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ミャンマー特集(3)混迷するロヒンギャ問題、地元過激派の台頭で遠のく解決

国際

ロヒンギャ問題に揺れる現場・ラカイン州に入った。そこで目の当たりしたのは、問題の解決どころか、新たなる脅威となる過激派、アラカン・アーミーの猖獗(しょうけつ)ぶりだった。

ロヒンギャに冷たいミャンマー社会

ミャンマー西部・ラカイン州の州都シットウェの空港で、外国人は到着時、滞在日程を空港警察に届けないといけない。ジャーナリストビザで入っていたので、係官からはしつこく「ムスリムに会いに行くのか」と尋ねられた。ラカインの気候は、春だというのにヤンゴンとはがらりと変わった蒸し暑さで、ベンガル湾から熱風が吹き付け、歩いているだけで汗が吹き出た。

「ムスリム」とは、ラカイン州で100万人いたとされるロヒンギャのことだ。ミャンマーでロヒンギャという言葉は使われない。「ベンガリー・ムスリム」「ラカイン・ムスリム」などと呼ばれる。

ロヒンギャについては、不法にバングラデシュから流れ込んできた人々で、ミャンマーの少数民族ではない、というのが政府の公式見解だ。ミャンマーでは、普段は意見が対立する軍政・民主派の間でも共通してロヒンギャには同情的ではない。知識人や庶民の間でも、反ロヒンギャの気持ちに程度の差こそあれ、大きな隔たりはない。

この問題は、ラカイン州に暮らすロヒンギャの一部で過激化した人々が警察などを襲撃したことで、軍、警察の過剰な弾圧を招いて、暴徒化した多数派ラカイン族の民衆もロヒンギャの人々に襲い掛かり、大量難民が発生するという経緯をたどった。いまも60万人が国境を超えて隣国バングラデシュに逃れている。国内の収容キャンプにも数十万人がいる。欧米社会は「民族浄化」という言葉すら使ってミャンマー政府を非難した。

いま、シットウェでロヒンギャと会うことは困難だ。反ロヒンギャの暴動は、2012年と15年の2度にわたって起きた。市の境界には人の出入りをチェックする監視所が置かれ、ロヒンギャと見られる人々の市内への立ち入りは許可されない。

僧侶に先導された暴徒たち

一人のロヒンギャの若者に、人づてで連絡が取れた。指定された市外の待ち合わせの場所に赴いた。ポストから数キロ離れた場所にある売店の、小さな休憩所だった。

現れたのはブライアン・イスラムさん。売店から10キロほど北にある収容キャンプで、家族と暮らしている。キャンプからは「親戚が病気になった」という理由で抜け出してきたという。

「あの日、僧侶に先導された群衆が、家に火をつけながら近づいてくるのが見えた。何も持たずに、母と妹と逃げ出した」

ブライアン・イスラムさん(野嶋写す)
ブライアン・イスラムさん(野嶋写す)

2012年のことだ。自分の家が焼かれるのを遠巻きに眺めた。暴徒はナイフやこん棒を手にしていた。警察は現れない。その日は家から離れた空き地で、家族で身を固めて眠った。翌日、警察の誘導で市外に連れ出され、キャンプに入った。もう6年になる。今でも、なぜ攻撃されたのか理由が理解できないままだという。

「私のいた集落にはロヒンギャもアラカン族も暮らしていた。学校の先生もなんの分け隔てもなく接していたし、一緒にパーティーもやって大騒ぎしていたのに」

キャンプにはロヒンギャ3000人が暮らしている。キャンプに住み始めた当時は18歳で、いまは24歳になった。当時は高校生で、いまは大学生の年齢。キャンプの子供たちに対し、手作りのテキストで自分が学校で教わったことを教えている。キャンプでは一家族に小型コンテナを改造した一部屋しか割り当てられてない。トイレは共同。シャワーもなく、タオルで体を拭くことしかできない。

「いつキャンプが出られるか分からない。身分証もないので海外にも行けない。他の都市にも移動できない。バングラデシュに逃げることもできない。人生が完全に閉ざされてしまって、なんの自由もない。私はあの暴動までミャンマー市民の一人だと信じていた。しかし、そうではなかった。いまは人間ではなく動物のようだ」

武装勢力の急台頭

ロヒンギャ問題が、ミャンマー最大の課題であることは間違いない。ブライアンさんのような無辜(むこ)の民衆の、元の生活への現状復帰が望まれる。だが非情にも、局面はすでに大きく転換しつつある。新たな「脅威」の台頭で、ラカイン州自体が不安定化しつつあり、アウンサン・スー・チー国家顧問率いるNLD(国民民主連盟)政権を苦しめているのだ。

日本のNPO「ブリッジ・エーシア・ジャパン(BAJ)」のシットウェ駐在員、神永辰則さんに会った。大学で援助学を学び、昨年から派遣されている。BAJは長年ラカイン州でインフラの支援に取り組み、地元政府の信頼はあつい。いま日本財団の支援を得ながら、5年間で80件の学校建設を進めるプロジェクトに取り組んでいるが、州北部での活動が治安悪化のために自粛となり、動きが取りにくくなった。

「これから平和教育プログラムも含めて活発にやっていきたいと思っていたので、動きが取れないのは辛いですが、今は情勢を見守るしかありません」と、神永さんの言葉には、もどかしさも漂う。

ブライアンさんの家族が暮らしていた場所はラカイン族が住みつき、半ばスラム化していた(野嶋写す)
ブライアンさんの家族が暮らしていた場所はラカイン族が住みつき、半ばスラム化していた(野嶋写す)

ラカインの治安悪化を作り出しているのは、アラカン・アーミー(AA)と呼ばれる武装勢力だ。彼らの主張はラカイン族の自治拡大と将来の独立である。AAは、ラカインの民族意識の高まりを背景に、中央政府に挑み始めた。

AAは欧米製の高額な自動小銃などの武器を手に、州内の警察署などを次々と襲撃。地元警察は太刀打ちできないようだ。多数の警官が殺され、軍ですらAAに圧倒される局面があるという。AAの勢力も、10年前の発足時の数十人から7000人に膨れ上がったとの報道がある。

勢力拡大の理由について、現地の警察幹部が匿名で語ってくれた。

「彼らは(北部の)カチン州で訓練を受け、ワ族から武器を受け取り、麻薬をバングラデシュやインドに運ぶ役割も兼ね、ラカイン州で騒動を起こしている」

カチンには反政府武装勢力のカチン独立軍(KIA)がおり、接する地域にはワ族の強力な武装勢力「ワ州自治軍」もいる。全体としてみれば少数民族の和平交渉が着実に進展する中でも、この2つの勢力は今なお頑強に抵抗姿勢を示している。

憎しみと不信の連鎖

警察幹部の指摘が本当ならば、危険な組織同士の同盟関係が形成されていることになってしまう。確かにAAの本部は今なおカチンに置かれている。ラカイン州の治安不安定化で誰が得をするのか。それは政府と戦いを続けているカチン独立軍やワ州自治軍らの武装勢力であろう。

AAはこの両者の協力を得ながら、北部で栽培されているケシから作られる覚せい剤を持ち込み、アラカン族の人々の社会に紛れこみ、覚せい剤を売って大量の資金を稼ぎつつ、組織を拡大させていると言われている。

ミャンマーには150を超える少数民族がいるが、ラカイン州に暮らすアラカン族もその一つだ。かつてラカイン州ではアラカン族によるアラカン王国があり、潜在的にヤンゴンを牛耳ってきたビルマ族への対抗意識や反発は根強い。AAはこのアラカン族の圧倒的支持を受けている。

シットウェのモスクで祈りを捧げるラカイン族の仏教徒たち。なぜロヒンギャを憎むのだろうか(野嶋写す)
シットウェの寺院で祈りを捧げるアラカン族の仏教徒たち。なぜロヒンギャを憎むのだろうか(野嶋写す)

ロヒンギャ問題の解決は国際社会の強い要求であり、スーチー政権はこの問題への対応で国際的な信用を失った。ロヒンギャ帰還を前に進める上で大前提となるラカイン州の治安が、AAの台頭によっていま、崩壊の瀬戸際にあるという苦しい現状だ。

スーチー国家顧問は、ロヒンギャ問題に強硬な軍部と、それを支える世論に配慮して身動きがとれない。圧力をかける欧米との板挟み状態になっている。

「スーチーの演説は2013年に一度聞いたことがある。本当に感動した。彼女が私たちの問題を解決してくれると期待した。アウンサン将軍の娘だからだ。しかしいまの彼女は何も語ろうとしない。ラカインにも来ない。何もしないからAAが強大化してしまった。彼女は、もうこの問題に触れたくないようにしか見えない。本当に失望している」

ブライアンさんの口からは、スーチー批判の言葉が続いた。私は沈黙する以外になかった。

憎しみと不信がラカインを包んでいた。この絡まりに絡まった複雑な状況を、いったい誰がほどいていく努力をするのだろうか。

ロヒンギャとラカインの将来は、イラワジ川が巨大デルタを作り上げながら大量の土砂とともに注ぎ込むベンガル湾の海のように、深く濁って何も見通せないように思えた。

バナー写真:仏教徒に焼かれたロヒンギャのモスク(筆者撮影)

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