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映画『うたのはじまり』:歌えなかった“ろう”の写真家、齋藤陽道が「うた」を発見するとき

Cinema

映画『うたのはじまり』は、“ろう”の写真家が同じく“ろう”の妻との間に耳の聞こえる息子を授かって、嫌いだった歌と向き合い、自分の「うた」を発見していく姿を追ったドキュメンタリー。被写体となった齋藤陽道と、彼に密着した気鋭の監督・河合宏樹に、本作の成り立ちについて話を聞いた。

齋藤 陽道 SAITO Harumichi

写真家。1983年、東京都生まれ。都立石神井ろう学校卒業。2010年、第33回キヤノン写真新世紀優秀賞受賞。13年、ワタリウム美術館にて個展「宝箱」を開催。15年に宮沢賢治の詩を写真に「翻訳」した『写訳 春と修羅』を刊行。18 年に『声めぐり』と『異なり記念日』を同時刊行。最新写真集『感動、』(赤々舎)を19年12月に発売。

河合 宏樹 KAWAI Hiroki

映像作家。学生時代より自主映画を制作。震災後よりミュージシャン、パフォーマーなど表現者に焦点を当てて撮影。古川日出男らが被災地を中心に上演した朗読劇『銀河鉄道の夜』を追い、14年に初のドキュメンタリー映画『ほんとうのうた』を発表。16年、ミュージシャンの七尾旅人が戦死自衛官に扮したライブ映像作品『兵士A』を監督。17年、飴屋法水と山下澄人の初タッグ作「コルバトントリ、」の映像記録を監督。

映画のはじまり

Mr.Children、窪田正孝などの撮影を手掛けてきた写真家の齋藤陽道は、感音性難聴により、生まれつき耳がほとんど聞こえない。映画は冒頭から、河合宏樹監督が齋藤との間で交わす筆談を中心に、齋藤の母へのインタビュー、過去に齋藤が出演したパフォーマンスの記録映像などを交え、彼の聴覚がどんな状態であるか、なぜ彼が歌を嫌いになったのかを明らかにしていく。

齋藤は音楽を単なる振動としか感じられないため、話すことにも困難が伴う。学校では健聴者(聴者ともいう)とともに音楽の授業を受けていたが、ただ座ってやり過ごしていたという。彼に「歌うのは苦痛」という刷り込みがなされたのも当然だった。

補聴器を付けて育った齋藤だが、20歳で決意してそれを手放し、聴くことよりも見ることに集中して、写真家の道を選んだ。写真家になる前は、障害者プロレスの団体に所属したこともある。齋藤にとってはプロレスも写真も、音声言語を介さずに行うコミュニケーションだった。

齋藤は、写真家として大規模な個展を開いた翌年の2014年1月、東京・下北沢の富士見丘教会で上演された『光のからだ』vol.3「雪が降る。声が降る。」(演出=飴屋法水、出演=CANTUS、飴屋法水、くるみ)に出演した。河合はこの公演を映像に記録しており、これが二人の出会いとなる。

『光のからだ』vol.3「雪が降る。声が降る。」飴屋法水(右)の問いかけに肉声で答える齋藤陽道 ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS
『光のからだ』vol.3「雪が降る。声が降る。」飴屋法水(右)の問いかけに肉声で答える齋藤陽道 ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS

飴屋は齋藤を使って「耳が聞こえないとはどういうことか」を観客の前で実演していく ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS
飴屋は齋藤を使って「耳が聞こえないとはどういうことか」を観客の前で実演していく ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS

公演では、美しいハーモニーを奏でる聖歌隊・CANTUSを前に、齋藤が「なぜ歌っているの?」と肉声を振り絞って問いかける。飴屋法水は指揮者のように腕を振って、齋藤から歌を引き出そうとする。あるいは「耳がついているのに、聞こえないのはどうして?」と彼の耳を引っ張ったり、至近距離でラッパを吹いたりもする。さらには、観客に彼が障害者プロレス団体に所属していたことを明かし、取っ組み合いを始める。この飴屋の公演は、非常に暴力的な側面を持ちながらも、どこか齋藤自身に歌や音楽と半ば強引に向き合わせるために執り行われた「儀式」のようにも映る。

誕生の瞬間

飴屋の過激かつ誠実な演出に衝撃を受けながら、齋藤のことをもっと知りたいと思った河合。公演後、縁があり数年経ってから「ドキュメンタリーを撮らせてほしい」と本人に依頼する。二人はそのときの考えをこう振り返った。

映画『うたのはじまり』の齋藤陽道(左)と監督の河合宏樹(撮影:渡邊 玲子)
映画『うたのはじまり』の齋藤陽道(左)と監督の河合宏樹(撮影:渡邊 玲子)

河合 宏樹 最初は飴屋さんの公演を見て僕が感じたことを、ドキュメンタリーを通じて再解釈しようという試みだったんです。こんなに追いかけることになるとは思っていませんでした。

齋藤 陽道 普段撮る側だからこそ、撮られる側にもならなきゃと思っているので、全然抵抗はなかったです。とりあえず「撮れるものは何でも撮って!」ということで、妻のお産の様子も撮影してもらいました。

河合監督は、齋藤の妻の出産を赤裸々に映し出す。後日、生まれた子は聴者であることが判明した ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS
河合監督は、齋藤の妻の出産を赤裸々に映し出す。後日、生まれた子は聴者であることが判明した ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS

河合は齋藤の言葉通り、同じく“ろう”の写真家である盛山麻奈美の出産シーンを余すところなく映像に収めていく。河合が立ち会った齋藤の長男・樹くんの誕生は、この作品のテーマが生まれた時でもあった。 

河合 齋藤さんから「産声ってどんなものなの?」って訊かれたときに、僕はどう表現していいのかわからず、うまく答えることができなかった。だからそれを二人のテーマとして、一緒に探っていきたいと思ったんです。最初は写真家である齋藤さんを被写体にして、映像作家である僕が同化するように撮影できたら、という考えでした。でも実際には、僕と齋藤さんは、“聴者”と“ろう者”として以上に、もっと決定的に違うことに気が付いた。これは、飴屋さんから作品を見た感想を言われて気が付いたのですが、その違いに向き合うことで、相手に対する尊敬の念が生まれることもあるということ。そんな相手との遠くて近いもの、そうしたことに気付くことも大事だと学ばされました。

生まれたてのわが子を抱きしめる齋藤。彼には聞こえない「産声」をどう伝えるかが、この映画のテーマになった ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS
生まれたてのわが子を抱きしめる齋藤。彼には聞こえない「産声」をどう伝えるかが、この映画のテーマになった ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS

ろう者の両親から生まれた樹くんは聴者だったが、言葉よりも先に、両親が日常的に使う手話を身に付けていた。しかしある日、一緒に風呂に入った齋藤の「ジャブジャブジャブ」という即興の「うた」に反応し、ついに発語する。齋藤はそのことをカメラ越しに河合から伝えられ、感動を覚える。

それは、樹くんにとって初めての発語であると同時に、齋藤が「うたのはじまり」に出会った瞬間でもあった。「自分には歌えない」という彼のかたくなな思い込みが、目の前で楽しそうにしている息子の反応によって溶け出したのだ。

齋藤 小さい頃からよく聞こえず、うまく話せない僕は、音に対して絶望感や切なさのようなものを感じていました。歌は頑張って聴いたり歌ったりするものだと考え、僕には無理なことだと思い込んでいたんです。でも歌は自然とあふれるものなんだということを知りました。子どもは僕の声を全て受け入れて、僕のどんな声にも反応してくれるんです。それに対して僕はすごく心地よさを感じました。そこから自然に僕の「うた」が生まれてきたという感じです。

聞こえない音楽の探求

この出来事をきっかけに歌に興味を持った齋藤は、音楽についてもっと知りたいと思うようになり、知人のミュージシャンを訪ねて、「あなたにとって音楽とは何か」と問いかける。そのうちの一人がシンガーソングライターの七尾旅人だった。七尾の出演する野外ライブの会場に足を運んだ齋藤は、観客の反応から音楽を知ろうとする。やがて地面に咲く一輪の花に目に留め、そこに彼なりの音楽を感じ取る。

齋藤が「宮沢賢治の雨ニモマケズを体現している、優しくて強くてかっこいい人です」と評す七尾旅人(左) ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS
齋藤が「宮沢賢治の雨ニモマケズを体現している、優しくて強くてかっこいい人です」と評す七尾旅人(左) ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS

齋藤は仕事でミュージシャンを撮影することも少なくない。撮影を始めた当初は、「歌詞や経歴からその人を探ろうとしていた」と振り返る。だが音楽を聴くことができない彼にとって、それが重要でなかったことを悟る。それ以来、被写体との向き合い方を変えたのだという。

齋藤 物腰やまなざし、手の温かさ、文字を通してその人を理解し、それから撮影に入るようになりました。そうしたらなんだかうまく噛み合ってきた。撮るときはいつもドキドキしていますが、そういう風に撮っているうちに、歌も音楽も写真も言葉も枝葉でしかなく、それを支える大木はやっぱりその人間だよなあと思うようになりました。

齋藤が風呂で樹くんに歌う場面に付けられた「絵字幕」。アーティスト「小指」とのコラボで誕生した。ろう者にも「うた」が温かくて豊かなものであることを伝えられるきっかけになれば、との思いが込められている ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS
齋藤が風呂で樹くんに歌う場面に付けられた「絵字幕」。アーティスト「小指」とのコラボで誕生した。ろう者にも「うた」が温かくて豊かなものであることを伝えられるきっかけになれば、との思いが込められている ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS

『うたのはじまり』は、「耳の不自由な人に歌をどう伝えるか」というテーマに迫るべく、音楽を可視化する試みとして「絵字幕版」も併映される。これは齋藤自身が提案したもので、アーティスト「小指」が手掛ける「スコアドローイング」というオリジナルの手法を採用した。

齋藤 自分では映画の「うた」の部分を見ても全く分からないんです。もっと強弱とか、動きとか、リズムとか色が変わるとか、柔らかいものが「うた」だと思うから、通常の字幕ではない形で字幕が欲しいなと悩んでいました。この絵字幕によって、自分の声が具現化されて、「うた」と初めて出会えたと思えました。そのことに、何よりも感動しました。一般的なバリアフリー上映とはちょっと違う、新しい表現に昇華されていると思います。

絵字幕版によって、聞こえる、聞こえないという境界を越えて「うた」と出会った感動を伝えたいという彼らの思いは、きっと多くの人々の心に響くに違いない。

七尾旅人(左)の前で齋藤がうたう「子守歌」の絵字幕 ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS
七尾旅人(左)の前で齋藤がうたう「子守歌」の絵字幕 ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS

境界を見つめ直す

出会いからほぼ6年。撮影の開始から作品の完成までを通じて、二人は何を得たのだろうか。

齋藤 飴屋さんと一緒にパフォーマンスをしたときに比べると、歌に対してすごく柔軟に捉えられるようになったと感じています。心の中からあふれ出るものをそのままに伝えていいんだっていうのが分かってから、歌に対する抵抗がなくなりました。それが今回の撮影を通じて感じた一番大きな変化や発見です。

河合 まさにそのことを映画の中でも語ってくれていて、僕もそこまでたどり着けたことをとてもうれしく思っています。この映画の中で齋藤さんがうたっているのは樹くんのための「うた」なんです。でも今回の絵字幕版を通じて「うた」にどんな抑揚があるのかを初めて知った齋藤さんが、今後自分のための「うた」を見つける可能性があるかもしれません。

出産を終えた妻と生まれた子どもにシャッターを切る齋藤 ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS
出産を終えた妻と生まれた子どもにシャッターを切る齋藤 ©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS

齋藤 “ろう者”と“聴者”とか、男と女とか、物事の境界というものは、すべて言葉によって形作られています。僕自身は言葉が生まれる前の原点にさかのぼり、いろんなものが「ただそこにいる」だけの世界を見たいと思って、これまで写真家としての活動を行ってきました。この映画も同じです。根本的な、大切なものを撮ってもらえたと思っています。河合さんも「根本とは何か」を考える方なんです。いつも撮る側の自分が撮られてみて思ったのは、被写体の態度や心が、映像の良し悪しに直結すると。そう考えると、これまで撮影させてくれた方々に対して、ありがたいなとより思うようになりました。

河合 齋藤さんを追いかけたら、「うた」だけでなく、人間関係や生活における「根本を見つめ直そう」ということもテーマになったと感じています。2014年の公演で飴屋さんが齋藤さんの耳をつかむシーンを最初に見たときは、僕も衝撃を受けました。そのシーンを受けて、いま思えば、社会に合わせた取り繕った疑問ではなく、純粋な疑問をちゃんと向き合う相手に示すことが必要な世の中になっているんじゃないかと考えるようになりました。

長男の樹くんはいま4歳になった。夫婦には2人目の畔ちゃんも誕生し、河合はその出産シーンも撮影したという。「産声とは?」という齋藤の問いに対する答えを、河合はまだ出せずにいる。だが、今回の『うたのはじまり』という作品を通じて、人が人に切実な思いを届けようとして「うた」が生まれる瞬間や、音声によらない「うた」の感じ方を、私たちに伝えてくれているのは間違いない。

取材・文・撮影=渡邊 玲子(2020年1月24日、東京都写真美術館における上映会での手話通訳を交えたトークイベントの取材と、グループチャットを用いた個別取材を基に構成)

©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS
©2020 hiroki kawai/SPACE SHOWER FILMS

作品情報

  • 出演:齋藤 陽道、盛山 麻奈美、盛山 樹、七尾 旅人、飴屋 法水、CANTUS、ころすけ、くるみ、齋藤 美津子、北原 倫子、藤本 孟夫 他
  • 監督・撮影・編集:河合 宏樹
  • 整音:葛西 敏彦
  • 字幕作成:Palabra 株式会社|Score Drawing:小指
  • 配給:SPACE SHOWER FILMS
  • 製作年:2020 年
  • 製作国:日本
  • 上映時間:86 分
  • 公式サイト:utanohajimari.com
  • 2月22日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか順次公開

予告編

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