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映画『オッペンハイマー』:世紀の傑作か、問題作か クリストファー・ノーランが描く「原爆開発」

Cinema

アカデミー賞7部門受賞、2023年夏の世界的大ヒット作『オッペンハイマー』がいよいよ日本公開される。第二次世界大戦中にアメリカの原子爆弾開発を主導した理論物理学者J・ロバート・オッペンハイマーの半生を描いたのは、現代の巨匠クリストファー・ノーラン監督だ。これは誰もが認める傑作か、それとも世紀の問題作か。日本の観客は、この映画をいかに受け止めるのか。

アカデミー賞7部門受賞『オッペンハイマー』ついに日本公開

第96回アカデミー賞で作品賞・監督賞など最多7部門に輝いた映画『オッペンハイマー』が日本公開を迎える。2023年7月に世界各国で公開された本作は、北米興行収入3億ドル、世界累計興行収入9億ドル以上の大ヒットを記録。上映時間3時間超え、しかもR指定(成人指定)の伝記映画という条件では異例の快挙だった。

製作発表時から、本作は映画ファンの間で大きな注目を浴びていた。監督・脚本は、『ダークナイト』3部作や『インセプション』(10)、『インターステラー』(14)などで知られる人気監督クリストファー・ノーラン。出演者にはキリアン・マーフィー、ロバート・ダウニー・Jr.、エミリー・ブラント、マット・デイモンらハリウッドを代表するオールスターキャストが揃った。

ところが『オッペンハイマー』は、早くから日本公開を疑問視する声があがっていた作品でもある。なにしろ題材は、“原爆の父”ことJ・ロバート・オッペンハイマーの半生だったのだ。

クリストファー・ノーラン監督。前作『TENET テネット』(20)でもオッペンハイマーに言及していた © Universal Pictures. All Rights Reserved.
クリストファー・ノーラン監督。前作『TENET テネット』(20)でもオッペンハイマーに言及していた © Universal Pictures. All Rights Reserved.

言うまでもなく、広島・長崎への原爆投下は人類史に刻まれた恐ろしい惨禍であり、オッペンハイマーは「彼の存在なくして原爆投下はなかった」とさえ言えるキーパーソンである。そんな人物を主人公にした映画を日本で公開できるのか、してよいのか。アメリカを含む世界各国から作品の高評価が伝わってきてもなお、日本での劇場公開はなかなか決まらなかった。

本作の日本公開が正式に発表された2023年12月、配給のビターズ・エンドは、「本作が扱う題材が、私たち日本人にとって非常に重要かつ特別な意味を持つものであるため、さまざまな議論と検討の末、日本公開を決定」したとの声明を公開した。洋画の日本公開が発表される際、こうしたコメントが発表されることは極めて珍しい。

オッペンハイマー役はノーラン作品の常連キリアン・マーフィー。アカデミー賞で主演男優賞に輝いた © Universal Pictures. All Rights Reserved.
オッペンハイマー役はノーラン作品の常連キリアン・マーフィー。アカデミー賞で主演男優賞に輝いた © Universal Pictures. All Rights Reserved.

「アメリカン・プロメテウス」

理論物理学者ロバート・オッペンハイマーは1942年、原爆の開発・製造を目的とする極秘プロジェクト「マンハッタン計画」に参加した。前年より第二次世界大戦に参戦していたアメリカは、敵対するナチスドイツが原爆を開発していることを懸念し、核兵器の開発を急いでいたのだ。

陸軍将校レズリー・グローヴスのもと、オッペンハイマーは全米の科学者をニューメキシコ州に招き、ロスアラモス国立研究所で原爆の研究と開発を開始する。1945年7月には人類史上初の核実験である「トリニティ実験」を成功させ、アメリカは翌8月に日本の広島・長崎へ原子爆弾2発を投下した。

マット・デイモン演じるレズリー・グローヴス。厳格な軍人だがユーモラスでもある © Universal Pictures. All Rights Reserved.
マット・デイモン演じるレズリー・グローヴス。厳格な軍人だがユーモラスでもある © Universal Pictures. All Rights Reserved.

オッペンハイマーは、のちに想像を絶する被爆地の惨状を知らされると深く苦悩する。アメリカとソ連が核軍拡競争を繰り広げた冷戦期には、水素爆弾の開発に反対し、それゆえに追いつめられていった。激しい反共思想がアメリカ国内に広がる中、家族や友人たち共産主義者との過去を暴かれ、スパイ容疑をかけられたのである。

映画の原案はカイ・バード&マーティン・J・シャーウィンのノンフィクション『オッペンハイマー』(早川書房刊)。ピュリッツァー賞に輝くこの大著は、原題を「アメリカン・プロメテウス」という。人類に核の力をもたらしたオッペンハイマーを、天界の火を人類に与えたギリシャ神話の神・プロメテウスにたとえたタイトルだ。最高神ゼウスの怒りを買ったプロメテウスは、その罪のため永遠の拷問に処された。

スパイ容疑を受けたオッペンハイマーは聴聞会で激しく詰問される © Universal Pictures. All Rights Reserved.
スパイ容疑を受けたオッペンハイマーは聴聞会で激しく詰問される © Universal Pictures. All Rights Reserved.

ロバート・オッペンハイマーの視点を体感する

物理学を愛し、研究に邁進する喜びにひたりながら、国家の大義に利用され、世界のありようを変える悲劇を生んだオッペンハイマー。その「倫理的ジレンマと矛盾に満ちた」生涯に、ノーランは以前から心ひかれていたという。

彼の半生を描くため、ノーランはひとつの趣向を取り入れた。物語は、オッペンハイマーの学生時代から原爆開発に取り組む経緯(~1945年)と、スパイ容疑を受けたオッペンハイマーの機密保持許可をめぐる聴聞会(1954年)、そしてアメリカ原子力委員会委員長ルイス・ストローズの公聴会(1959年)という3つの時系列が交錯するかたちで展開する。

ルイス・ストローズ役ロバート・ダウニー・Jr.。アカデミー賞助演男優賞を受賞した © Universal Pictures. All Rights Reserved.
ルイス・ストローズ役ロバート・ダウニー・Jr.。アカデミー賞助演男優賞を受賞した © Universal Pictures. All Rights Reserved.

ノーランは、この映画を「決してドキュメンタリーではなく、また再現ドラマでもない」と断言する。名作『アラビアのロレンス』(62)や『アマデウス』(84)にインスパイアされた本作で重要視されたのは、オッペンハイマーの抱えた倫理的ジレンマと矛盾を、観客が本人の視点で追体験できること。脚本は大部分がオッペンハイマーの一人称で書かれ、該当の場面はカラーで表現された。かたや、オッペンハイマーの“宿敵”ストローズの視点を描いた場面はモノクロとなっている。

3つの時系列、2つの視点。オッペンハイマーの半生に多角的に迫るプロットは、原爆開発の到達点であるトリニティ実験と、彼の進退をかけた聴聞会のクライマックスに向けて突き進む。その過程では同じ場面がしばしば異なる視点で繰り返され、よく似たモチーフも反復されるが、ノーランが巧みなのは、そのたびシーンや人物に新たな意味や文脈を付与していくこと。時には同じシチュエーションを反復することで、人間の変わらない部分を浮き彫りにしてみせる。

オッペンハイマーの妻・キャサリン役はエミリー・ブラント。彼女も少しずつ変貌していく © Universal Pictures. All Rights Reserved.
オッペンハイマーの妻・キャサリン役はエミリー・ブラント。彼女も少しずつ変貌していく © Universal Pictures. All Rights Reserved.

SF・アクション・サスペンス・戦争映画といった多様な作品群を手がけてきたノーランは、これまで培ってきたジャンル映画の手法を自身初の伝記映画に持ち込んだ。冒頭はダークな青春物語だが、中盤は原爆開発に賭けた人々のミッション・ムービーになり、後半には法廷サスペンスに変化する構造だ。トーンの変化が3時間もの長尺を飽きさせず、またルドウィグ・ゴランソンによる音楽とジェニファー・レイムの編集も、複雑かつスリリングな物語を怒涛のテンポで押し進める。

「答え」に回収されない映画体験

映画『オッペンハイマー』が広島・長崎への原爆投下や、被爆地・被爆者の現実を直接描写していないことは早くから議論のポイントとなっていた。ノーラン自身はその理由を、「オッペンハイマーの主観を貫くため」だったと語っている。史実のオッペンハイマーは原爆投下の詳細を事前に知らされておらず、他の人々と同様にラジオを通じて知った。この映画では、その時から彼の心境が大きく変化していくさまが描かれている。

主人公・オッペンハイマーに寄り添ったノーランの判断は、おそらくすべての観客に支持されるものではないだろう。本作が観客の間で賛否を分け、時に「問題作」として扱われているのもそのためだ。しかし、こうでなければ描けなかった解釈と物語があることもまた事実で、キリアン・マーフィー演じるオッペンハイマーはきわめて複雑な人物として造形されている。本当に、彼は原爆開発の結果を予想していなかったのか。英雄さながら人々に持ち上げられてゆくなか、どのような精神状態にあったのか。

オッペンハイマーは妻子がありながら、共産党員のジーン・タトロック(フローレンス・ピュー、左)と関係をもつ © Universal Pictures. All Rights Reserved.
オッペンハイマーは妻子がありながら、共産党員のジーン・タトロック(フローレンス・ピュー、左)と関係をもつ © Universal Pictures. All Rights Reserved.

オッペンハイマーを囲む人々も重要だ。“宿敵”ルイス・ストローズ、妻のキャサリン、マンハッタン計画を指揮する陸軍将校レズリー・グローヴス、元恋人にして不倫相手のジーン・タトロック。それぞれに一筋縄でいかない人間味をにじませたのは、当代きっての演技巧者たちだ。彼らのアンサンブルが、“人間”オッペンハイマーの多面性と、原爆開発の抜き差しならない内幕をじわじわと浮かび上がらせる。これもまた、劇映画という形式でこの題材を扱うことの意義と言っていい。

「簡単な答えは出ない、ただ問いかけたかった」とノーランは言う。日本への原爆投下が直接描かれないことも、ある意味では「問い」のひとつだ。死体の山のかわりにカメラがとらえるのは、被爆者の写真を直視することさえできないオッペンハイマーの表情。それは翻(ひるがえ)って、これまであまり想像されてこなかった歴史の一面に対し、観客が想像力をめぐらせるきっかけとなるはずだ。

核物理学者アーネスト・ローレンス役のジョシュ・ハートネット。抑制された演技が評価された © Universal Pictures. All Rights Reserved.
核物理学者アーネスト・ローレンス役のジョシュ・ハートネット。抑制された演技が評価された © Universal Pictures. All Rights Reserved.

さらに言えば、これはオッペンハイマーや原爆開発の物語を、私たちが生きる現代に引きつけて考えるきっかけでもあるだろう。なぜなら、メリットと引き換えに恐ろしいリスクをはらむ革新的なテクノロジーは今も世界中で開発されているからだ。どう考えてもろくな結果につながらない巨大なプロジェクトが、立ち止まりも引き返しもできないまま、闇雲に進められている現実もある。

かつてノーランは、本作の企画を10代の息子に初めて伝えた際、息子から「今の若者は核兵器の問題をさほど心配していない」と聞かされて大きな衝撃を受けたという。しかし同時に、だからこそこの映画を撮る意味があるとも感じたそうだ。作品の中でもインタビューにおいても、ノーランはつねに「具体的なメッセージを語ることはしたくない」と言い続けてきた。しかしラストシーンを見れば一目瞭然であるように、本作にこめられた真意は明らかすぎるほどに明確である。

© Universal Pictures. All Rights Reserved.
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[参考資料]

© Universal Pictures. All Rights Reserved.
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作品情報

  • 監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
  • 製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン
  • 出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー
  • 原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン 「オッペンハイマー」(2006年ピュリッツァー賞受賞/ハヤカワ文庫)
  • 製作年:2023年
  • 製作国:アメリカ
  • 配給:ビターズ・エンド  ユニバーサル映画 
  • 公式サイト:oppenheimermovie.jp
  • 3月29日(金)、全国ロードショー IMAX®劇場 全国50館 /Dolby Cinema®/35mmフィルム版 同時公開

予告編

バナー写真:映画『オッペンハイマー』より © Universal Pictures. All Rights Reserved.

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