2回のお代替わりを見つめて

シリーズ・2回のお代替わりを見つめて(6)新年宮中行事:悲しみに包まれた30年前

社会

お代替わりの年を迎えた。2019年1月2日の新年一般参賀には、平成最多の約15万5000人の長い列ができた。講書始、歌会始など新春の宮中恒例行事も終わり、ご退位は秒読み段階に。一方、30年前(1989年)の皇居では昭和天皇が1月7日に87歳の生涯を閉じ、激動の昭和が終わった。悲しみの中で現憲法下初の皇位継承儀式が進んでいった。

元日の夜明け前から始まる諸行事

天皇陛下はご在位最後の新年宮中行事を、例年通り元日の夜明け前から始められた。まず御所で「四方拝(しほうはい)」に臨み、皇祖神をまつる伊勢神宮、歴代天皇のお墓や四方の神々に拝礼された。宮殿では皇后さまと共に、皇太子ご夫妻ら皇族方、安倍首相をはじめ三権の長らから新年のお祝いを受ける「新年祝賀の儀」に臨まれた。午後には各国大使ら約130人からも順次あいさつを受けられたが、体のバランスを崩し、皇后さまに支えられる場面もあった。85歳になられた陛下にしては過酷なタイムスケジュールが続いた。

翌2日の一般参賀は、国民が直に天皇陛下のお姿を見てお言葉を聞ける最後の機会だけに、開門前から約3万人の行列ができた。平成最多の参賀者となったのは、前月の天皇誕生日記者会見で、何度も感極まり、お声を震わせながら「平成の思い」を語られた陛下に共感した国民が多かったからではないか。陛下は多くの参賀者に応えて、当初は5回の予定だったお出ましを、2回増やして午後4時すぎまで行う異例の対応を自ら提案されたという。陛下を見送る参賀者から大きな拍手がわいた。

新年(2019年)をお迎えになったご一家(出典:宮内庁ホームページ)http://www.kunaicho.go.jp/activity/gokinkyo/newyear/h31-0101-ph.html
新年(2019年)をお迎えになったご一家(出典:宮内庁ホームページ

雅子さまが3年ぶりに宮中祭祀に

昭和天皇が亡くなられて30年となる同7日には、東京都八王子市の武蔵野陵(むさしののみささぎ)で、「昭和天皇30年式年祭」が営まれ、両陛下が拝礼された。三権の長らも参列。現陛下が即位してから30年ともなる節目の日で、陛下はこの30年式年祭を行ってからの譲位を望まれていたといわれる。一方、皇居の宮中三殿の歴代天皇をまつる皇霊殿でも同祭が行われ、皇太子ご夫妻が古式ゆかしい装束で参拝された。雅子さまが宮中祭祀に臨まれたのは約3年ぶりで、お代替わりを控えて新春の朗報となった。

武蔵野陵を参拝された天皇陛下と秋篠宮さま=2018年1月7日、東京都八王子市(時事)
武蔵野陵を参拝された天皇陛下と秋篠宮さま=2019年1月7日、東京都八王子市(時事)

しかし、学界の第一人者から講義を受ける「講書始」(1月11日)、歌会始(同16日)に、雅子さまは風邪のため相次いで欠席された。間もなく皇后となられる雅子さまの体調問題を改めて心配する声が、宮内庁関係者らから聞かれた。

新年行事の締めくくりとなる歌会始は、1267年(鎌倉時代中期)に始まったとされる伝統行事で、今日では短歌を介して皇室と国民を結ぶ「市民参加の宮中行事」となった。陛下は今回、24年前の阪神大震災で亡くなった被災者の自宅跡地に咲いたヒマワリに関しての歌を詠まれた。被災地お見舞いを続けた陛下らしい、被災者への思いを込めたお歌である。

贈られし ひまはりの種は生え揃ひ 葉を広げゆく初夏の光に

新春行事と皇位継承準備が同時進行だった30年前

30年前の新年は、昭和天皇の年越しのご闘病の中で明けた。昭和天皇も大晦日にお歌を発表してきたが、倒れる2か月前の1988年7月に皇居内のお堀を詠んだ1首はとてもさびしいものだった。

夏たけて堀のはちすの花みつつ ほとけのをしへ おもふ朝かな

悟りの境地とさびしさを詠み込み、人生の終わりを感じさせる昭和天皇の晩年の作である。

ご病状がこのまま推移した場合を前提に、歌会始などの宮中行事の日程も発表されていた。宮内庁では新春行事の遂行と、皇位継承行事の準備が同時に行われていたのだ。元日の新年祝賀の儀は、国事行為臨時代行の皇太子さま(現陛下)が務められた。この行事をめぐって、宮内庁内では年末まである議論が続いていた。

「陛下(昭和天皇)が大変な時に、参列者に酒や尾頭付きの鯛をふるまっていいのか」と。最終的に、「お酒を飲むのは酔っ払うためではなく、新年が良い年であるように祈るためのもの」「鯛も自粛ブームの行き過ぎに、少しでもストップをかけることができれば」という考えで収まり、例年通りに行われた。

同2日の一般参賀は皇族方のお出ましはなく、宮殿前での記帳だけとなった。昭和天皇の病状は新年に入ってさらに深刻さを増し、同5日には昏睡状態になった。そして、同7日午前6時33分、111日間の闘病を静かに終えられた。

筆者は午前6時前から宮内庁で取材していたが、皇太子ご一家や、竹下首相らが次々と天皇のお住まいの吹上御所に入ったので、「その時」が訪れたことを直感した。宮内庁の記者会見がいつもの記者クラブではなく、大きな講堂で行われる通告が6時20分ごろにあったので、重大発表があることも分かった。

初めに「ご危篤」、続いて藤森長官による「崩御」の会見があり、さらに高木侍医長がご容体経過の発表を行い、腺がんであることを昭和天皇には秘して治療に当たっていたことなどを明らかにした。

男性皇族だけで行われた「剣璽等承継の儀」

午前10時からは宮殿で最も格式の高い正殿「松の間」で、皇位継承の最初の重要儀式である「剣璽(けんじ)等承継の儀」が行われた。代々の天皇が皇位継承の証しとして受け継ぎ、常にそばに置いてきた「三種の神器」の宝剣と曲玉(まがたま)や、天皇の国事行為の際に押される印章「天皇御璽(ぎょじ)」「大日本国璽」を引き継ぐもので、国の儀式として行われた。

剣璽等承継の儀(出典:宮内庁ホームページ)http://www.kunaicho.go.jp/about/seido/seido10.html
剣璽等承継の儀(出典:宮内庁ホームページ

父天皇のご臨終を看取ってからまだ3時間半後で、その悲しみの中、新天皇は厳しい表情で中央に進まれた。続くのは、皇位継承資格を有する新皇太子さまら男性皇族のみ。竹下首相ら参列者も男性だけだった。昭和天皇に仕えた侍従らが箱におさめた剣璽を新天皇の前の机に置いた。新天皇がその剣璽を捧げ持つ侍従にはさまれて、ゆっくり退場され、大正の終わり以来実に62年ぶりの儀式は終わった。

その4分間、新陛下を含め全員無言のままで、わずかに靴音が響くだけだった。筆者は、報道陣に初めて公開された儀式を取材して、男女平等の時代に女性皇族の参列がない儀式に少し違和感を覚え、カラーではなく白黒で音声のない記録映画を見ているような気がした。そして、今まで昭和天皇が立っておられた位置に新陛下が立たれ、皇位がバトンタッチされたのだと強く感じた。

厳しい体験も生前退位の一因

ご心痛に耐え、天皇になられた緊張感に満ち、じっと前を見つめたままの新陛下のお姿を忘れることができない。陛下は27年後(2016年)の譲位の意向を込められたお言葉の中で、「天皇の終焉に当たっては、(喪儀に関連する)様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」と述べられた。陛下のあの時の厳しい体験が、生前退位を望まれる一因になったのだ。

昭和天皇が亡くなられたその日の午後2時半すぎ、首相官邸で新元号「平成」が発表された。「平和が成る」と考えれば良い元号だと思った(元号については稿を改める)。皇居前は、昭和天皇の死を悼む弔問記帳の人たちで埋め尽くされていた。

即位後朝見の儀(出典:宮内庁ホームページ)http://www.kunaicho.go.jp/about/seido/seido10.html
即位後朝見の儀(出典:宮内庁ホームページ

2日後の1月9日、新天皇が国民の代表に初めて会われる「即位後朝見(ちょうけん)の儀」が国の儀式として行われた。ベールのついた黒の帽子姿の皇后さまをはじめ、三権の長、国会議員、自治体の代表ら240人余が参列。「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い、国運の一層の進展と世界の平和、人類福祉の増進を切に希望してやみません」。新陛下が現代調のわかりやすい言葉で綴った3分間のお言葉を、よく通る声で述べられた。

特に「憲法を守って責務を果たす」という件(くだり)は、天皇としては当然のことではあるが、とても新鮮に聞こえた。政治家の演説とは違い、簡潔なお言葉となったのは、「象徴天皇はそんなに長々と、いろいろ言えないからだ」と宮内庁幹部が教えてくれた。

今年5月1日の「即位後朝見の儀」で、新天皇はどんなお言葉を述べるのか、そして憲法にどう触れられるのかが注目されている。

(2019年1月29日 記)

バナー写真:新年の一般参賀であいさつされる天皇陛下と皇后さま=2019年1月2日、皇居(時事)

皇室 天皇 昭和天皇