14歳の少年昭和天皇も参列した大正の即位礼

歴史 皇室

2019年10月22日の「令和の即位の礼」の原型となったのは、1915年(大正4年)に近代日本で最初の、京都御所で行われた大正天皇の即位礼である。国民の代表としてお祝いの言葉を読み上げたのは大隈重信首相。まだ14歳だった少年皇太子(昭和天皇)は、「未成年皇族は公の儀式に参加せず」の慣例がある中、将来に備えて異例の参列を果たされた。

即位礼に執念を燃やした大隈重信

大正の即位礼には特別の意味がある。それ以前の即位式は、宮中での、ごく限られた人たちだけの儀式だった。これに対し、大正即位礼は初めて国民が祝賀に参加し、広く外国からも代表を招いた国際的な儀式で、今日の「即位の礼」の原型になっている。また、明治憲法下で日本が「天皇国」としてまとまる一つの契機にもなった。

皇太子時代の大正天皇=1908年ごろ撮影(Mary Evans Picture Library/アフロ)
皇太子時代の大正天皇=1908年ごろ撮影(Mary Evans Picture Library/アフロ)

明治政府は1909年(明治42年)、天皇の即位などに関する皇室令「登極令(とうきょくれい)」をつくり、初めてそれに従って大正即位礼が行われた。旧皇室典範第11条「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」の規定で、即位礼の会場は京都御所となった。

即位の礼、大嘗祭(だいじょうさい)と一連の儀式を合わせた「御大礼(ごたいれい)」の大役を果たしたのは、早稲田大学総長だった大隈首相だ。1898年(明治31年)に一度首相に就任、1914年に76歳で再び首相となった。

大隈が創設した早大と皇室とは、ゆかりがある。08年には明治天皇から、早大の教育における多年の功労を評価して巨額な御下賜金3万円(現在の約4億5000万円)があった。また、大正天皇は皇太子時代の12年に早大を訪れ、経済、法律、文学の講義を聴いた。

弁舌巧みな大隈首相は大正天皇としばしば面会。世間話もして天皇を喜ばせ、ほかの客が来たので帰ろうとすると、天皇に「もうしばらく話せ」と命じられるほど好印象を持たれていたという。

大隈重信(国立国会図書館蔵)
大隈重信(国立国会図書館蔵)

その天皇の1度限りの晴れの儀式となる即位礼だが、大隈には一つ大きな課題があった。大隈は外務大臣だった50歳の時に、爆弾を投げつけられ右脚を失った。即位礼では、内閣総理大臣は衣冠束帯(平安以降の公家らの正装)の古装束姿で、会場の紫宸殿(ししんでん)正面の18段の階段(南階=みなみのきざはし)を上がり、また後ろ向きで階段を下りることになっている。

足が不自由な大隈にはとても無理に見える動作で、即位礼のために「大隈首相更迭」という声さえ出ることもあった。しかし、大隈は大礼成功の執念を燃やし、即位礼の1カ月前に京都御所に行き、跡取りの娘婿の助けを借りて儀式の衣装で階段の上り下りなどの練習を重ねた。

「未成年でも皇太子参列を」と動いた帝王学の師

即位礼に執念を見せる男がもう1人いた。1914年に学習院初等科を卒業した皇太子が学ぶ東宮御学問所で、倫理を教える御用掛の杉浦重剛だ。倫理は「帝王学」の一環となる進講内容で、皇太子が最も影響を受けた科目だった。杉浦は東京大学予備門(のちの第一高等学校)校長などを務め、英語で教える私立校の校長。昭和天皇が寡黙で、威厳を保たれたのは、杉浦の教えによると言われる。

杉浦は、皇太子が将来に備えて、年が達していなくとも即位礼に参列すべきだと主張した。だが、皇太子の成年は18歳と定められている。明治天皇の意向でもあった「未成年皇族は公の儀式には不参」が慣例で、当時の宮内大臣らの「皇太子であっても参列に及ばず」の意見が優勢だった。

これに対し、杉浦は熱心に関係者を回り、各方面への説得を続けた。有力者らの賛同を取り付け、ついに天皇が、わずか14歳の皇太子の参列を許す異例の決断をされたのである。天皇ご自身も1度きりの即位礼の晴れ姿を、わが子に見せたかったのではないか。

杉浦はまだ若い皇太子に授業で、即位式についてこう進講した。「(新天皇は)神器を継承して、事実上のご即位になるも、さらに時日を選び、即位を皇祖皇宗(天皇の始祖と歴代の天皇)に奉告し、一般臣民及び外国に即位を知らせるため、荘重なる礼式を挙行する必要がある」(要約)

いよいよ天皇が15年11月6日、京都に向けて出発。皇后は懐妊のため同行できなかった。皇太子も翌日に出発し、静岡で1泊、同8日に京都の宿泊所の二条離宮に入った。次の日に京都御所で習礼(しゅうらい=リハーサル)に臨み、10日、即位礼の日を迎えた。

皇太子のこの日の服装は、まだ「立太子礼」(皇太子の地位を明らかにされる儀式)の前なので正装ではなく、未成年皇族男子の装束で、頭のかぶり物(冠)も簡素なものだった。午前は、「即位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」。天皇が即位礼を行うことを神前に奉告する儀式で、当時はとても重要視された。皇居・宮中三殿の賢所に祭られる三種の神器の「鏡」を、この儀式のために京都御所に移した「春興殿」で行われた。

京都・嵯峨で人力車に乗り込む14歳当時の昭和天皇=1916年4年7日(読売新聞社)
京都・嵯峨で人力車に乗り込む14歳当時の昭和天皇。陸軍中尉としての軍服姿=1916年4月7日(読売新聞社)

外国代表を含め2000人が参列

午後は「紫宸殿の儀」。皇族、国会議員など国内の代表に加え、米、英、仏、露、伊などの大使、公使ら外国代表を含め、計2000人余が参列した。紫宸殿の前の庭には「萬歳」の字が刺繍された「万歳旙(ばんざいばん)」など、色鮮やかな旙(ばん=のぼり)が左右一列ずつ、計26本立てられた。

紋様には、初代天皇の神武天皇東征の時、戦勝を祈って酒がめを川に沈めると、大小の魚(アユ)が浮き上がってきたという故事に基づく「酒壺」や「アユ」。神武天皇が熊野の山で道に迷った時、助けたという「八咫烏(やたがらす)」など、神武天皇神話にちなむものもあった。また、儀式の威容を整えるため、太刀、弓、盾など5種の「威儀物(いぎもの)」を持った古装束姿の男たちなどが居並んだ。

紫宸殿には、天皇が昇る「高御座(たかみくら)」が黒く輝いていた。この即位礼のために造営され、高さ6.5メートル、重さは8トン。大正天皇の2代前の孝明天皇が使った高御座が、幕末の御所大火(1854年)で焼失してしまった。このため、1868年(慶応4年)に紫宸殿で行われた明治天皇の即位式では、皇后用の「御帳台(みちょうだい)」を使った。現在の御帳台より簡素なものだった。そして、近代日本初の大正即位礼に合わせ、高御座と御帳台が新調され、令和の今日に伝わる。

大正天皇が午後3時過ぎ、真っ直ぐに立った立纓(りゅうえい)の冠に、ハゼの実で赤茶色に染め上げた黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という束帯(宮中儀式服)姿で高御座に入り、難解な漢語調のお言葉(勅語)を朗読した。「内は邦基を固くして永く磐石の安を図り、外は国交を敦くして、共に和平の慶に頼らむとす」。即位礼で天皇が自分でお言葉を読むようになったのは大正天皇からである。

即位礼会場だけが5分遅れの珍事

衣冠束帯の大隈首相は、庭で立ってお言葉を聞いた。そして、介添えを受けながら紫宸殿の18段の階段を昇り、即位のお祝いの寿詞(よごと)を読み上げた。「臣重信、帝国臣民に代り、恭しく大礼を賀し、千萬歳の寿を上つる」。大隈は「臣重信」を4回使い、天皇に仕える忠誠を示した。続いて大隈は、後ろ向きで階段を下り、庭の左右の万歳旙の間に立ち、高御座の天皇を見上げながら「万歳」を三唱、参列者が唱和した。明治憲法下ならではの式作法である。

テレビはもちろん、ラジオ放送もなかった時代だったので、当日午後3時30分、大隈の万歳と同時に日本全国で国民が一緒に万歳をすることになっていた。ところが、足が不自由な大隈が時間を費やし、まだ寿詞を読んでいるうちに定刻になった。このため、式の途中に全国で万歳が始まってしまった。即位礼会場の京都御所だけが、5分遅れで万歳三唱する珍事となった。

少年皇太子は、高御座のそばで約30分の儀式を見つめていた。いつか、自分が高御座に昇ることを、自覚されていただろう。一方、大役を終えた大隈は、「即位礼に全世界の代表者を集めたことは、東洋の有史以来のこと」と喜んだ。

皇太子は翌日に、即位礼に続く重要な大嘗祭の会場(大宮御所)などを見学し、同13日に帰京。次の日におなかの大きい母、皇后に会い、京都の報告をした。また、大隈首相が帰京後に足の調子が悪く外出できないことを知ると、不自由な足で頑張った77歳の老首相を気遣い、病気見舞いに果物一籠を贈った。

大正の即位礼が行われた京都御所の紫宸殿と前庭の「南庭(だんてい)」。大隈は紫宸殿の18段の階段を片足で昇り降りした。現代も殿上に置かれる「高御座」と「御帳台」は、平成や令和の即位礼に向け、ここから東京に運ばれた=2018年4月撮影(時事)
大正の即位礼が行われた京都御所の紫宸殿と前庭の「南庭(だんてい)」。大隈は紫宸殿正面の18段の階段を不自由な脚で上り下りした。現代も殿上に置かれる「高御座」と「御帳台」は、平成や令和の即位礼のたびにここから東京に運ばれた=2018年4月撮影(時事)/殿上に置かれる高御座と御帳台の動画はこちら

「若き皇族も令和の儀式に参列を」

大正天皇はその後、在位の後半に重い病気となり、皇太子が20歳で摂政となる。次の時代を担う少年皇太子が14歳で、外国代表も参列した一大儀式を体験した意義は大きかった。

この前例を見習って、令和の皇位継承儀式にも、皇族減少の中で10歳代の若い皇族が参列すべきだと主張する有識者もいる。宮中に詳しい所功・京都産業大学名誉教授(皇室文化史)は、女性皇族の参列を認めずに成年男子皇族に限定した皇位継承儀式「剣璽(けんじ)等承継の儀」に関する質問に答える中で、こう述べている。

「すでに10歳を超えた悠仁さま(現在13歳)と愛子さま(17歳)も、将来に備えて参列できる方がよかった。皇室の将来のためにも、(未成年皇族の皇位継承儀式参列を政府は)もう少し慎重に検討してほしかった」(東京新聞2019年3月9日朝刊)

政府は「前例踏襲」で未成年皇族の儀式参列を考えなかったようだが、もし今回の「即位の礼」に若いお二人が参加されたら、国民はさらに喜び、またお二人の皇族としての将来に役立ったのではないか。筆者はそう思う。すでに大正期に前例があっただけに。

参考文献:『昭和天皇実録第二』(宮内庁)、『近代大礼関係の基本史料集成』(所功著、国書刊行会)、『大隈重信(下)』(伊藤之雄著、中央公論新社)、『大隈重信自叙伝』(早稲田大学編、岩波文庫)

バナー写真:大正天皇の即位礼当日の京都御所・紫宸殿と前庭=1915年11月10日(毎日新聞社/アフロ)

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