極限を超える技と美:世界最強ロシア新体操の舞台裏に肉迫、『オーバー・ザ・リミット』のマルタ・プルス監督に聞く
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ロシア新体操界の女帝とは
夏季五輪の華、新体操はロシアのお家芸だ。2000年のシドニー大会以来、5大会連続で個人、団体の二冠を制している。その強さの秘密がこのドキュメンタリー映画で明らかになる。一つのカギはイリーナ・ヴィネルの存在だ。1992年からモスクワのオリンピックセンターで選手たちの指導に当たり、01年にはロシア代表のヘッドコーチに、08年から全ロシア連邦新体操総裁に就任している。トップ選手に「女王」の称号が与えられるなら、イリーナは「女帝」と呼ぶにふさわしい。
マルタ・プルス監督が最初に目を付けたのは、まさにこの人物だった。
「私は子どもの頃に新体操を習っていて、映画の学校に行ってから、いつかこのテーマで撮ってみたいと思っていました。新体操といえばロシアです。巨額の資金が投じられ、国を挙げて強化されています。それで、ロシアの新体操についてインターネットで調べていたら、イリーナ・ヴィネルを発見しました。体操スクールは国中にありますが、エリート中のエリートだけが彼女の学校に通えるのです。私はまず、イリーナのキャラクターを通して、彼女が築き上げてきたトレーニング・システムについて描こうと思いました。それこそが、ロシアという国の支配体制のメタファーになると思ったからです」
しかし、実際に彼女とコンタクトを取って、練習の現場に足を踏み入れるにつれて、最初に思いついたプランはやや壮大すぎたことに気付く。
「やがて、一人の選手を知りたいという思いに変わってきました。私も新体操していたし、年も近いので、彼女の経験なら理解しやすい。彼女が生きている世界を描くことができると考えました。それはイリーナが作り上げた世界ですから、最初に思いついたテーマからそこまで離れることはないと思ったのです」
女王マムーンの磁力
その選手が、この映画のヒロイン、マルガリータ・マムーン(以下、リタ)だ。16年のリオ五輪には、20歳でヤナ・クドゥリャフツェワとともに個人総合のロシア代表に選ばれた。しかし2歳年下のライバル、ヤナこそがロシア不動のエース。前年までに世界新体操選手権で史上4人目となる個人総合3連覇を達成し、金メダルの大本命だったのだ。
大きな大会が迫るにつれ、2番手のリタに対するコーチたちの指導はますます苛烈さを増していく。幼少期から師事するアミーナ・ザリポアに激しく叱責され、そこへ女帝イリーナの罵倒が追い打ちをかける。リタの指導をめぐる両者のやり合いもすさまじい。普通の世界ならすぐにパワハラという言葉が口をついて出そうな、見ているだけで胸が締め付けられる場面の連続だ。しかしリタは何度も折れそうになりながら、時に受け流し、時に歯向かいもして、「絶対に勝たなければならない」という重圧に屈しないだけの心と体を鍛えていく。
「私はリタの内面世界を見つめました。とても感受性が高いと思った。何が起きているのか必死に考えている。常にじっくり分析しながら、現実を理解し、限界を乗り越えようとしていて、そこが他の選手とは違うところでした。彼女が内に秘めているものには、磁力のような強い力があると感じました。彼女を主人公にすることに迷いはなかったです」
プルス監督は過酷な練習風景だけでなく、日常にも密着して普通の女の子の表情にも迫ろうとするのだが、リタのガードは固かった。
「私は結局、リタと友達のような関係にはなれませんでした。彼女が休息をとったり、家族と過ごしたりするプライベートな時間を撮影するのはとても難しかったのです。3度お願いして、ようやく1度だけ家に行くことをOKしてくれましたが、2時間以内にしてくれと言われました」
近くて遠い被写体との距離
こうして、カメラが驚くほど距離を縮めて迫りはするものの、主人公が決して自分を語ることのない独特のドキュメンタリーが生まれる。
「彼女が私に心を開かなかったからこそ、結果的によかったこともあります。練習や試合の時、彼女は私たちを徹底的に無視しました。あるいは気付いていなかった可能性もある。だからあそこまで接近できたのです。彼女にとって私たちは、そのくらい取るに足らない存在だった。そして、彼女はそれほど集中していました。真のプロフェッショナルです。オリンピックを目標に準備していたわけですから、カメラが横にあるくらいで態度を変えることはなかったのです」
撮影は大会の場面を除いて、ほぼワンカメラで通した。周囲に絶えず音楽が鳴る難しい環境ながら、音声の録り方には細かい配慮と高い技術がうかがえる。カメラとマイクを操る2人の技術者の間で、じっと息をひそめて被写体を見つめているプルス監督の姿が想像できる。
結果を出せなかった試合の直後、日の沈む海岸にリタとコーチのアミーナを連れ出し、これからについて語り合ってもらったという。二人の強い信頼関係と人間らしさが感じられる美しい場面だ。だがこの1シーンを除き、全編を通じて観察に徹している。ナレーションも一切ない。一人のアスリートを通して、プロフェッショナル同士が火花を散らす厳しい世界を映し出した作品はこれまでにも数々あるが、それらのどれとも似ていないのは、ストーリーの意図的な方向付けを徹底的に排しているからだろう。それでいて、最後には素晴らしい結末が待ち受けている。
「私はこの世界を黒か白かといった見方で考えていません。あらゆる物事はもっと複雑であって、映画の中でもそれを単純化したくないのです。観客に与える情報は、ヒロインに何が起こっているのか、彼女とともに感じられるだけでいい。見る人それぞれが自分に問いかけられるような余白を残しておきたかったのです。私は映画を撮るとき、観客が無関心にならないように気を使います。興味を持って、感情を動かされながら、この映画を体験してもらえればいい。なぜなら人は、感情を動かされる体験をするとき、何かを考え始めるからです。何かを感じて、リタのことを思い、自分について考えてほしい。私が望むのはそれだけです」
取材・文=松本 卓也(ニッポンドットコム)
作品情報
- 監督:マルタ・プルス
- 出演:マルガリータ・マムーン、イリーナ・ヴィネル、アミーナ・ザリポア、ヤナ・クドリャフツェワ
- 配給:トレノバ、ノーム
- 製作国:ポーランド、ドイツ、フィンランド
- 製作年:2018年
- 上映時間:74分
- 公式サイト:http://otl-movie.com
- 6月26日(金)ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿ピカデリーほか、全国順次ロードショー