コラム:亜州・中国

コラム:亜州・中国(12) 谷野作太郎・元中国大使に聞く(前編) 「ウクライナ危機は『外交』の出番だ」

政治・外交 国際・海外

ロシアのウクライナ侵攻は世界を揺るがせている。駐中国、駐インド両大使を歴任した谷野作太郎氏に日本外交の在り方などについてインタビューした。前編では、ウクライナ危機下の外交の役割、国交正常化50周年の日中関係などを聞いた。

谷野 作太郎 TANINO Sakutarō

1936年、東京都生まれ。59年、外交官試験合格。60年、東京大学法学部卒業後、外務省入省。中国課長、内閣総理大臣秘書官(鈴木内閣)、駐米国大使館公使、駐韓国大使館公使、アジア局長、内閣外政審議室長などを歴任後、95年、駐インド大使兼駐ブータン大使。98年、駐中国大使。2001年に退官後、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授、財団法人日中友好会館副館長などを経て、現在、同会館顧問。

外交がなければ戦争は防げない

 ウクライナ危機に伴い、米中関係や日中関係と絡んで「台湾有事」などの議論が急浮上しています。

谷野 今、日本では「いずれ台湾有事の事態が来る」、「台湾有事は日本の有事」、はたまた「だから『米国との核の共同保有』について早急に議論を始めよ」と。

中国の習近平国家主席は台湾武力解放の挙に出るほど愚かだと思いたくありませんが、ウクライナをめぐる情況を中国は注意深く観察しているはずです。

いずれにせよ、台湾の将来を決めるのは、台湾住民の意志です。将来、中国と台湾との間の関係をどうするかということについては、あくまでも両者の間の平和的な話し合いによって決めていくべきものです。

「台湾有事」は「日本の有事」という側面があることは否定しませんが、その前に日本の政治の領袖(りょうしゅう)方が対外的に発すべきメッセージは、そうならないように、ここは「外交」の出番だということです。「外交」ですべてを防げるわけではありませんが、「外交」がなければ戦争は防げない。

中国はもっと仲介に動いてほしい

 中国語とともにロシア語を勉強され、旧ソ連時代にモスクワ勤務の経験もあります。ウクライナ危機に日本外交はどう向き合うべきでしょうか。

谷野 私は若い身でモスクワの日本大使館に勤務したこともあって、キエフ(キーウ)やクリミアも訪れたことがあります。プーチン大統領の暴挙は許し難いことですが、なぜ、そうなる前に、米国とロシアの間でもっと真剣な外交活動がなされなかったのか、という思いを強くしています。米国はむしろその間、ポーランド経由で最新の武器をウクライナに送り続けたといわれています。そしてウクライナのNATO(北大西洋条約機構)入りをけしかけた。

冷戦崩壊後も、ウクライナは、ここが軍事的に対立するロシアと西欧諸国との間にあって地政学的に軍事的緩衝地帯たることを宿命づけられています。

ゼレンスキー大統領はやっとNATO加盟をあきらめ、ウクライナに適した軍事的「中立」の仕組みを案出したいと言っているようです。ぜひ関係国が知恵を絞って、そこにたどりついてほしいと思っています。EU(欧州連合)加盟はよいと思いますが、他方、バイデン大統領の「プーチン政権を倒してやるんだ」と…。あの発言は本音はともかく、勇み足でしたね。(バイデン氏の)令息についてはかつて、ウクライナ・ビジネスとの関係が取り沙汰されたこともありました。その一方で、パラノイア(偏執病)のうわさが絶えず、核の使用を口にするプーチン大統領も心配。とにかく、政治、外交が機能しないで戦争となった時、その下で犠牲になるのは、いつも責任のない女性たち、いたいけな子供たち、そして老人たち…。今のあの痛々しいウクライナの情況は、中国では全く報道されていないのでしょうね。

中国もこの際、もっと仲介の方向で動いてほしいですね。そうすれば、世界が中国を見る目も少しは変わるでしょう。

日本の今の立場でロシアとウクライナ、その背後の米国との間で「仲介」などという大役はとても無理でしょう。しかし、いつの日か分かりませんが、いったん和平成ったあとのウクライナの復興支援については、日本もいろいろな面で大いに尽力すべきものと思います。

もう一つは今回の事態の下、あらためて露呈した国連の問題です。安全保障理事会の改革、国連総会の権限強化など、いずれも長年の懸案ですが、日本はこの面で志を同じくする国々を糾合して国連の強化に向けて大いに努力してもらいたい。

谷野作太郎氏
谷野作太郎氏

日中は刺激し合い、相補い共栄を

 2022年は日中国交正常化半世紀の節目です。日中関係についての見解をうかがいます。

谷野 最近の日中関係は、本当に残念に思います。50年前、日中国交正常化の時、その後の両国関係を律するガイドラインとして、周恩来首相はよく「求同存異」ということを口にしていました。両国の間の「小異」は残しつつも、そのうえで両国の平和善隣友好関係という「大同」を目指そうと。

ところで、日本では「小異を捨てて、大同に就く」という言い方が定着したようにみえますが、ご存じの通り、本家本元の中国では、「小異を捨てて」という言い方はありませんね。「存異」です。「小異」はどうしても残るし、残すんです。特に激しい外交交渉の決着のあとはそう。大事なのは、その「小異」のところについて意を用いながら、用心深く管理し、手当してゆくということでしょう。

ところが、近年の風潮は、その「小異」を日中双方でことさらに荒立てて、そこに多くの政治家、メディアが参戦して、これを「大異」にまでもって行って盛り上がる。そんな状況を、まま目にします。

私はかねて、今日の両国の経済関係は「共鳴、共創」の関係に入った、そのことを踏まえつつ「共存、共栄」を目ざす時代になったと言ってきました。お互いに良い意味で刺激し合う「共鳴」、長短相補いつつ一段と高いところを目ざす「共創」、そうやって「共栄」の世界を目指すということです。

「共創」のテーマは、環境保全、省エネ、IT(情報技術)の活用、電気自動車(EV)などいろいろありますね。しかし、残念ながらお互いに「政治」が邪魔をする中、ここへの切りかえが十分でないような気がします。

昨年の東京、今年の北京のオリンピック・パラリンピックの開会式、閉会式をテレビで観ました。北京の方はITをふんだんに駆使して、優雅な中にもメッセージ性もあり、日本の関係者には失礼かもしれませんが、今回は北京の方に軍配を上げざるを得ませんでした。総監督として指揮した張芸謀(チャン・イーモウ)さんとは、私が北京在勤時代、若干のおつき合いがありました。

ヴォーゲル教授、銭其琛氏らと交誼

 日中国交正常化前に香港に駐在され、1972年9月29日の日中共同声明の前後はモスクワ駐在でした。当時の思い出をお聞かせください。

谷野 私の香港駐在は1963~65年で、当時の香港は日本も欧米諸国も「チャイナ・ウォッチング」(中国情報の入手・分析)の一大拠点でした。

そんな中、私たち日本総領事館は、欧米の総領事館が持っていないユニークな情報ソースを持っていました。新中国の経済建設を手伝って欲しいと中国にとどめ置かれていた日本人の技術者、学校教員といった人たちが当時、やっと中国側も了解する中で、一人ひとり帰国することになりました。

当時はまだ日中間の直行便がないことから、皆さん香港経由で帰っていくわけです。そこで、お世話もかねて、この人たちをアテンド(接待)し、その間、中国の情況をいろいろと聞き出すのです。

こうして、中国では反右派闘争、大躍進、人民公社、そして大飢饉と毛沢東流の独り善がりの治世の下、いかに大変な情況だったかということを話してくれるわけです。当時、日本では大躍進、人民公社などについては真逆の本が出回っていましたから、私たちはびっくりしながら、そのいちいちを東京の方(外務省)に書き送ったものです。

当時、著書『ジャパン・アズ・ナンバーワン』で有名なハーバード大学のエズラ・ヴォーゲル教授も若い身で長期、香港に滞在していました。広東から逃げてきた中国の若い(共産党)党員をつかまえて何日もかけてインタビューし、その結果を本にしました。彼とはその後、私がハーバード大学CFIA(国際問題研究所)に在籍した時も含めて長いつき合いでした。実は(2020年12月20日に米国で)突然亡くなる直前、東京で食事する機会がありました。ですから、びっくりしましたね。

モスクワには自ら志願して、1971年に赴きました。72年9月の日中国交正常化の前、モスクワの中国大使館の人たちとはパーティで顔を合わせることがありましたが、先方は握手しても私としっかり目線を合わせるでもなく……。そんな感じでした。ところが、正常化のあとは大きく変わりました。

私のつき合いの相手は主として銭其琛さん(当時、政務参事官。その後、本国に帰って新聞局長、外相、副総理を歴任)でした。ご夫妻で二度ほど私の小さなモスクワのアパートに食事に来てくれたことを記憶しています。おだやかで、バランスもとれて、模範的な優等生タイプの外交官でしたね。

銭基琛氏(右端)と王毅氏(左端)=2002年3月23日、中国・北京の人民大会堂(撮影・泉宣道)
銭基琛氏(右端)と王毅氏(左端)=2002年4月23日、中国・北京の人民大会堂(撮影・泉宣道)

銭其琛さんとはその後、何度も会う機会がありましたが、日中間でむずかしい問題についても解決に向けて前向きに対応してくれました。例えば、私がアジア局長の時、こんなことがありました。

当時、日本の銀行で台北に支店を出していたのは第一勧銀(第一勧業銀行、現みずほ銀行)だけ。そんな中、東銀(東京銀行、現三菱UFJ銀行)も台北に支店を出したいということで手続きを始めた。これに対して、東銀という著名な銀行が台北に出すということになると、日本の他の銀行がこれに続くということを恐れたのでしょう。

在京中国大使館の唐家璇公使(当時。その後、外相、国務委員など歴任)が私のところにやって来て、「絶対止めて欲しい」と言うんです。私は、そもそも東銀の台湾進出は何が悪いと思っていたし、第一これを止める権限など外務省にはないと答えました。唐家璇さんは最後はプリプリして帰って行きました。これは「日中共同声明違反だ!」という捨てぜりふを残して。

その結果、何が起こったかというと、当時、東銀は他の邦銀と共に、同時並行的に上海支店の開設も申請していたのですが、東銀だけが蹴られました。

私たちは「こんな理不尽なことがあるか!」と思って、日中外相会談の折、銭其琛外交部長(外相)にねじこみました。上海出身の銭さんは「しばらく時間を貸して欲しい」と応じ、その結果、1年くらい経ってからだったでしょうか。東銀の上海支店開設の許可がおりました。

最初の北京は「自力更生」時代

 国交正常化から間もない1973年10月、北京の日本大使館に一等書記官として赴任されました。最初の北京駐在の印象は。

谷野 当時は毛沢東時代の末期で、国政のキャッチフレーズは「自力更生」。すなわち「ヒトサマ(西側先進工業諸国)の厄介になどならず、自力で発展してみせる!そしていずれ英国を抜き、さらに米国も!」と。かけ声だけは大変勇ましい。しかし、それはそれで大変独り善がりの中国でした。

ひと頃まで頼りにしていたソ連との関係もイデオロギー論争の末、最悪の状態となり、ソ連の技術者たちも、皆引き揚げるという情況でした。

北京の街中、各所に赤色の小冊子『毛沢東語録』から選んだ毛沢東の「お言葉」が氾濫。中国の映画、演劇といっても観るに耐えるものはなく、京劇も三国志、西遊記などからとった伝統的な演目はすべて江青女史(毛沢東夫人)の指示で追放されました。舞台で演じられるのは「様板戯」(模範劇)といって江青女史がその作成にまで深くかかわったといわれる革命現代京劇、音楽の方も欧米のものは排除され、ベートーベン批判が始まるという情況でした。もちろんカラオケ、ゴルフ場などはとんでもないこと。

モスクワから北京に移り住んで、ソ連との比較で今でも覚えていることがいくつかあります。

その第一は、北京は貧しい中でも新鮮な野菜、果物の類はかなり豊富なこと。モスクワは大きなデパートはあるものの、食料品売場の棚はほとんど空っぽでした。他方、電化製品、家具などは使えるに耐えるものがない。日本大使館はちょうど立ち上げの時期でしたので、私は命を受け買い付け部隊長として香港、東京に行き、それこそ航空便のカーゴ・ルームがいっぱいになるような大量の買い物をしました。

第二は、北京には泥棒がいないということ。当時、ホテルの部屋に小銭を忘れても、従業員が「お忘れもの!」と追いかけてくるといった情況でした。

日本との関係で言えば、国交正常化直後ということもあって、「中日友好」の教育が人民たちの間に徹底されていました。当時、日本人学校はないため、私の長男は外国人子弟を受けいれている芳草地小学校(北京芳草地国際学校)に通っていました。一学期が終わって成績表をもらってきたら、何とオール「優」。まだ中国語もできないのに、こんなはずはないと家内と担任の先生を訪ねたところ、「中日両国は世世代代友好で行かなくてはなりません」、「これ(成績表)は、そんな私たちの気持ちを表したものです」と(笑)。家内と二人で苦笑しました。

「竹のカーテン」の中の権力闘争

 「竹のカーテン」の中で、中国共産党の内部では権力闘争も起きていたようですね。

谷野 当時、党の中央では大変醜悪な闘争が進行中でした。毛沢東、林彪、江青、張春橋らが入り乱れて。その後、情況が逐一明らかになっていくのですが、中国は昔から、そして共産党になってからも王朝国家の域を出ていない。中南海(党中枢)に皇帝がおり、その下で佞臣(ねいしん)、奸臣(かんしん)らが入り乱れて、策を弄し……。当時、私たちは、その情況を知る由もなかったのですが。

その間にあって、常に毛沢東を立てつつ苦労したのが周恩来総理です。ある中国人曰く。「毛沢東は革命の人。鄧小平は国造りの人。周恩来は、その両方だった」と。

大躍進、人民公社、これに続く大飢饉、そして文化大革命……。中国の歴史のこの部分を振り返ると、毛沢東の犯した罪は決して小さくないと思います。

(2022年4月19日、都内の日中友好会館でインタビュー)

(後編)「日中韓で東アジア版エリゼ条約を」はこちら

バナー写真:谷野作太郎氏=2022年4月撮影

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