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映画『ビニールハウス』:「人間の暗部をのぞきたい」イ・ソルヒ監督が“最悪の連鎖”を描く理由

Cinema

「半地下はまだマシ」。アカデミー賞に輝く『パラサイト 半地下の家族』(19)を踏まえた衝撃のキャッチコピーで話題の韓国映画『ビニールハウス』は、貧しい訪問介護士の女性が、思わぬ事故をきっかけに“最悪の事態”の連鎖へ身を投じてゆくサスペンス。新鋭イ・ソルヒ監督が、現代社会と人間を見つめる創作について語った。

イ・ソルヒ LEE Sol-hui

1994年生まれ。成均館大学校で視覚芸術を学んだ後、韓国映画アカデミーで映画監督コースを専攻。2021年、『Look-alike』(短編)が第22回大邱インディペンデント短編映画祭のコンペティション部門に、『Anthill』(短編)が第26回釜山国際映画祭Wide Angle部門にノミネートされ注目される。初の長編映画『ビニールハウス』は、第27回釜山国際映画祭でCGV賞、WATCHA賞、オーロラメディア賞を受賞し、新人監督としては異例の3冠を達成。さらに第44回青龍映画賞、第59回大鐘賞で新人監督賞にノミネートされた。

第27回釜山映画祭で3冠を獲得、韓国公開後1週間で観客動員1万人を突破。異例のインディペンデント映画『ビニールハウス』を手がけたのが、本作が長編デビューとなった新人監督イ・ソルヒだ。1994年生まれ、製作当時まだ20代とは思えない圧倒的筆力に、主演のキム・ソヒョンも脚本を読んで出演を快諾したという。

主人公の中年女性ムンジョンは、年老いた母親を介護し、少年院にいる息子との同居を夢みながら、農村地帯のビニールハウスで貧しい生活を送っている訪問介護士。盲目の元大学教授・テガンと、認知症を患うファオクの夫婦に、家政婦を兼ねるかたちで雇われている。

しかしある日、風呂場でファオクが転倒して絶命してしまった。自分の願いを諦められないムンジョンは、目の見えないテガンに真実を悟られないよう、ファオクの死を隠蔽しようと考える。ところが、それはさらなる悲劇の幕開けにすぎなかった……。

認知症のファオク(シン・ヨンスク)はムンジョンを事あるごとに攻撃する © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED
認知症のファオク(シン・ヨンスク)はムンジョンを事あるごとに攻撃する © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED

アイデアは自身の家族から

シリアスでハードな映画だが、着想のきっかけはイ監督の母親が、認知症になった祖母の介護を始めたことだったという。「日頃からボランティアに勤しみ、非常に利他的な人物であるはずの母が、肉親の介護になると他人の介護よりつらそうにしていた。そのとき、母が本当に望んでいることは何なのだろうかと考え、“介護”というキーワードを思いつきました」

経済格差、介護、認知症、性暴力……現代社会の切実な問題に、ムンジョンや老夫婦たち登場人物はみな追いつめられている。イ監督は、彼女たちを「身近な存在」と呼んだ。特殊な状況にはあるかもしれないが、決して社会の片隅に追いやられたわけではなく、私たちと同じ日常にいる人間たちなのだと。

「結局のところ、私の母にしても利己心があったのだと思います。このような言い方をすると母は嫌がりますが、“自分の人生が一番大事”という欲望があるのは人間として仕方のないこと。どんな人にも利己心はあるもので、ムンジョンの運命もまた彼女の利己心によって変化していくことになります」

少女スンナム(アン・ソヨ、左)はムンジョンになつくが、ふたりの関係も変わっていく © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED
少女スンナム(アン・ソヨ、左)はムンジョンになつくが、ふたりの関係も変わっていく © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED

イ監督は当初、きっかけとなったアイデアにしたがい、この映画を母娘の物語にする計画だった。しかし親子や兄弟といった家族関係を扱うと、目指していたサスペンス/スリラーになりづらいことに気づいたという。そこで、映画の主軸はムンジョンとテガン&ファオク夫婦の物語になった。

「私は脚本を書くとき、必ずひとつのシーンから執筆を始めます。『ビニールハウス』の場合は、自宅に帰ってきた夫のテガンが、盲目ゆえに妻の死体に気づかず、そのかたわらでムンジョンが息を殺しているというシチュエーション。この場面を最初に書いてから、徐々に全編を形にしていきました」

紳士的な夫・テガン(右)。ヤン・ジェソンの名演も本作には欠かせなかった © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED
紳士的な夫・テガン(右)。ヤン・ジェソンの名演も本作には欠かせなかった © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED

執筆の参考となったのは、日本の作家・桐野夏生の小説『OUT』(講談社文庫刊)。深夜の弁当工場で働くパートの主婦が暴力的な夫を殺害したことから、同じく日常に不満を抱えた主婦仲間たちが死体を解体し、4人で自由を目指すという物語だ。

「小説の中に流れている空気が大好きな作品です。私もあんな空気を描きたいと思い、小説を何度も読み返しました」

主演女優キム・ソヒョンとの運命的な出会い

主人公のムンジョン役はキム・ソヒョン。ドラマ『SKYキャッスル~上流階級の妻たち~』(18~19)でブレイクしたのち、角田光代の同名小説を韓国でドラマ化した『紙の月』(23)などに主演した名優で、本作では「韓国のアカデミー賞」こと大鐘賞など映画賞6 冠を受賞した。イ監督は「予算の少ないインディペンデント映画なので、まさかキム・ソヒョンさんに出てもらえるとは思っていなかった」と振り返る。

「なにせこちらは新人監督ですから、最初はあまりにも恐れ多いと感じました。熟練の俳優であるソヒョンさんを、果たして私が演出できるのかと。キャスティングを考えていた時点では、むしろ演技の経験がない方を起用し、一緒につくりあげていくのがいいだろうと考えていたんです」

しかしながら、イ監督とキムの出会いは互いにとって運命的なものとなった。キムは初対面からイ監督を信頼し、「多くを語らずともわかり合える」と直感。実際に映画ができあがるまで、ふたりが作品について議論することはなかったという。イ監督も「すごく不思議な体験で、こんな出会いは二度とないのではないかと思う」と話した。

「もちろん脚本の読み方に正解はありませんが、ソヒョンさんとは求めるものが完璧に一致しました。ムンジョンについて劇中で直接描かなかったこともありますが、特に話し合いはせず、話したのはお互いの人生のことだけ。それでも感じ取れるものがあったのです」

スター俳優のキム・ソヒョンだが、ムンジョン役と過去の自分には重なるところが多かったという © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED
スター俳優のキム・ソヒョンだが、ムンジョン役と過去の自分には重なるところが多かったという © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED

「人間の暗部や欲望を覗き込みたい」

イ監督が敬愛する映画監督は、同じ韓国の巨匠イ・チャンドン。「私は人間の暗部や欲望を覗(のぞ)き込みたい。外側から決して見えない、人々が抱える不安や憂鬱(ゆううつ)を見たいのです」という創作のスタンスは、たしかにイ・チャンドン作品にも通じるところがある。

「自分の描きたい物語を探しつづけることは本当に難しく、ほとんど不可能だろうとさえ思いますが、優れた映画監督は誰もがその作業をつづけていますよね。私の場合、他者に強い興味があるので、出会った人たちの人生を想像することで物語を探しているような気がします。人と会った日の夜は、その人の人生をひとしきり想像しないと眠れないほど。とても疲れる人生なので、できるだけ人に会わないようにしています(笑)」

ムンジョンと元恋人(ナム・ヨヌ、右)の関係はほとんど説明されない © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED
ムンジョンと元恋人(ナム・ヨヌ、右)の関係はほとんど説明されない © 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED

かくも徹底した人間観察と想像から誕生した『ビニールハウス』だが、驚くべきは、濃密な人間ドラマと社会問題への視線を両立させた本作が、わずか100分という上映時間に収まったこと。もっとも映画を観ると一目瞭然だが、イ監督は作品にとって本質的な情報だけを残し、そうではない情報をことごとくカットしている。

「映画というものは、全体の半分を描き、もう半分は観客の想像に委ねるべきだと思います。だからこそ何が起きたのか、また何が起こるのかをあえて説明しないことで、観客のみなさんが想像をふくらませてゆける映画にしたかった。いくつかのシーンを編集で唐突に終わらせているのも、その先をあらかじめ想像させないためです。私自身、映画の世界から現実に戻ってこられず、いつまでも考えてしまうような作品が好きなので」

© 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED
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ムンジョンの物語は、観る者の予想を裏切り、想像もできないようなラストシーンへと着地する。あなたはムンジョンの行動や決断、その終着点をどのように受け止めるだろうか……。もちろん、イ監督はそこにも想像の余地を残している。

「韓国の観客からはじつにさまざまな反応がありました。きっと、観る人によってムンジョンという人物の捉え方もそれぞれ違っていたことでしょう。けれど私は、それもまた映画の醍醐味だと思うのです」

インタビュー撮影:五十嵐一晴
取材・文:稲垣貴俊

© 2022 KOREAN FILM COUNCIL. ALL RIGHTS RESERVED
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作品情報

  • 監督・脚本・編集:イ・ソルヒ
  • 出演:キム・ソヒョン、ヤン・ジェソン、シン・ヨンスク、ウォン・ミウォン、アン・ソヨ
  • 製作年:2022年
  • 製作国:韓国
  • 上映時間:100 分
  • 配給:ミモザフィルムズ
  • 公式サイト:mimosafilms.com/vinylhouse/

3/15(金)よりシネマート新宿、ヒューマントラストシネマ渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開

予告編

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