コラム:亜州・中国

コラム:亜州・中国(4)宮古島は異邦人を引き寄せる

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沖縄県の離島、宮古島が国際的リゾートに変貌しつつある。中国や香港、台湾などから観光客が押し寄せ、高級ホテルが相次いでオープン、不動産価格が高騰している。空前の「宮古島バブル」から、アジアと日本の今も垣間見える。

バブル、ハンモック宿を揺らす

青い海に白い砂浜……。サンゴ礁に囲まれ「宮古ブルー」で有名な宮古島は、正確には大小6つの島(宮古島、伊良部島、下地島、来間島、池間島、大神島)からなる。6島とも現在、宮古島市に属する。

宮古諸島は沖縄本島(那覇)から南西に約300キロメートル。石垣島とはおよそ130キロ、東京から約2000キロ離れている。離島だけに、宮古方言は那覇や石垣島ともかなり異なる。

宮古島市の総面積は6島で約204平方キロ、沖縄県全体の1割弱ほどだ。人口は5万5327人(2019年8月末現在)。亜熱帯海洋性気候に属し、年平均気温が摂氏23度の離島は今、建設ラッシュが続き、いわゆる宮古島バブルで熱くなっている。

その宮古諸島を10年ぶりに訪ねた。前回と同じ「カサ・デ・アマカ」に10月9日にチェックインし、2泊した。英語による旅行ガイドブックとして世界的に定評のあるロンリープラネット(Lonely Planet)にも取り上げられた民宿。宿主は関山直嗣氏(66)である。

「ハンモックを備え、スペイン語を話す主人がいる日本で恐らく唯一の宿泊施設」。ロンリープラネットではこう紹介されている。関山氏は南米に2回長期滞在した経験があり、スペイン語を操る。

ゆらゆらと揺れるハンモックは、南米で生まれた寝具。カサ・デ・アマカとは「ハンモックの家」という意味だ。宿泊用の各部屋にはハンモックが吊られており、布団やベッドはない。

カサ・デ・アマカの10年前(上)と現在(下)
カサ・デ・アマカの10年前(上)と現在(下)

閉館が近いカサ・デ・アマカの宿泊客は全員リピーターだった=2019年10月11日
閉館が近いカサ・デ・アマカの宿泊客は全員リピーターだった=2019年10月11日

関山氏は群馬県からの移住者。カサ・デ・アマカは関山氏が借りた2階建ての一軒家で、2007年7月1日にオープンした。「宿泊者は日本全国からで、リピーターも多い。外国人はフランス、イタリア、スペインなどラテン系もいるし、英語圏からの旅行者も来る」

ところが、今年7月4日、ホームページに突然「アマカ閉館のお知らせ」が載った。

「急なお知らせをご容赦ください。カサ・デ・アマカは、11月末日をもちまして看板を下ろすことになりました。土地建物所有者による立ち退き要請です。(中略)これからについては白紙です。ただ昨今の島の不動産事情からして、別の場所で再開することは難しいと思われます」

大橋開通と国際空港が引き金

宮古島バブルの引き金となったのは、2015年1月に開通した「伊良部大橋」である。宮古諸島で最大の宮古島(約158平方キロ)と2番目に大きい伊良部島(約29平方キロメートル)を結ぶ全長3540メートルの大橋で、無料で渡れる橋としては日本最長だ。

従来、宮古島と伊良部島の往来はフェリーなど航路しかなかった。伊良部島は「離島の離島」とさえ呼ばれたが、大橋で両島は一体化した。

伊良部島の西に隣接している下地島(9.68平方キロメートル)では2019年3月、「みやこ下地島空港ターミナル」が開業した。国際線は香港の格安航空会社(LCC)、香港エクスプレスが飛び、国内線はLCCのジェットスター・ジャパンが成田線、関西線を運航している。

1979年供用開始の下地島空港はかつて民間ジェット機のパイロット訓練などに使われていたが、40年を経て宮古諸島で初の”国際空港”に生まれ変わったのである。「空港から、リゾート、はじまる」をコンセプトにした新ターミナルは、お洒落な造りで風も吹き抜ける。

宮古島にはもともと「宮古空港」があるが、国内線しか運航していない。直線距離で約16キロしか離れていない下地島空港はLCCが中心で、利用者は国内線、国際線とも主に観光客だ。

大橋と国際線フライトという大動脈を得て、伊良部島では外資系や本土資本が次々にリゾートホテルを建設、宮古島以上にバブルの様相を呈している。県外から出稼ぎの建設作業員も続々とやってくる。賃貸物件は高騰し、空き物件はほとんどない。

宮古島のあちこちで建設ラッシュ=2019年10月10日
宮古島のあちこちで建設ラッシュ=2019年10月10日

沖縄県の最低賃金は10月3日、時間額で762円から790円に引き上げられたばかり。だが、宮古島や伊良部島では「時給1000円は出さないと人は集まらない」という声を聞いた。実態は全国一高い東京都の最低賃金(10月1日から時間額で1013円)と変わらない。

カサ・デ・アマカは建設ラッシュさなかの伊良部島にある。12年余りの歴史に幕を閉じるのは、まさに“宮古島バブル”のあおりだ。

中華圏から観光客、台湾分校も

宮古島の表玄関、平良(ひらら)港。ここには連日、クルーズ船が停泊している。沖縄本島や石垣島など国内からだけではなく、中国のアモイ(厦門)や深圳、台湾の基隆などから大量の観光客を連れてくるのだ。

平良港に停泊するクルーズ船=2019年10月10日
平良港に停泊するクルーズ船=2019年10月10日

港ではクルーズ船専用の大型岸壁の整備が進んでいる。世界最大のクルーズ客船運航会社、カーニバル・コーポレーションが2020年4月、免税店などを備えたターミナルビルを開業する予定だ。

宮古島市の統計によると、入域観光客数(推計値)は2013年度の40万391人、14年度の43万550人から、伊良部大橋開通後の15年度は51万3601人に急増。その後はうなぎ上りで、18年度は114万3031人(空路68万8874人、海路45万4157人)にまで膨らんだ。

今年度前半(4-9月)は61万3313人(空路40万1708人、海路21万1605人)と前年同期比9.85%減になったとはいえ、依然として高水準で推移している。

宮古島にやってくるのは観光客にとどまらない。台湾のキリスト教系の総合大学、長榮大學(台南市)の分校計画が浮上している。同大は既に宮古島に日本教育センターを新設しており、日本分校の開設を目指すとしている。

信号1基だった島内は様変わり

筆者が初めて宮古島の地を踏んだのは、大学生だった45年前。1974年8月28日早朝、那覇港からひめゆり丸で宮古島の平良港に到着、9月5日まで民宿「川田荘」に8泊した。

今回、川田荘の女将、川田和さんに45 年ぶりに再会した。川田荘は「全個室冷房完備」の立派なビルになっていた。

近くの繁華街はお土産物屋やカフェなどが軒を連ね、10年前に比べても光景は一変していた。2001年に開設された宮古島徳洲会病院のそばには大きな駐車場があり、その周辺にはイオン、ヤマダ電機、マクドナルドなど全国ブランドの店舗が並ぶ。

45年前、宮古島には信号機が1基しかないといわれた。今ではタクシーや観光バスが島内をひっきりなしに走り、信号機も増えた。交通事故防止のため、警察官姿のマネキン人形「宮古島まもる君」が登場している。まもる君は宮古諸島に19体設置されているという。

10年前の宮古島は人通りも少なかった=2009年8月
10年前の宮古島は人通りも少なかった=2009年8月

「東洋一の白い砂浜」といわれる前浜ビーチ、最東端の東平安名崎にある白亜の灯台、身長が石の高さを超えると税を課せられたとも伝えられる「人頭税石(にんとうぜいせき)」……。これら宮古島の名所、旧跡なども45年ぶりに再訪した。

45年前、宮古島の「人頭税石」のすぐ後ろは海だった(左)=1974年9月。今は後ろは埋め立てられ、海がよく見えない。
45年前、宮古島の「人頭税石」のすぐ後ろは海だった(左)=1974年9月。今は後ろは埋め立てられ、海がよく見えない。

岩の天然アーチが絶景の砂山ビーチにも寄ったが、「ここは私有地です」と書かれた黄色い看板が立てられていた。この白浜もやがて、リゾートホテルのプライベートビーチになるのかもしれない。

砂山ビーチ。左奥に「私有地」の看板があった=2019年10月10日
砂山ビーチ。左奥に「私有地」の看板があった=2019年10月10日

島内の主なビーチには「海浜利用についての注意事項」などと書かれた大きな看板があった。日本語、英語、中国の大陸で使われる簡体字、香港・台湾で使われる繁体字、そしてハングルが併記されていた。

島内のあちこちで、ホテルやマンションの建築が急ピッチで進んでいた。サトウキビなど農業が主産業だった離島は半世紀を経て、国際的な観光地になっていた。

柳田国男が見通していた“激変”

「いわゆる琉球三十六島の中でも、宮古は異常に歴史の進化の歩みが激しく、しかも天災地変の圧迫が強烈であって、人は悩み且つしばしば入替り、したがって言語文物の錯雑が著しい……」

民俗学者、柳田国男(1875-1962年)は晩年の著『海上の道』(1961年刊)で、宮古島についてこう描写した。

先史時代、宮古諸島は日本の縄文・弥生時代の影響を直接受けていなかったというのが定説だ。13世紀以降、渡来人の定住が本格化したといわれ、14世紀末には琉球王朝に統一された。

琉球王国は17世紀初め日本の薩摩藩の支配下に入ったが、明・清時代の中国への朝貢は続いた。明治時代の廃藩置県を経て、琉球藩から沖縄県になった経緯がある。太平洋戦争で宮古島は地上戦こそなかったものの、空襲や艦砲射撃でほぼ焦土と化した。戦後の米国統治から、沖縄県が本土に復帰したのは1972年だった。

宮古諸島には毒蛇ハブは生息していないが、天変地異の過酷な歴史がある。過去に何度も大型台風にさらされた。河川がない離島は干ばつにも苦しめられ、大飢饉や疫病に見舞われた。江戸時代、1771年(明和8年)には大地震による「明和の津波」が発生した。

今回の宮古諸島の旅で、筆者は10月10日、伊良部カントリーパーク陸上競技場での伊良部長距離会(久貝榮会長)の定例練習会に飛び入り参加した。みんなで5000メートルを完走した後、車座になっての飲み会「オトーリ(御通り)」にも加わった。

オトーリとは、一人ひとりが順番に立ち上がって口上を述べ、その度に全員で泡盛を回し飲みする宮古独特の風習だ。この日参加した十数人のうち、地元で生まれ育った人たちは少数派だった。

関山氏をはじめ歯科医、画家ら移住者、転勤族2人、観光に携わっている台湾人、筆者を含めた旅行者3人を合わせると、外来者がオトーリ参加の半数以上を占めた。様々な人たちが集まっては散じる人の入れ替わりを象徴するようなひとときだった。

伊良部長距離会の練習後の「オトーリ」=2019年10月10日
伊良部長距離会の練習後の「オトーリ」=2019年10月10日

みやこ下地島空港ターミナルが誕生した今年3月、宮古島では陸上自衛隊の駐屯地が開設された。地元には自衛隊基地反対論もあるが、現在の警備隊約380人に加え、2020年以降、地対空・地対艦ミサイル部隊も配備し、最終的に700~800人規模に増強する計画だ。

防衛省が宮古島駐屯地を新設したのは、中国の軍備増強や海洋進出を念頭においてのこと。離島防衛のため、抑止力を高める狙いもある。

その一方で、大陸からはクルーズ船で中国人観光客が押し寄せる。中国と微妙な関係の台湾からの観光客も少なくない。民主化を求めて大規模なデモが続く香港からも、観光客がやってくる。島内では中華圏からの人波が交錯し、複雑に交じり合う。韓国からの観光客は落ち込んでいるが、今後は欧米からのツアー客も増えそうだ。

コバルトブルーの海と白い砂浜が美しい、宮古島の前浜ビーチ
コバルトブルーの海と白い砂浜が美しい、宮古島の前浜ビーチ

柳田が看破していたように、宮古諸島は“激変”の時代を迎えている。外資や本土資本の流入で膨張するバブル経済に、不満や不安を覚える地元民がいるのも事実だ。それでも、宮古諸島は今も昔も、外国人や移住者たちを引き寄せてやまない。

(写真撮影は筆者)

バナー写真:宮古島の最東端に伸びる東平安名崎=2019年10月10日

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