コラム:亜州・中国

コラム:亜州・中国(11)河野洋平・元衆院議長に聞く 「政治家の最大の目標は戦争をしないこと」

政治・外交

2022年は日中国交正常化50周年。サンフランシスコ講和条約発効から70年でもある今年、戦後最大の危機になりかねないロシアのウクライナ侵攻が起きた。外相を2度務めた河野洋平・元衆院議長に日中関係と日本外交の在り方を聞いた。

河野 洋平 KŌNO Yōhei

1937年、神奈川県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。67年、30歳で衆院議員に初当選して以来、2009年に政界を引退するまで14回連続当選。新自由クラブ代表、科学技術庁長官などを経て92年、宮沢内閣の官房長官。93年に自民党総裁に就任。94年、自社さ連立の村山内閣に副総理・外相として入閣。99年、第二次小渕改造内閣で外相に再任し、続く森内閣でも留任。2003年から09年まで衆院議長。

鄧小平との会談が一番強い印象

 今年は1972年9月の日中共同声明から半世紀の節目です。国交正常化前の67年に政界入りされていますが、中国とのかかわり、対中認識についておうかがいします。

河野 衆院議員になる前、一民間人として中国に行ったことがありますが、議員になって初めて訪中したのは1970年9月です。香港から広州を経由して北京に行きました。そのときの印象は「北京秋天」の青い空というより、自転車のすごい波でした。

中国で一番強い印象を受けたのは1979年9月、北京で鄧小平さん(中国共産党副主席)と会談したときです。新自由クラブ衆参両院議員の訪中団の団長として、3時間近く、ざっくばらんにいろいろな話をしました。

一番大きな印象は、中国は現実を直視しているということ。日本の方が圧倒的に経済は強くて、当時のGNP(国民総生産)でいうと、中国の5倍近くでしたが、中国は自分たちの置かれた状況を非常にしっかりと認識し、学ぼうとする姿勢でした。そのころから鄧小平さんの改革・開放路線が進むわけです。

鄧小平さんは文化大革命の混乱の中から、奇跡的に副主席に復活したばかりでした。訪中団の田川誠一さん(衆院議員)は中国の内情に詳しく「あなたは二度も三度も失脚して、どうやって復活したのですか」と質問したら、鄧小平さんはタバコをくゆらせ、にこにこしながら「私は二度失脚し、二度復帰したと言われていますが、実は失脚も復帰も三度目です」と打ち明け、「毛沢東が私をすごくかばってくれました」と率直に話していました。

国交正常化50周年の日中関係

 中国は名目のGDP(国内総生産)で2010年に日本を抜きました。日中関係の現状をどうとらえていますか。

河野 一部の日本の政治家、日本人は中国にGDPで追い抜かれたような事態を認めたくないわけです。正しい状況を認めない、それが日中関係にとって一番悪いですよ。もっと根源的なことを言えば「自分たちは戦争でアメリカには負けたかもしれないが、中国には負けていない」という古い変な記憶がこびりついたままずっと行くのは、日中関係を非常に悪くしていまいます。

もう一つ言えば、国交正常化当時は日本から中国へ行く人が相当多かった。やがて中国からの訪問者が圧倒的に多くなり、日本から中国に行く人はむしろ減り気味になりました。その往来(の不均衡)が両国の相手に対する理解度の差をかなり広げましたね。

少なくとも現状がどうなっているか正しい認識を持つことが必要で、一番大事です。それがコロナ禍というまことに不幸な事態で、人の往来がなくなってしまいました。特にこの2年間くらいは、どれくらい正しい生の情報が入ってきたのか。もちろん、北京の日本大使館、垂秀夫大使は相当頑張ったと思います。それでも、庶民が知りたいこと、庶民の肌感覚で中国が今、どうなっているかはなかなか伝わらない。

日中間には情報の目詰まりがあるのではないでしょうか。よく「民をもって官を促す」といいますが、公の目詰まりを直すのが、経済であり、投資です。こんな状況でも、日中間の貿易量は相当あるし、投資もそんなに減っていない。日本経済も中国経済も今や両者が補完し合う必然性があります。経済的にはお互い不可欠になっているが、それを政治は見たくない、そういう認識がやはり問題ですね。

習近平氏は「終身」を目指すのか

泉 コロナ禍の前は日本国際貿易促進協会の会長として毎年春に訪中し、習近平国家主席や李克強首相らと会談してきました。中国首脳の印象をうかがいたい。

河野 李克強首相は、非常に有能な事務のトップという感じです。習近平国家主席は実直な、飾らない、偉ぶらない、しかし存在感はあるという感じの人です。

今、一番難しいのは、習近平氏がどのような人物であるかを見極めることです。本当に(今秋の中国共産党大会を経て)終身、主席をやりたいと思っているのか。案外そうではなくて、中国のこれまでのリーダーと同じように与えられた仕事だけは、人が何と言おうと頑張ってやるという人なのか。 

習近平氏が「中国の夢」や「中華民族の偉大な復興」の演説をしたのは、本当に世界を抑え込む大国を目指しているのか。そうではなくて、14億の民(たみ)、少数民族を一つにまとめて中国を発展させる目標を掲げるという意味で演説したのか、もう少し幅広く研究する必要があるのでないか。

ウクライナ危機、国連改革が大事だ

 ロシアのウクライナ侵攻をどうとらえていますか。

河野 あのロシアの暴走をどうやって抑止することができたかというと、ロシアの中に抑止の仕組みがあったのか、なかったのか。あったとしても、それが働かなかった。ロシアに自分で抑止する力がないとすれば、誰かが抑止しなければならない。期待されたのはNATO(北大西洋条約機構)でもなんでもなく、国連のはずだった。しかし、そのロシアは国連安全保障理事会の常任理事国で拒否権もあり、国連には抑止力がないことがあからさまになりました。

 ウクライナのゼレンスキー大統領は3月23日、オンライン方式での日本の国会議員に向けた演説で、国連も安全保障理事会も機能しなかったと批判し、国連改革の必要性を訴えました。外相時代の1994年9月と2000年9月の国連総会での演説で日本は常任理事国としての責任を果たす用意があると表明しましたが、国連改革にどう取り組むべきですか。

河野 あのときは(常任理事国入りを目指して)大分やりましたが、難しさを思い知らされました。国連というのはガラス細工みたいなもので、どこか一カ所をいじると、全部ガラガラといってしまう。一カ所いじることもできない。しかし、今にして思えば、やはり国連改革が大事です。

国連改革は難しいが、安易に第二国連を作れと言っても始まらない。ここは米国とロシアなら、米ロが真剣に話し合うしかない。自由主義の国々が米国にしっかりやってくださいと言うことから始めないと、できないのではないかと思う。

インタビューに応じる河野洋平氏
インタビューに応じる河野洋平氏

オルブライト長官と「訪朝」秘話

 米国初の女性国務長官を務めたマデレーン・オルブライト氏がウクライナ侵攻さなかの3月23日、84歳で死去しました。彼女は著書でプーチン大統領の第一印象を「爬虫(はちゅう)類のように冷たい」と評していました。

河野 彼女はチェコスロバキアの出身で、クリントン政権の国務長官でした。僕が外相時代のカウンターパートで、初めて会ったときは取っつきにくい感じでしたが、最後はずいぶん親しくなりました。

北朝鮮の核開発問題で、米国務長官として初めて2000年10月に北朝鮮を訪問し、帰りにソウルで韓国外相も交えて三人で会いました。その時の訪朝は結局、核問題の解決にはつながらず、クリントン大統領(当時)の訪朝も実現しませんでしたが、ソウルで彼女からこう誘われました。「ミスター河野、次は一緒に北朝鮮に行きましょう」と。

オルブライトさんは長男、太郎(河野太郎元外相)の留学先、ワシントンのジョージタウン大学でゼミの指導教授でした。会うたびに「太郎はどうしてる?」と聞かれました。

「南西諸島の非軍事化」は選択肢

 日中関係の大きなトゲは依然として台湾問題です。最近は「台湾有事は日本有事」などの議論さえ聞かれます。一方で今年は沖縄の復帰50年という節目でもあり、「緊張緩和のため、日本から南西諸島を非武装地域としていくと提案してはどうか」と唱えていますね。

河野 こういう事態になると防衛予算を増額せよ、という話が出るが、そんなことでは危機は乗り切れないと思う。お互いに軍事予算を積み上げるだけの負のスパイラルになる。日本の国にとっては外交力によって問題を解決することが何よりも大事だ。

外交力によって問題を解決するには、日本から何らかの提案をしなければ、外交は展開できない。いろいろありますが、一つの提案として「南西諸島の非軍事化」は必要ではないか。

今回のウクライナ問題も、外交的な方法で最後の落としどころを探すことが、どうしたって必要になります。今、外交が頑張らないとだめだ。日本の外交は他人事みたいなことを言っていてはだめで、わが事として考えなければいけない。ところが、日本はわが事として考えろと言うと、すぐに「台湾有事」となる。

台湾問題は、米中間では1972年2月の上海コミュニケに「一つの中国を主張する中国の立場に米側は異論を唱えない」と書かれています。日本も同年9月の日中共同声明で、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部という中国側の立場を「十分理解し、尊重」するとして、1978年の日中平和友好条約を作ったわけですから、それらをもう一度確認しなければいけない。

外交が今、働くべきときだ。日本外交は何か提案をしなければだめだ。「南西諸島の非軍事化」は選択肢の一つとして言ったのです。

サイパン訪問が平和外交の原点

泉 著書『日本外交への直言』(2015年刊)で、「外交の目的は、『戦争を起こさないこと』、それに尽きるであろう」と書かれています。

河野 それは僕の最大の主張なのです。とにかくどんなことがあったにせよ、政治の究極の目的は戦争をさせないこと、しないこと。どんな理屈をつけても正義の戦争はない。戦争そのものが犯罪だと僕は思う。戦争をやらずに問題を解決しなくてはいけない。

僕が議員になったころは、戦争に行った国会議員がかなりいました。戦争中、僕自身は小学生のころで、空襲警報で防空壕(ごう)に逃げ込んだり、機銃掃射を受けたりしました。近くの人が亡くなり、従兄が戦死するなど、戦争体験が身近にありました。

僕が議員になって最初の外国訪問がなぜか、1967年10月のサイパンだったのです。戦争が終わって20年余、旧日本軍将兵のおびただしい数の白骨がまだそのままありました。鉄砲を抱いたままの遺骨とか、刀を背中にした遺骨とか。あまりの悲惨さに声も出ませんでした。

平和外交の意味を深く考えるようになったのは、サイパンで見た衝撃的な光景がきっかけです。あの状況を見たら、戦争は問題にならないと思いました。戦争についてもっともらしい顔をして語る人も嫌でした。

政治家としての最大の目標は、戦争をしないことです。

(2022年4月8日、都内の河野洋平事務所でインタビュー)

【河野洋平・元衆院議長インタビューを終えて】

ハト派保守政治家の「アジア太平洋平和外交」

河野洋平氏は満州事変から6年後、日中戦争が勃発する半年ほど前に神奈川県平塚市で産声を上げた。両親が「平和の海であれ」「太平洋上、波平かなれ」と祈るような思いで命名したという。

父、一郎氏は戦時中、大政翼賛会の非推薦議員として軍部に批判的だった。戦後は自民党の派閥を率いた大物政治家だったが、1965年7月、67歳で急逝した。洋平氏の葬儀での挨拶は「20代とは思えないほど立派で感銘を受けた」と、宮沢喜一元首相から直接聴いたことがある。

洋平氏もまたリベラルで国際派の宮沢氏を敬愛していた。自民党から飛び出して新自由クラブを結成する直前、解党して戻る際など政治人生の節目に足を運んで相談している。復党後、宏池会に入り、宮沢政権づくりに奔走したのは「必然的」だった。

自民党にはタカ派、ハト派が共存する。軍縮問題に政治生命をかけた宇都宮徳馬氏(衆参両院議員、日中友好協会会長など歴任)らが結成したアジア・アフリカ問題研究会(通称A・A研)はハト派の源流で、洋平氏も属した。「アジア太平洋の平和外交」がライフワークとなった所以だ。

今回のインタビューでは、鄧小平氏と会うたびに中国語読みで「洋平(ヤンピン)」と呼ばれていたエピソードを明かした。外相時代、中国の唐家璇外相とは「箱根の温泉に二人で入り、風呂で長時間、いろいろなことを話したこともある」という。

保守リベラリスト政治家の代表格である。だが、相手のある外交交渉については「100%はありえない。51%の満足が得られれば成功。少しでも前に進むなら10%でも諒とすべきだ」と極めて現実的だ。「相手を尊敬し、深い信頼関係を築く」ことが外交の要諦とも説く。

バナー写真:中国訪問の際に贈られた書の前に立つ河野洋平氏。「寵辱不驚」(ちょうじょくふきょう)と読み、「誉められても、また逆に貶されたとしても心驚かすことをしない」という意味の成語という。

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