コラム:亜州・中国

コラム:亜州・中国(15) フィリピンのラモス元大統領は”英雄”だったか

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フィリピンの元大統領、フィデル・V・ラモス氏が死去した。旧マルコス独裁政権を打倒した1986年の民主化革命の立役者の一人。「東南アジアの病人」といわれた同国経済を再建した功績もある。晩年はアジアのご意見番的な役割を演じた。

旧マルコス政権を倒し、大統領に

フィリピンの第12代大統領を務めたラモス氏は7月31日、マニラ首都圏の病院マカティ・メディカル・センターで息を引き取った。新型コロナウイルス感染症の合併症とされ、享年94。同国男性の平均寿命は67.4歳(2019年、世界保健機関)だから、天寿を全うしたといえるだろう。

86年2月の民衆によるエドサ革命(ピープルパワー革命)で、中心的な役割を果たした。マルコス政権の国軍ナンバー2だったにもかかわらず、エンリレ国防相(当時)らと独裁的な大統領に公然と反旗を翻し、革命を成功に導いた。

不正蓄財などを問われたマルコス一族は米国に亡命、コラソン・アキノ氏が同国初の女性大統領に就任した。ラモス氏はアキノ政権で国軍参謀総長、国防相を歴任した。1986年から92年までのアキノ政権時代、7回もクーデター未遂事件が起きたが、いずれも抑え込み、アキノ大統領を支えた。

フィリピンのアキノ大統領(左)とラモス氏(フィリピン・バギオ)=1986年3月(AFP=時事)
フィリピンのアキノ大統領(左)とラモス氏(フィリピン・バギオ)=1986年3月(AFP=時事)

92年の大統領選で、アキノ氏の後継指名を受けて当選、大統領に就任した。フィリピンは旧教のカトリック教徒が人口の8割以上を占めるが、彼自身は新教のプロテスタント。大統領選期間中、メディアからそのことを問われると、にやりと「家内と娘はカトリック」とかわし、同国初のプロテスタント出身の大統領になったのである。

「ASEANの病人」から経済成長へ

1992年から98年までのラモス政権時代の最大の政策課題は、経済の立て直しだった。フィリピンは60年代、アジアで日本に次ぐ工業国といわれ、東南アジアの優等生を自負していた。しかし、マルコス政権の末期には経済が低迷、「東南アジア諸国連合(ASEAN)の病人」とまで揶揄(やゆ)されていた。

ラモス氏は経営者からも信頼を集めた。フィリピンの経済界を牛耳っている華僑の大半は、大統領選でラモス氏支持に動いたとされる。日本の大手商社の元マニラ支店長は「かつてラモス氏に政治献金しようとしたが、絶対に受け取らなかった。取り巻きは分からないが、少なくとも本人はクリーンだ」と証言した。

ラモス氏はアキノ政権時代に制定した新外国投資法(93年までは原則として外資の100%出資を容認)を引き継ぐと言明、外資の誘致や国営企業の民営化などの諸改革を進めた。大統領就任時はゼロ成長だったものの、GDP(国内総生産)の実質経済成長率は在任中、6%台に達した時期もあった。

フィリピンは、旧マルコス政権時代から政情不安に悩まされた。ラモス大統領は反政府共産ゲリラ、新人民軍(NPA)やイスラム反政府勢力「モロ民族解放戦線」などと和平交渉を進めた。内政の安定に貢献したことも評価されており、歴代大統領の中で国民的人気も比較的高かった。

アジア経済圏構想やANEAN提唱

ラモス氏は大統領退任後、自らの名を冠した財団を設立した。世界各地に精力的に外遊し、独自のアジア経済圏構想を説いて回った。筆者は2010年6月に来日した際、「セントラル東アジア成長多角形(Central East Asia Growth Polygon)」構想を聴く機会があった。

略して「CEAGPOL」。先ずフィリピンをはじめ台湾、香港、マカオ、中国本土の広東、福建両省で経済圏を構成したうえで、中国海南省、日本の沖縄県、米領グアムを包含していくものだ。

これらの国・地域は昔から海運でネットワークを形成してきた歴史がある。空路を使うと2時間半ほどで行き来できる。相互に査証(ビザ)や関税をなくせば、ヒトやモノの移動や貿易・投資は飛躍的に加速するとラモス氏は力説した。

ラモス氏はかねて「北東アジアはASEANや欧州連合(EU)のような機構がない最後の地域だ」とも主張、日本、中国、韓国を中心とする「北東アジア諸国連合(ANEAN)」の創設も訴え続けた。

ラモス氏は国費留学で米国の陸軍士官学校(ウエストポイント)を卒業。1950年にフィリピン国軍に入り、朝鮮戦争、ベトナム戦争にも従軍したエリート軍人でもあった。生粋の親米派だが、2001年に中国が主導して設立した「博鰲(ボーアオ)アジアフォーラム」の初代理事長を務めた。アジアを中心に政財界の要人が集まる大型国際会議で、ラモス氏は“アジアのご意見番”として存在感を発揮した。

親日家としても知られ、2004年には都内で開かれた国際交流会議「アジアの未来」(日本経済新聞社主催)でアジア地域統合をテーマに講演した。米中双方にも太いパイプがあった。ドゥテルテ前政権では、88歳で南シナ海問題に関する対中交渉担当特使に任命された。

葉巻がトレードマーク、ゴルフも愛好

フィリピンではニックネーム(愛称)で呼び合う習慣がある。ラモス氏の愛称はEddie(エディ)だった。

1990年9月25日、フィリピン外国人特派員協会(FOCAP)はラモス国防相(当時)をマニラホテルに招いて記者会見を開いた。その際、ラモス氏は司会を務めた筆者に、フィリピンでは愛称が必要だと前置きして「Nonoy(ノノイ)」と命名してくれた。彼はプロテスタントながら、いわばゴッドファーザー(名づけ親)になったのだ。

ラモス氏とはマニラ・ロータリークラブでも会員同士だったため、例会でよく顔を合わせた。筆まめで、筆者がFOCAP会長に当選したときや誕生日にはお祝いの手紙が届いた。国防相時代の90年11月29日、軍用機での南部ミンダナオ島視察にも誘われた。機内では赤のボールペンで書類をチェックしていたのが印象的だった。

大統領として来日した93年3月12日、都内の日本記者クラブでの記者会見で再会した。大統領退任後も北京などで旧交を温めた。2002年5月、上海で開かれたアジア開発銀行(ADB)総会に来賓として出席した際には筆者のインタビューに応じ、ASEANと日中韓の枠組みによる自由貿易協定(FTA)を目指すべきだとの見解を明らかにした。

博鰲アジアフォーラム理事長として記者会見したラモス元大統領と筆者が北京で再会=2003年1月24日(ラモス氏は1月23日と署名しているが、撮影は24日)
博鰲アジアフォーラム理事長として記者会見したラモス元大統領と筆者が北京で再会=2003年1月24日(ラモス氏は1月23日と署名しているが、撮影は24日)

手堅い政権運営から「Steady Eddie(堅実なエディ)」の異名をとったが、素顔のラモス氏はジョークを発するなど、ユーモアもたっぷり。トレードマークは葉巻だ。銘柄はフィリピン産に限る。くわえるだけで、めったに火をつけることはない。

ゴルフやジョギングを愛好した。82歳で2回目の「エージシュート」(ゴルフの18ホールを自分の年齢以下のスコアで回ること)を達成した。その記念品として署名をプリントしたゴルフボールを何個かつくり、筆者にも恵贈してくれた。

戒厳令時代“ロレックス12”の一員

ラモス氏から腕時計について面白いエピソードを聞いたことがある。昔、マルコス大統領(当時)からスイスの高級時計、ロレックス(ROLEX)の金色の腕時計をもらったが、「一度も使ったことがない」。国防相時代は文字盤が黒の日本製SEIKOの腕時計を愛用していた。

国防相時代のラモス氏。左手の腕時計は日本製=1992年2月29日、ネグロス島バコロド市(筆者撮影)
国防相時代のラモス氏。左手の腕時計は日本製=1992年2月29日、ネグロス島バコロド市(筆者撮影)

旧マルコス政権時代、1972年9月に戒厳令が布告された。独裁体制が敷かれたのである。当時、軍・警察を中心とした大統領の取り巻き12人が“ロレックス12”と呼ばれた。マルコス大統領から、ロレックス製の腕時計を贈られたからだと、まことしやかにささやかれた。ラモス氏もその一員とみられていた。

ラモス氏は72年に国家警察軍司令官となり、81年まで続いた戒厳令を執行する立場にあった。戒厳令下で民主化勢力は弾圧され、投獄、拷問、殺害など人権侵害も起きた。

ラモス氏はエドサ革命を成功させた中心人物として、国民的英雄になった。その半面、「暗黒時代」を知る人たちの間では、彼を「冷酷なマルコスの部下」と責任を問う声もある。金色のロレックスを身に付けなかったのは、彼なりに独裁者との距離を置いていたのではないか。

ボンボン・マルコス大統領も哀悼

実はラモス氏とマルコス家とはつながりが深い。父親は弁護士、政治家で、旧マルコス政権の外相を務めた。母方も名門でマルコス家と縁戚関係にあったといわれている。

独裁者の長男、フェルディナンド・マルコス・ジュニア氏(愛称Bongbong=ボンボン)は今年6月30日、マニラの国立博物館での大統領就任宣誓式に臨んだ。ラモス氏は大統領選でボンボンを支持しなかったが、宣誓式には来賓として出席していた。それから、ちょうど1カ月後に鬼籍に入ったのは何かの因縁かもしれない。

「私たちの家族は、この悲しい日にフィリピン人の悲しみを共有しています。私たちは良き指導者だけでなく、家族の一員も失いました。彼の大統領としての遺産は、私たち国民の心に永遠に銘記されるでしょう」。マルコス新大統領は7月31日、声明を発表した。

ラモス氏はエドサ革命で新大統領の父親を辞任に追い込んだ。それでも64歳のボンボンは、母親イメルダ夫人(93歳)と同世代のかつての政敵エディに、衷心からの哀悼の意を示したのである。

バナー写真:独自のアジア経済圏構想を説明するフィリピンのラモス元大統領=2010年6月19日、都内のホテル(筆者撮影)

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