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映画『急に具合が悪くなる』:濱口竜介は早世の哲学者が愛した「他者と生きる始まりに充ちた世界」をどう描いたか

Cinema

濱口竜介監督の最新作。今年5月に開催された第79回カンヌ国際映画祭で主演のヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が女優賞を受賞した。フランスと日本を舞台に、女性2人の出会いと絆を描く。往復書簡という形の原作から豊かな物語を紡いだ濱口監督の狙いを探る。(文中敬称略)

映画はしばしば出会いを描く。それまでまったく互いの存在を知らずに生きてきた2人が突然出会うことでドラマが生まれ、物語を動かす力になる。濱口監督はこの偶然の出会いをとりわけ大事に考えてきた映画作家だ。

最新作『急に具合が悪くなる』でも、2人の女性がある日偶然に出会い、親密な関係を結んでいく様子が前半のヤマ場として描かれる。物語を魅力的にするには、ありふれた出会いでは足りない。「魂の片割れ」、フランス語でいう「âme sœur」(=ソウルメイト、直訳で「魂の姉妹」)にめぐりあったような、強烈な体験が求められる。

マリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ、右)と真理(岡本多緒)は出会ってすぐに打ち解けた
マリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ、右)と真理(岡本多緒)は出会ってすぐに打ち解けた

濱口監督が脚本を書く際に着想を得たのが、「原作」としてクレジットされている同名の書籍だ。哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂の共著で、2019年9月に出版された。同年代の2人が交わした20通に及ぶ往復書簡。文通は同年4月下旬に始まり、3カ月足らずで終わった。8年前からがん治療を続けてきた宮野が、7月22日に42歳で亡くなってしまったのだ。

生をめぐる対話と偶然性の哲学

原作のタイトルになった印象的なフレーズは、2人の手紙のやりとりの最初から登場する。磯野が宮野にワークショップの講師を依頼した際、宮野から「急に具合が悪くなるかもしれないと医師に言われている」と体調が急変する可能性を告げられたのが発端だ。

磯野は宮野がステージ4のがん患者だとは知っていたが、この言葉に動揺し、違和感を覚えた。医学の見地から想定された「確率のあいまいな」リスクを考慮して、行動を制限し、個人のありようを変えていいのか? いつしか連呼されるようになった「リスク管理」「安心安全」という掛け声は誰のためのものなのか? 磯野は医療現場のフィールドワークで見聞きした事象をもとに、生や社会、病や死をめぐる問いを宮野にぶつけていく。

これに対し宮野は、自らの体験・体感を専門分野の哲学に照らして考察する。宮野の思考の軸には、哲学者・九鬼周造(1888-1941)の著作『偶然性の問題』がある。くしくも濱口監督が自らの映画作りを通して考え抜いてきたテーマと重なっている。

マリー=ルーは迷子になった智樹(黒崎煌代)に声をかける
マリー=ルーは迷子になった智樹(黒崎煌代)に声をかける

2人の学者の往復書簡は、次第に「魂の探究」の様相を帯び始める。もちろんテーマは深遠でも、堅苦しい対話にはならない。2人は互いを尊重し思いやる柔らかさを保ちながら、正直に自分の弱さや思いをぶつけ合い、平易にして明快なヒントを導き出していくのだ。

そこには、相手の論旨を的確に読み解き、理路整然と応じる学者ならではの生真面目なやりとりがある。これを話し言葉に置き換えたらどうだろうか。濱口監督の脳裏にそんな興味がよぎってもおかしくない。最初は遠慮がちに交わされていた会話が突然核心に触れ、一気に白熱した議論になるのは、彼の映画にもよく見られた場面だ。しかも往復書簡で常に立ち返るテーマが「偶然」である。

智樹を探していた祖父の吾朗(長塚京三=左から2人目)と真理に出会うマリー=ルー。真理は劇作家で、吾朗は彼女が演出する舞台の主演俳優だった
智樹を探していた祖父の吾朗(長塚京三=左から2人目)と真理に出会うマリー=ルー。真理は劇作家で、吾朗は彼女が演出する舞台の主演俳優だった

フランス人と日本人の出会い

濱口監督が映画化を検討し始めてからしばらくして、フランスの制作会社より新作の誘いを受ける「偶然」が訪れたという。これを機に、原作を大胆に翻案し、フランス人と日本人を主人公とした物語を練り上げていく。舞台もフランスと日本。人物の背景にはディテール豊かな設定が盛り込まれた。

磯野から派生したキャラクターは、日本の大学で文化人類学を学んだフランス人のマリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)。介護の先進的なコンセプトを推進する高齢者施設の運営者だ。一方、宮野のポジションには、フランス留学中に哲学を勉強した真理(岡本多緒)という劇作家が当てられる。2人は日本語とフランス語、どちらでもコミュニケーションが取れる設定だ。

初対面で演劇公演のチラシを渡したことが2人の再会につながった
初対面で演劇公演のチラシを渡したことが2人の再会につながった

この2人がある偶然からパリの公園で出会う。数日後、仕事でスタッフとの関係に悩んだマリー=ルーは、ふと思い立って真理が演出する舞台を観に行き、2人は再会を果たす。瞬時に波長の合った2人は公演後、夜を徹して語り合い、親密さを深めていく。やがてマリー=ルーは、「急に具合が悪くなるかもしれない」と告白した真理の現実と向き合うことになる。

人は急に具合が悪くなることもあれば、ある日突然、魂の片割れに出会うこともある。そして人生には、ほかにもありとあらゆる可能性が無限に散らばっている。ひとつの可能性が、また別の新たな可能性を開く。マリー=ルーにとって、真理の出現はまったくの偶然に見えて、まるで運命の定めであったかのように感じられた。真理にとってもまた、マリー=ルーが新たな運命を開く存在となる。知り合ったばかりの2人は、互いの存在を手がかりに、それまで抱えていた問題にケリをつけるのだ。

マリー=ルーは高齢者施設の運営が自分の理想通りに進まず悩みを抱えていた
マリー=ルーは高齢者施設の運営が自分の理想通りに進まず悩みを抱えていた

境界をめぐる思考

3時間16分に及ぶドラマには、さまざまな要素が織り込まれている。濱口監督は原作にとらわれることなく、自身の関心に沿って発見したトピックを、綿密なリサーチによって探究し、物語の時間に厚みを加えていった。

溝口監督がこれまで思索を重ねてきたテーマの1つに「境界」がある。『急に具合が悪くなる』でも、あらゆる場面に境界を考え抜く視点が貫かれている。

日本語とフランス語によるコミュニケーションはその一断面に過ぎない。マリー=ルーが運営する高齢者施設には、内と外があり、ケアする側とケアされる側の壁がある。医師と患者、看護師と介護福祉士、健康な人と病人、高齢者と若者、健常者と障害者、自己と他者、生と死……。至るところで境界をめぐる攻防が繰り広げられている。

だがこうした二項対立を示すのがこの映画の狙いでないのは明らかだ。境界をめぐる思考はそんなに単純ではない。例えば自己もまた一個の他者である。おのれの病める身体や死は他者である。これは原作でも映画でも注意深く語られている。登場人物たちは境界に触れ、それを強化して自分を守ろうとしたり、あるいは越えようともがいたりする。真理が演出する舞台にも、演者と観客の境界を問い直す試みがあった。

真理が演出したのは、精神医療の脱施設化をテーマにした実験的な舞台
真理が演出したのは、精神医療の脱施設化をテーマにした実験的な舞台

濱口監督は、さまざまな出来事を通じて遍在する境界線を試練にかけ、それが揺らぐ場面をじっくりと見つめるように、映画の時間を作り上げていった。こうして私たちは3時間16分の間、人々が相手を見つめ、手をとり、身体に触れ、鼓動を伝え合う姿をスクリーン上に発見し、他者と共に生きることが驚異そのものであるのを知るだろう。

原作の書簡で宮野は、世を去る約1カ月半前の2019年6月9日、明日死ぬかもしれない中、途中で投げ出すことを承知で仕事を引き受ける「無責任」を認めつつ、こう書いた。「最後に残った未完結な私の生を誰かが引き継いでくれれば嬉しいなと思うから」。まさか映画監督がその役を負う1人になるとは想像していなかったに違いない。だがこうした奇跡のようなめぐり合わせは、人生の最期を迎えようとしながらこうつづった人だからこそ、引き寄せることができた。

「なんて世界は素晴らしいのだろうと、私はその『始まり』を前にして愛おしさを感じます。偶然と運命を通じて、他者と生きる始まりに充ちた世界を愛する。これが、いま私がたどりついた結論です」(2019年7月1日 宮野真生子)=『急に具合が悪くなる』(晶文社)より

映画『急に具合が悪くなる』
映画『急に具合が悪くなる』

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
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作品情報

  • 出演:ヴィルジニー・エフィラ 岡本 多緒
    長塚 京三 黒崎 煌代
  • 監督:濱口 竜介
  • 原作:宮野真生子・磯野真穂 著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
  • 脚本:濱口 竜介 ルディムナ 玲亜
  • 撮影:アラン・ギシャウア
  • 編集:山崎 梓
  • 音楽:サミュエル・アンドレイエフ
  • 製作:Cinéfrance Studios オフィス・シロウズ ビターズ・エンド Heimatfilm Tarantula
  • 配給:ビターズ・エンド
  • 提供:Soudain JPN Partners
  • 製作年:2026年
  • 製作国:フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作
  • 上映時間:196分
  • 公式サイト:bitters.co.jp/soudain/
  • 6月19日(金)TOHO シネマズ日比谷ほか全国ロードショー

予告編

バナーおよび本文中の画像:濱口竜介監督『急に具合が悪くなる』 © 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

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