映画『おーい、応為』:北斎と娘の触れそうで触れない“粋”な距離感 永瀬正敏×大森立嗣が語る
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北斎とその娘
世界で最もよく知られる日本人画家の1人、葛飾北斎(1760-1849)。その生涯には謎が多い。実名についてさえ諸説あるが、姓は川村あるいは中島、名は幼名を時太郎、のちに鉄蔵を名乗ったという。30以上の画号を使い、北斎はその1つだ。
『富嶽三十六景』をはじめとする風景画から、役者絵、相撲絵、風俗画、美人画、動植物、幽霊まで、あらゆる画題に挑み、90歳で没するまで終生筆を離さず、自ら「画狂老人」と称するほど絵の探求に没頭した。生涯で残した作品は3万点を超える。

主人公・応為(お栄)を演じた長澤まさみ ©2025「おーい、応為」製作委員会
衣食住には無頓着で、庶民の生活を好んで長屋に暮らした。足の踏み場もない乱雑な部屋で絵を描き、転居を繰り返した。引っ越しは93回を数えたという説もある。
その破天荒な北斎にも家族がいた。ただし生活を共にしたのは、気性が似ていたと言われる三女のお栄のみだ。北斎の画才を受け継いだお栄は、師である父から「応為(おうい)」の号を授かり、特に美人画に優れた絵師となった。

お栄は父・鉄蔵(永瀬正敏)が暮らす散らかり放題の長屋に出戻った ©2025「おーい、応為」製作委員会
『おーい、応為』は、そんな歴史の裏に埋もれた “もう1人の天才絵師” の生きざまにフォーカスした映画である。
物語は、ある絵師のもとに嫁いだお栄(長澤まさみ)が、夫の絵を見下したことで離縁となり、父・鉄蔵=北斎(永瀬正敏)の暮らす長屋へと出戻るところから始まる。気が強く、時に父と激しく衝突するお栄だったが、やがて絵に対する志を取り戻し、父譲りの才能を発揮していく。
生活にはだらしないが、絵に執念を燃やす父娘の丁々発止のやりとりのほか、年少ながらお栄のよき理解者である善次郎(髙橋海人)との友情や、兄弟子の初五郎(大谷亮平)への淡い恋心、愛犬さくらとの日常が細やかに描かれる。

お栄を挟んで左が初五郎(大谷亮平)、右が善次郎(髙橋海人)。ともに北斎を師とする。画号は魚屋北渓、渓斎英泉 ©2025「おーい、応為」製作委員会画号は魚屋北渓、渓斎英泉 ©2025「おーい、応為」製作委員会
全身全霊で挑んだ北斎役
監督は大森立嗣。本作の構想を長い間温め、自ら脚本を書いた。
―北斎を描いた作品はいくつかありますが、どう違いを生み出そうと考えましたか?
大森 立嗣 これまで映画やドラマで描かれた北斎は、破天荒な天才画家というイメージでした。僕はもう少し人間的な部分に焦点を当てたかった。どうやって父と娘が同居して、絵を描き続けたか。そこに一番興味がありました。エキセントリックな部分はあくまでエピソードとして、それを通して2人の関係が見えてくればいいかなと。あとは長屋の生活。北斎が視点を低くして、庶民たちの暮らしを見つめる姿勢ですね。

北斎は甘党。応為は父と違って酒を飲み、煙管(きせる)を使った ©2025「おーい、応為」製作委員会
―北斎役をオファーされて、永瀬さんは何を思いましたか?
永瀬 正敏 北斎をやれる機会なんてそうそうないので、うれしかったですね。髪が抜けるほど。まあ抜けましたけど、最終的に(笑)。
―老人になってからの場面は髪をそったのでしたね?
永瀬 お話をいただいた時から、役にすべて身を捧げるつもりでした。撮影順が年代を追ってもらえたので、せっかくですから表現できるものが何か1つでもあればと。
大森 ありがたかったけど、「えっ、本当にいいんですか?」みたいな。
―監督も壮年期から晩年までを永瀬さんにやってほしいというのはあったわけですよね?
大森 それはもちろん。特殊メークって何時間もかかって大変なんですが、今回は非常にうまくいきましたね。全然違和感ないですもんね。それに何と言っても、永瀬さんの体の大きさが……。役者ってすごいですね。
永瀬 いやいやいや。
―最終的には8キロも落としたそうで。年を取るにつれてどんどん小さくなっていきましたね!
永瀬 段階的に小さくしていこうと。これも順を追って撮影できたからですね。北斎は大病をするんですが、自力で治したそうで、すごい人ですよね。年を取って、いったん弱ってから、また復活する。その過程の切り替えは、普通に老いていくのとは違って、すごく難しかったですね。
父娘の絶妙な距離感
―絵を描くシーンがたくさんありますが、吹き替えなしだったとか?
永瀬 絵を描くのは苦労しました。でも先生お2人が諦めずに指導してくださった。呼吸だけで線が乱れる。だから息を止めて1本の線を引く。侍が刀を抜くような真剣勝負でしたね。
大森 僕のわがままのせいで皆さん大変だったと思います。でも手元だけ吹き替えでやるくらいだったら、絵は見せなくていいやという気分になっちゃう。やっぱり絵を描く行為と人がつながっていないと。それを撮りたくて撮っているので。
―外見以外で事前にした役作りはありましたか?
永瀬 脚本の世界をどう生きるかだけで、特に監督と事前に話し合ったことはなかったような……。ただ役者には、脚本にはこう書いてあるけど、こうじゃないかなっていうのを現場に持っていくことがあって。今回は1つ2つ、そういうシーンがありました。
1つは、藩主の命で北斎に屏風絵を依頼しに長屋へやってきた侍(奥野瑛太)が、一向に応じようとしない北斎に業を煮やして刀を抜く場面だという。
永瀬 侍が刀を抜くのは相当なことですよね。父親なら娘を守るために立ち上がるだろうと考えたんですが、“段取り”(本番前の動きの確認)をやっている時に、「それは違うな、鉄蔵の頭だけで考えていたことだな」と思い直して。結果的にはちょっと腰を浮かすだけになっている。長澤さんのお芝居を見ながら「ここは、お栄がドンと構えるところだな」と気付いたんです。
大森 僕がカメラの横から聞いている声と、演じている人同士の聞こえ方って違うと思うんですよ。お栄から直接声をかけられているのは、あくまでも鉄蔵であって。台本という設計図とは違うところで、永瀬さん演じる鉄蔵が何を感じたか。僕はそこを信じる。僕が頭で考えたことよりも、今そこで発せられた声のトーンを、その距離で聞いている人を信じようと。
永瀬 実はクランクインする前から、心に決めたことがあって。早い段階で長澤さんのことを「まさみちゃん」って呼ぼうと思っていた(笑)。親子ですから距離を縮めておいた方がいいのかなと。結果的にその目標は達成されず、今も「長澤さん」って呼んでいますけどね(笑)。後から思うと、この親子関係にはそれでよかったんだなと思います。

応為が絵を描く場面も吹き替えなし ©2025「おーい、応為」製作委員会
大森 後半にお互いが少し弱ってきた時に、「どこかで触れ合いたい」みたいなことを永瀬さんが話していて。「まだ早いかな」とか言いながら、タイミングをどこにするか考えていましたね。鉄蔵が長旅から帰ってよろける瞬間も、お栄は近寄りそうになるけど、まだ行かない。その後、ある出来事があって、お栄はようやく腕を組んで鉄蔵を支えるんです。そこにこの親子の姿が見えるというか。ベタつかないんですよね。
大森監督の「ジャームッシュ的」まなざし
大森監督と組むのはこれが3度目となった永瀬。今回の撮影で特に印象に残ったのは、旅から戻った北斎が、留守中に訪れた不幸を知って嘆き、庭先で独白する場面だったと振り返る。
気持ちが入った永瀬は、カットがかかってスタッフがその場を離れた後も、しばらく庭先にしゃがみ込んでいたという。その姿を1人見守っていたのが大森監督だった。
永瀬 振り向いたら監督がいたんです。そういうのって、とても心強いというか、勇気をもらえるんですよね。1人じゃない感じがして。それに、自分が不安なまま芝居したときは、ちゃんと「もう1回!」って言ってくれる。自分でもダメだと思っているので、やっぱりそうだよなと。そうやって1回整理して、芝居が変わっていく。守られているのを感じられる現場というのは貴いですよね。

北斎は生涯に93回引っ越したという逸話が。大八車に乗るのは愛犬のさくら ©2025「おーい、応為」製作委員会
―そんな風にいろいろ目を配っていながら、大森組は撮影が早いという定評がありますね?
大森 僕には現場を回していこうとかいう意識は全然なくて。助監督がどんどん現場を回そうとするとね、「それはもういいから、ゆっくり行こうぜ」って言うんです。「こなしていくもの」ではなく、1個1個作っていくものじゃないですか。
永瀬 現場に安心感を与えるけれど、ベタベタした感じではないんですよ。そこはちゃんと監督らしさがある。でもなんて言うんでしょうね、大森組にはやっぱり独特な空気がありますね。
―監督は特に意識しているところはないんですか?
大森 うーん……
永瀬 あの、ちょっとすいません……、ジャームッシュに似てる。
大森 えっ、すごいな。困ったね。褒め過ぎですよ。
永瀬 ジャームッシュも見てくれているんですよ。照明部のアシスタントの、そのアシスタントまで、たぶん見ているんです。見守られている感じが安心できる。その視線の温かさがすごく似ている、今そんな気がしました。
応為という“粋”な女性を描く
―応為については資料も少なかったと思いますが、監督はどうやって人物像を作っていきましたか?
大森 『葛飾北斎伝』(飯島虚心)には、応為について「たばこを吸い、酒を飲み、任侠風を好み……」みたいなことが書いてある。うちのお袋も似たような感じで。いろんな要素が混ざって出てきたキャラクターじゃないですかね。杉浦日向子さんの『百日紅』ではもう少しクールな女性に見えるけど、杉浦さんの描写にある女性のかっこよさはすごく好きで、そこに原型があるかもしれないですね。

代表作となった肉筆画『吉原格子先之図』に取り組むため、応為は遊郭の「見世」を訪ねる ©2025「おーい、応為」製作委員会
永瀬 長澤さんは“粋である”のが1つのキーポイントだったと言っていましたね。お栄は絵の才能だけでなく、性格も鉄蔵から受け継いでいて、言いたいことはオブラートに包まず、ストレートに一言で言う。だからぶつかり合っても分かり合っている。その生き方が“粋”なんじゃないかな。「お栄ちゃん、やっぱ粋だね」って長屋で言われている感じを、長澤さんが体現していたと思います。
―海外の人が見てどう思うのか、興味深いですね。
永瀬 SNSにあげると、海外から「お前が北斎をやるのか?」「いつロンドンで公開するんだ?」とか、けっこう反応がありますね。ある女性の美術監督、世界的な超売れっ子ですが、「早く見たい!」って。皆さん北斎は知っていますけど、応為のことは知らないからすごく興味があるみたいですね。
大森 海外ね。あんまり意識してなかったな。北斎は有名ですもんね。
永瀬 応為を知ってもらえるいい機会になるんじゃないかと。
大森 こういうかっこいい女性が昔の日本にもいたんだ!ってね。
取材・文:渡邊玲子
インタビュー撮影:花井智子
【永瀬正敏】ヘアメイク:TAKU for CUTTERS(VOW-VOW)/スタイリスト:渡辺康裕
作品情報
- 監督・脚本:大森 立嗣
- 出演:長澤 まさみ 髙橋 海人 大谷 亮平 篠井 英介 奥野 瑛太 寺島 しのぶ 永瀬 正敏
- 原作:飯島虚心 『葛飾北斎伝』(岩波文庫刊) 杉浦日向子 『百日紅』(筑摩書房刊)より「木瓜」「野分」
- 音楽:大友 良英
- 配給:東京テアトル、ヨアケ
- 製作国:日本
- 製作年:2025年
- 上映時間:122分
- 公式サイト:https://oioui.com/
- 10月17日(金)より全国ロードショー








