コラム:亜州・中国

コラム:亜州・中国(16) “金婚式”を迎えた日中両国の責任

政治・外交

日本と中国が国交を正常化して半世紀。両国は経済の絆を強めたものの、2010年に名目の国内総生産(GDP)は逆転した。国民同士は相互不信に陥ってもいる。世界2、3位の経済大国は国際社会に貢献するためにも安定した関係が不可欠だ。

50周年記念シンポで台湾問題

日中国交正常化50周年を記念するシンポジウムが9月12日、東京と北京の会場を結ぶオンライン方式で開かれた。日本経団連と在日中国大使館が主催したものだ。日本側からは福田康夫元首相をはじめ、河野洋平元衆院議長、十倉雅和経団連会長らが出席したが、祝賀ムードとは程遠かった。

「歴史や台湾など中日関係の根本にかかわる重大な原則的問題に対し、わずかでも曖昧さがあってはならず、さらには揺らぎや後退を容認しない」。中国の王毅・国務委員兼外相はビデオメッセージで、こう言明した。

開会式で基調講演した孔鉉佑・駐日中国大使はこの半世紀の交流・協力の拡大を評価しながらも、台湾問題については日本政府に慎重な対応を求めた。つまり、中国側は台湾問題で日本側にクギを刺したのである。

「一つの中国」をめぐる台湾問題は、米国と中国との関係、そして日中関係にとっても最大のトゲである。ペロシ米下院議長が8月上旬に台湾を訪問したのを機に、中国人民解放軍が台湾を包囲する形で軍事演習したのは記憶に新しい。中国軍は演習で、日本の排他的経済水域(EEZ)内にも初めて弾道ミサイルを撃ち込んだ。

両国関係、蜜月から風雪の時代へ

1972年9月29日、北京の人民大会堂で当時の田中角栄首相と周恩来首相が日中共同声明に署名したことで、国交正常化が成就した。同年10月、中国から上野動物園にパンダ2頭(メスの「ランラン」とオスの「カンカン」)が贈呈されるなど当初は日中間に友好ムードが広がった。

大平正芳首相の79年12月の訪中で対中経済協力が始まり、中国の改革・開放政策を後押しした。89年6月に北京で天安門事件が起き、西側諸国から経済制裁を受けた中国は国際社会で孤立した。日本はいち早く制裁解除に動いた。国交正常化20周年、宮沢喜一首相時代の92年10月には天皇皇后両陛下のご訪中(北京、西安、上海)が実現した。

だが、90年代に日本のバブルが崩壊、日本経済は長期停滞に向かう。一方で、中国は96年6月、7月と核実験を強行、日本は厳しく抗議した。97年7月にはアジア通貨危機に見舞われた。日中は歴史問題でもたびたび対立するなど、風雪の時代を迎えるのである。

2001年4月に就任した小泉純一郎首相は毎年のように靖国神社を参拝した。中国側は強く反発した。5年半に及んだ小泉政権時代、日中関係は「国交正常化以来、最悪」とまで形容された。

それでも国交正常化30周年の2002年9月28日、北京の人民大会堂で記念式典が開催された。日本からは村山富市元首相、後藤田正晴元副総理、日本画家の平山郁夫氏らが出席、橋本龍太郎元首相があいさつに立った。同じテーブルには中国両首脳となる胡錦濤国家副主席(当時)、温家宝副首相(同)が顔をそろえた。

日中国交正常化30周年記念式典であいさつする橋本龍太郎元首相(2002年9月28日、北京の人民大会堂)=筆者撮影
日中国交正常化30周年記念式典であいさつする橋本龍太郎元首相(2002年9月28日、北京の人民大会堂)=筆者撮影

筆者が北京駐在時、王毅氏から日中関係について、たとえ話を聞いたことがある。「国交正常化のときは新婚。しばらくは蜜月ムードだったが、時間が経てば夫婦間でも摩擦が起きる」。その伝でいくと、02年は“真珠婚式”、そして今年9月29日は“金婚式”に当たる。

関係改善に貢献した安倍元首相

小泉政権時代、日中関係は「政冷経熱」とも評され、冬の時代だった。それを打開したのが、今年7月8日に凶弾に倒れた安倍晋三元首相だった。

安倍首相は就任早々の06年10月8日に中国を電撃的に訪問し、温家宝首相、胡錦濤国家主席と会談、「戦略的互恵関係」を申し合わせて関係修復の第一歩とした。

この電撃訪中を根回しした一人が、駐日中国大使だった王毅氏だ。ちなみに10月8日は1953年生まれの同氏の誕生日に当たり、本人もそれを意識していたという。「戦略的互恵関係」というキーワードは現在、北京で駐中国日本大使を務める垂秀夫氏が考案したとされる。

2012年12月の第2次安倍内閣発足に先立つ9月、日本政府(野田佳彦首相の民主党政権)は沖縄県・尖閣諸島の「国有化」に踏み切った。中国では5年に1度の共産党大会を控えていたこともあって、大規模な反日抗議運動が発生、日中関係は再び冷え込んだ。

安倍首相は14年11月に訪中し、10日に習近平国家主席と会談した。懸案の尖閣問題については双方が「異なる見解」を有していると認めつつ、対話と協議を通じて不測の事態を避けることなど「4項目合意」で一致した。わずか約25分間の会談で、両首脳とも表情は硬かったが、握手して記念撮影に納まった。

日中首脳会談を前に握手を交わす習近平国家主席(右)と安倍晋三首相=2014年11月10日、中国・北京の人民大会堂(時事)[代表撮影]
日中首脳会談を前に握手を交わす習近平国家主席(右)と安倍晋三首相=2014年11月10日、中国・北京の人民大会堂(時事)[代表撮影]

習国家主席は安倍氏死去の翌日、岸田文雄首相に弔電を送った。この中で「安倍元首相は在任中、中日関係改善のために努力し、有益な貢献をしてきた」と故人の功績を讃えた。安倍氏が親台湾派だったにもかかわらずである。

関係改善の契機となった14年11月の首脳会談に話を戻すと、お膳立てしたのは、実は福田康夫元首相だった。同年7月に谷内正太郎国家安全保障局長と極秘訪中し、習国家主席と会っていたのだ。北京では外相になっていた王毅氏、副首相級の楊潔篪国務委員(現共産党政治局員)とも「4項目合意」の打ち合わせを進めた。

福田氏と王毅氏はその時点で20年来の付き合いがあった。いわば“老朋友”だ。福田氏は首相時代の08年8月、北京オリンピック開会式に出席、中国が立ち上げた「博鰲(ボーアオ)アジアフォーラム」の理事長も務めるなど、日本の政治家としては現在、中国と最も太いパイプがある。

実父、福田赳夫氏は首相時代の1978年に、“不戦条約”ともいえる日中平和友好条約を結んだ。父子二代にわたり、対中首脳外交を展開してきたのだ。

信頼関係を築いた日中の政治家

私事ながら、筆者が本格的に「亜州・中国」とかかわることになったのは1988年4月、新聞記者として自民党の伊東正義総務会長に同行して初めて訪中してからだ。当時の竹下登首相の特使として訪中した伊東氏は4月19日、北京の人民大会堂で、最高実力者の鄧小平・中国共産党中央軍事委員会主席と会談した。

中国の最高実力者、鄧小平氏(左)と会談する自民党の伊東正義総務会長(1988年4月19日、北京の人民大会堂)=筆者撮影
中国の最高実力者、鄧小平氏(左)と会談する自民党の伊東正義総務会長(1988年4月19日、北京の人民大会堂)=筆者撮影

「日本の政治家にはいろいろお会いしているが、あなたとの面会が一番多い。私たちは本当に心を打ち明けられる友人だ」。鄧氏は伊東氏にこう語りかけた。同行記者団の一員としてカメラを携えてその場にいたが、老政治家同士の親密さはひしひしと伝わってきた。

当時、鄧氏83歳、伊東氏74歳。両氏の会談は6度目だった。翌年、天安門事件が起きたが、伊東氏は西側の要人として先陣を切る形で訪中し、鄧氏と7度目の会談に臨んだ。これが中国の国際社会への復帰のきっかけともなった。

超党派の日中友好議員連盟会長でもあった伊東氏が、中国側からも厚い信頼を得たのはなぜか。中国の現実を肌身で知っていて、日中戦争当時の軍部に批判的だったことも一因かもしれない。

東大法卒、農林官僚だった伊東氏は、昭和13年(1938年)12月に設置された興亜院に出向、上海にも駐在した。当時、大蔵省から興亜院に出向していた大平正芳氏(外相として日中共同声明に署名、後に首相)と意気投合し、生涯の盟友となった。

昭和18年(43年)、伊東氏に召集令状(いわゆる白紙召集)がきた。将校になれたが、「会津っぽ」の伊東氏はあえて幹部候補生試験を受けなかった。あるとき、本人から「上等兵から殴られ、眼鏡が飛んでいったこともある」との述懐を聞いた。

日中とも相手の印象が「良くない」

日中間の交流の歴史は2000年に及ぶ。国交正常化の中国側の立役者、周首相はかつて「2000年の友好と50年の対立」と表現した。1894~95年の日清戦争から1945年の終戦までの半世紀を「対立」の時代と位置付けたのだ。

国交正常化以来の半世紀、どう総括すればよいのか。50年前、日中間の人的交流は1万人に満たなかったが、新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)前は年間の往来が1200万人規模に膨らんでいた。日本にとって中国は最大の貿易相手国でもある。しかしながら、両国の国民感情はむしろ悪化している。

内閣府が今年1月に発表した「外交に関する世論調査」(2021年9~11月実施)によると、現在の日中関係について「良好だと思う」は前回調査(20年10月)から2.6ポイント下がり、14.5%。半面、「良好だと思わない」は3.4ポイント上昇、85.2%に達した。

日本の非営利シンクタンク言論NPOと中国国際出版集団による「日中共同世論調査」(21年8~9月実施)でも、中国側調査で対日印象が「良くない」が前年より13.2ポイント上がり、66.1%になった。日本側調査では対中印象が「良くない」が同1.2ポイント上昇、90.9%と9割を超えたのである。

国交正常化25周年の1997年9月、中日友好協会の孫平化会長は日本経済新聞朝刊の連載「私の履歴書」を執筆した。孫氏は72年9月の田中首相訪中の道筋をつけた人物である。自民党の伊東氏とも親交があった。孫氏は連載の初回で、こう綴った。

「中日友好でも、日中友好でも一番重要なことは、人間と人間の関係だということだ。お互いに心と心で付き合うことが大事だと考えている。その意味では、最近の中日関係には“情”がない」

“銀婚式”に当たる時代、日中関係は必ずしも良好ではなかった。しかし、当時の「外交に関する世論調査」(97年9~10月実施)によると、「良好だと思う」が45.6%、「良好だと思わない」の44.2%を何とか上回っていたのである。

林外相「安定的関係、子孫への責務」 

21世紀の日中関係は、もはや単なる2国間関係ではない。世界第2、第3の経済大国が対立すれば、世界経済にも深刻な影響を与えかねない。コロナ禍に加え、ロシアのウクライナ侵攻など世界が大きく揺さぶられている今、日中両国はいかに協調し、安定した関係を維持して国際社会に貢献していくかが問われている。

「日中双方の自覚的な努力を通じ、建設的かつ安定的な日中関係を構築してくことは、先人たちから受け継いできた使命であり、子孫に対する責務だ」

林芳正外相は9月12日の国交正常化50周年記念シンポジウムにビデオメッセージを送り、対中外交への決意を披歴した。林氏は外相就任前、日中友好議連会長だった。実父、林義郎氏も同議連会長、日中友好会館会長を務めるなど中国に精通していた。

50年前は東西冷戦の時代。当時の中国はソ連(現ロシア)と対立、米国や日本に接近した経緯がある。こうした事情もあったにせよ、日中両国の政治指導者は双方の国内に根強い反対論があったにもかかわらず、国交正常化という歴史的決断をしたのである。

岸田首相はいわずと知れた世襲政治家。外相経験が長く、中国要人とも会談を重ねてきた。習国家主席も典型的な太子党(中国共産党の高級幹部の子弟)だ。実父、習仲勲氏は副総理などを務めた。

次の半世紀に向けて、日中関係をどのように発展させていくか。ともに政治家のDNAを引き継いでいる日中両首脳の責任は重い。

バナー写真:日中国交正常化50周年記念シンポジウムで基調演説を行う福田康夫元首相=2022年9月12日、東京都内(新華社/共同通信イメージズ)

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