皇位継承で注目される「旧宮家」とは(後編):戦後も続く皇室とのつながり

皇室

11宮家51人が戦後に皇籍離脱してから今年で75年。敗戦の混乱の中で一般国民となった旧宮家の人々と、その子孫は、戦後も皇室の親族らが集まって「菊栄(きくえい)親睦会」を開いたり、皇室行事や宮中祭祀(さいし)などに参列したりして、皇室とのつながりを保っている。現皇族が減り続ける中で、「旧宮家の男系男子の皇族復帰」の日は来るのか――。

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終戦直後に初の皇族内閣

1945年8月15日、終戦の玉音放送の後、鈴木貫太郎内閣は総辞職したが、日本の難局は続いた。不穏な動きを見せる軍部、特に陸軍を抑え、終戦を成し遂げるため、昭和天皇はかねてから、後継の内閣総理大臣を決めていた。

陸軍大将にして、皇族の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王である。前編で述べたように、明治天皇の第9皇女と結婚し、また2年前には昭和天皇の長女が嫁いだ東久邇宮家の当主になっている。子どもの頃からわんぱくで、「やんちゃ殿下」として知られたが、対米、対中戦争には批判的だった。

東久邇宮は、皇族が政治に関与することに反対で首相就任を固辞したが、終戦を決意した昭和天皇のやつれた様子を見て、決断する。日記にこう記した。

「この未曾有の危機を突破するため、死力をつくすことは日本国民の一人として、また、つねに優遇を受けてきた皇族として、最高の責任であると考えた」

昭和天皇は、終戦を前例のない「皇族内閣」で乗り切るしかない、というお考えだったと言われる。昭和天皇は玉音放送の翌日に軍人皇族を呼び、天皇の特使として外地の日本軍に終戦を伝達するため、朝香宮(あさかのみや)を支那派遣軍に、竹田宮(たけだのみや)は関東軍と朝鮮軍に、閑院宮は南方総軍に派遣した。

首相になった東久邇宮は「全国民が総懺悔(ざんげ)するのが我が国再建の第一歩」と「一億総懺悔」を訴えた。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)が内務大臣、内務省の警察部門(警保局)幹部の罷免などを命じてきた。「総理大臣宮」は突然の“内政干渉”に抵抗の意地を示し、在任わずか54日間で総辞職した。

GHQからの皇室への脅し

この年の12月、GHQから戦犯の逮捕命令が出て、元帥陸軍大将だった梨本宮(なしもとのみや)がA級戦犯容疑で戦犯を収容した拘置所、巣鴨プリズンに入った。戦勝国側の皇室への脅しとも捉えられたが、4カ月ほどで不起訴となり、釈放された。

1946年1月、GHQの指令により、軍国主義者、戦争協力者、軍人らを対象とする「公職追放」が始まって間もなく、衝撃的な記事が新聞に載った。昭和天皇の弟宮3方(直宮)をはじめ、東久邇前首相ら皇族15人が追放指定者に含まれるという内容だ。終戦までの男子皇族は軍歴があったためだが、この時は皇族の公職追放が見送られる。

GHQはさらに、皇室の財産にメスを入れてきた。各皇族の全財産の調査を命じ、最高税率を90%まで引き上げた財産税がかけられることになる。昭和天皇の財産は約37億円(現在の貨幣価値だと百数十倍という)と算出され、その9割が財産税として国有財産となってしまう。旧宮家の宗家と言われる伏見宮(ふしのみや)家は、直宮家以外の11宮家で3番目の、792万円の資産があったが、債務などを引いた額の85%の財産税をかけられることになった。

日本国憲法が公布された同年11月、昭和天皇は直宮を除く宮家の皇族を集め、「臣籍降下(皇籍離脱)のやむを得ざる事態」について説明した。憲法には第88条「すべて皇室財産は、国に属する」と明記され、皇室にはもう11宮家を支える経済力がなくなったのである。

11宮家の皇籍離脱でも皇位継承に心配なしと判断

そして翌47年10月、初めての皇室会議が開かれて、11宮家51人の皇籍離脱を決定した。会議の片山哲議長(首相)はこう説明した。

「皇籍離脱の御意思を有せられる皇族は、後伏見天皇(第93代、即位1298年)より20世から22世を隔てられる方々でありまして、今上陛下(昭和天皇、第124代)とは、男系を追いますと四十数世を隔てておられる。これらの方々が、これまで宗室(天皇本家)を助け、皇族として国運の興隆に寄与した事績は、まことに大きいものでありましたが、戦後の国内外の情勢、とりわけ新憲法の精神、新憲法による皇室財産の処理及びこれに関連する皇族費等諸般の事情から致しまして、この際これらの方々の皇籍離脱の御意思を実現することが適当であると考えられるのであります」

「皇位継承の御資格者としましては、現在、今上陛下に2親王(現上皇さまと常陸宮さま)、皇弟として3親王(直宮)、皇甥(こうせい)として1親王(三笠宮寛仁親王)がおわしますので、皇位継承の点で不安が存しないと信ずる次第であります」

皇籍離脱する宮家皇族には26人の皇位継承者がいたが、当時は天皇家、直宮家に合わせて男子6人の皇位継承者がいるから、血縁の遠い11宮家を皇室から離しても心配はない、と政府は判断していたのである。

同じ日に皇室経済会議も開かれ、皇籍を離れる51人中、軍籍にあった11人を除く40人に一時金として、当主には210万円、それ以外の王は約145万円などとして、合計4747万余円の支出を決めた。

昭和天皇は皇室会議から数日後、皇籍離脱した元皇族との晩さん会であいさつした。

「従来の縁故は今後においても何ら変わるところはないのであって、将来ますますお互いに親しくご交際をいたしたいというのが、私の念願であります。皆さんも私の気持ちをご了解になって、機会あるごとに遠慮なく親しい気持ちでお話にお出でなさるように希望いたします」

邸地の“売り食い”で暮らす

皇族から国民となった旧皇族には生活の大きな変化が待っていた。15歳で皇籍離脱した伏見博明さん(90歳、伏見宮家24代当主)は著書で、こう述べている。

「払ったこともない莫大な税金(前記の財産税)を払わなきゃならないし、(皇籍離脱に際しての)一時金(伏見宮家は約464万円)なんて一方的に決められたけれど、あっという間になくなってしまいます。だから、元皇族の家は(邸地の)“売り食い”で暮らしてきた。うちの土地はニューオータニになりましたし、竹田宮は現グランドプリンスホテル高輪。でも、宮内省の土地に住んでいた宮さまもいた。例えば賀陽さんは本当に生活に困っていました」

「他にも、慣れない商売を始めて財産をなくしてしまった家もありますし、悪い人に騙(だま)された家もあります」

伏見宮家の邸地に建設されたホテルニューオータニ(PIXTA)
伏見宮家の邸地に建設されたホテルニューオータニ(PIXTA)

東久邇宮家も波乱に満ちた戦後を歩んだ。元首相は皇籍離脱の直後に、他の軍籍があった旧皇族10人と同様に公職追放となった。新宿の闇市に食料品店(乾物屋)、喫茶店、宮家の所蔵品を売る骨董(こっとう)屋などを始めたが、ことごとく失敗した。ついには新興宗教「ひがしくに教」の教祖になったこともあった。

長男の盛厚(もりひろ)王は、終戦の翌年、30歳を前にして東京大学を受験するが不合格となった。当時、皇族の不合格は、時代の変化を感じさせた。皇籍離脱後に、もと陸軍将校だったことから父同様に公職追放となる。民間人となり、聴講生として東京大学に学び、会社勤務となった。

盛厚王と結婚したのが、昭和天皇の長女成子(しげこ)内親王である。苦しい家計を助けるため、内職をして、商店街のセールに並ぶこともあったという。雑誌に載った「やりくり暮らしの苦労のかげに、はじめて人間らしい喜びを味わう事ができる」という手記が、話題にもなった。しかし、こうした生活の変化が災いしたのか、35歳の若さで5人の子どもを残し、がんで亡くなった。昭和天皇ご夫妻は深い悲しみの中で、目下の人の葬儀に参列しないという慣例を破り、第1子だった愛娘の葬儀に参列した。

皇室復帰に応じる旧皇族はいるか

旧皇族は民間人として再出発したが、皇室とのつながりは完全に切れたわけではない。戦前には「皇族親睦会」があったが、11宮家の皇籍離脱で解散となり、代わって皇族と旧皇族の親睦のため、「菊栄親睦会」が結成された。数年に1度開催され、最近では2014年に天皇陛下(現上皇さま)の傘寿(80歳)のお祝いのため、赤坂御用地で開催された。

また、旧皇族は、天皇誕生日や新年の行事、宮中祭祀などに出席している。昭和天皇の大喪の礼にも参列した。元皇族の“序列”は皇族の後で、国民の代表である首相、国会議員らの前に位置する。

旧皇族の皇室復帰案が登場する中で、当事者である旧宮家の人たちはどう考えているのだろうか。昨年3月の参院予算委員会で、当時の加藤勝信官房長官は旧皇族や子孫ら当事者の意向確認について「そうした皆さんに確認したことはないし、していく考えはない。これは変わらない」と答弁している。これでは、旧皇族の中に皇室復帰に応じる人がいるかどうか、わからない。

このような中で、前述の伏見博明氏が皇室復帰について、最近の著書で重く熱い言葉を述べている。

「天皇陛下に復帰しろと言われ、国から復帰してくれと言われれば、もう従わなきゃいけないという気持ちはあります」。だが、「人は急に宮さまになれと言われて、なれるものではない」

旧皇族として、天皇陛下から命があり、皇室のために役に立つなら復帰も考えねばならないが、民間人となって既に75年が経つ。復帰の対象とされる旧皇族の子孫の若い世代は、生まれた時から普通の国民として育っているから、いきなり皇族になることを求められても、無理がある。90歳の伏見氏は、そんなことを言いたかったのではないか。

「男系男子」の皇位継承を維持するため、血縁は近くないが、皇室とつながりのある旧皇族の子孫を皇室に迎え入れるか、天皇陛下に近い女性が将来の天皇になるか、その選択の日が来るのかもしれない。

バナー写真:東久邇宮内閣が成立し、親任式を終え記念撮影に臨む東久邇宮首相(最前列)と閣僚=1945年8月17日、首相官邸(共同)

※参考文献:『昭和天皇実録第十』(宮内庁)、『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』(伏見博明著、中央公論新社)、『皇族』(広岡裕児著、読売新聞社)、『占領期』(五百旗頭真著、講談社)

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