからには、自分たちと同じ立場の人が観たときに傷つくことのないような作品にしたいと話してくれた。その言葉が宣伝活動も含め、我々の覚悟を決める上で大きかったですね」

取材・文・撮影=渡邊 玲子

©2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会
©2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

作品情報

  • 監督:成島 出
  • 脚本:龍居 由佳里
  • 脚本協力:渡辺 直樹
  • 原作:町田 そのこ「52ヘルツのクジラたち」(中央公論新社)
  • 出演:杉咲 花 志尊 淳 宮沢 氷魚 小野 花梨 桑名 桃李 / 余 貴美子 倍賞 美津子
  • 音楽:小林 洋平
  • 主題歌:「この長い旅の中で」Saucy Dog (A-Sketch)
  • 配給:ギャガ
  • 製作国:日本
  • 製作年:2024年
  • 上映時間:136分
  • 公式サイト:https://gaga.ne.jp/52hz-movie/
  • 3月1日(金)TOHOシネマズ 日比谷他全国ロードショー

予告編

バナー写真:成島出監督『52ヘルツのクジラたち』©2024「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

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