21世紀のスプートニク・ショック

米国の長い影|日本の宇宙政策(2)

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日本は1970年に初めて国産ロケットを打ち上げた。中国に先んじて、世界で4番目の成功だった。しかし、日本の宇宙開発はその後、長い間、米国の影響下に置かれていく。

世界で4番目に衛星打上げ成功

連合国軍の占領が1952年に終了し、日本の主権が完全に回復すると、禁止されていた航空宇宙の研究がすぐに再開されました。予算の厳しい制約のため、糸川英夫博士は23センチメートルという超小型の「ペンシルロケット」を用いて一連の水平発射打上げ実験を行い、将来の衛星打上げに向けたロケットシステム構築の検討を重ねました。

極端に不利な状況を卓抜な創意工夫によりはね返し、70年2月には世界で4番目に100%国産技術の固体燃料ロケットの打上げに成功。日本で初めての人工衛星「おおすみ」を軌道に配置することになりました。ちなみに、2カ月後、世界で5番目に国産ロケットで国産衛星を自国領域内から打ち上げたのは中国です。

人工衛星「おおすみ」を軌道に乗せたラムダ4S型5号機(時事)
人工衛星「おおすみ」を軌道に乗せたラムダ4S型5号機が1970年2月に打ち上げられた(時事)

日本の宇宙開発が自立的なものであったのはここまでです。69年7月に宇宙開発に関する日米協力交換公文が結ばれ、米国の機密レベルには達しない液体燃料ロケットや民生用衛星の技術、機器を、米国企業から購入することとなりました。とはいえ、米国からの再突入技術の提供は、明文で禁止されています。

この協定により日本が得たものはなにか。日本が自主開発していた固体燃料ロケットに比べ、液体燃料ロケットを用いると、もっと大型の衛星をより高い軌道に投入することが可能になります。日本は莫大な予算と試行錯誤の時間を使わずして、そのような大型ロケットを入手することが可能となりました。

しかし、その後は米国の支配、といわないまでも大きな影響下に置かれることになりました。

ロケット自主開発路線の終了

米国が日本に液体燃料ロケット技術を提供することにした理由は、大きく分けて2つあります。1つは、米国の世界戦略に照らしミサイル拡散の危険を防止することであり、もう1つは、西側諸国の科学技術力の優位を世界に示すことです。

1つ目の理由について説明します。ミサイル拡散の懸念が生じたのは、ペンシルロケットが成長してできあがった、弾道軌道を航行する科学観測ロケットが、日本からインドネシアやユーゴスラビアに輸出されたことによります。1960年代初期には、国際的な科学協力のためにも、ロケット輸出は好ましいことだと考えられていました。その頃はまだ、弾道技術を用いる発射という純然たる技術の観点から、ロケットとミサイルを同一視する発想は一般的ではなかったのです。

しかし後に、ミサイルとロケットの国境を超える移転について、輸出を厳格化し、搭載能力が500キログラム以上で300キロメートル以上飛翔する物体は原則輸出禁止となります。このことを約束する有志国グループ、「ミサイル技術管理レジーム」(MTCR)が米国主導でできたのは87年のことです。

日本の観測ロケットの量産を、米国は危険視していました。まず、日本が固体燃料ロケット技術を磨き、将来高性能弾道ミサイルを作り上げる可能性があること。そして、より現実的とされた危険は、日本の観測ロケットが輸出先で中距離弾道ミサイルに転換されることでした。

米国としては、ミサイルの拡散を防ぐためにも、日本がこれ以上固体燃料ロケット技術を向上させないことが急務でした。そのために日本の主力ロケットをミサイル転換に向かない液体燃料ロケットとすることが、解決策と考えられました。

先に述べた、西側の科学技術力の優位を世界に示すためという2番目の理由としては、中国が64年に核実験に成功していたことが挙げられます。米国は、中国の核兵器保有が共産主義体制の優位を示すことになるのを恐れ、西側陣営の日本がアジアで最先端の宇宙技術を持つ国となるよう援助することが、長期的に米国の利益に適うと判断しました。そこには別の狙いもあり、そのように日本を誘導することで、日本が核武装の誘惑に駆られる可能性の芽を摘みたいという米国の意思も存在していました。

結果的に、日本は安価で先端宇宙技術を入手します。米国は世界的な不拡散政策を実施して、自国陣営の国々に自由主義体制の優越を目に見える形で示すことができました。このように日米ともに得るものは大きかったのですが、その過程で、日本は宇宙活動の重要な部分に米国の同意を必要とすることとなり、宇宙開発利用の範囲を大いに狭めてしまいました。

例えば、米国の技術を用いて製造された日本のロケットや衛星、それらの構成部分、部品などは、米国の同意なしに第三国に移転することを禁じられました。外国衛星を日本のロケットで打ち上げることも、米国の同意を必要とするようになりました。将来の宇宙ビジネスの世界展開などの芽を摘まれてしまった、といえます。

「宇宙の非軍事利用」を政策決定

「日米宇宙協力交換公文」が結ばれたのと同じ1969年、日本はその後40年間、自国の宇宙開発利用を縛ることとなる国会決議を全会一致で採択しています。現在の国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)の前身である特殊法人宇宙開発事業団(NASDA)を設置する法案審議中に、いかにして日本の宇宙開発利用を非軍事にとどめるのか、ということが問題視されました。

すでに発効していた宇宙条約(67年)を含め、国際的には、「平和目的の」宇宙利用とは、防衛目的の軍事利用を含むという了解がありました。そのため、宇宙開発事業団法で日本の宇宙開発は「平和の目的に限り」(第1条)と規定しただけでは軍事利用の防止には不十分であるとされ、非軍事利用が平和目的の利用であることを確認する手段として、69年5月9日(衆議院)、6月13日(参議院)に、「平和利用に限る」との国会決議が採択されたのです。

ロケット大型化と各種実用衛星の開発

平和目的のための宇宙開発に関する「日米宇宙協力交換公文」の終了後も、1976年と80年にそれぞれ、国産ロケット開発のための機器・技術を米国企業から輸入する口上書が、69年の交換公文とほぼ同様の条件で締結されました。

それにより、N-IIロケット、H-Iロケットという大型ロケットを開発するとともに、90年までに政府やNHKなどが利用する通信、放送、気象衛星を12基開発・運用することが可能となりました。政府やNHKなどは、通信衛星、放送衛星、気象衛星をそれぞれ異なる企業に発注し、来るべき宇宙ビジネスの時代に備え、実力を涵養(かんよう)しました。

大型実用衛星時代への期待を乗せ、打ち上げを待つN-IIロケット1号機=鹿児島・種子島宇宙センター(時事)
大型実用衛星時代への期待を乗せ、打ち上げを待つN-IIロケット1号機=鹿児島・種子島宇宙センター(時事)

測地実験衛星「あじさい」とアマチュア無線衛生「ふじ」など複数の衛星を積んで、大崎射場をほぼ垂直に飛び出すH-Iロケット=鹿児島・種子島宇宙センター(時事)
測地実験衛星「あじさい」とアマチュア無線衛生「ふじ」など複数の衛星を積んで、大崎射場をほぼ垂直に飛び出すH-Iロケット=鹿児島・種子島宇宙センター(時事)

表面的には、官民協力で順風満帆に日本の宇宙開発利用を進めていった時代といえるかもしれません。しかし、日本がバブル経済に突入し、日米貿易摩擦が激しくなると、日本をライバル視する米国からの宇宙協力は困難となってきました。

90年、貿易摩擦調整の一環として日米衛星調達の合意が結ばれます。この合意は、政府やNHKが調達する研究・開発以外の衛星、および軍事衛星を含む安全保障専用衛星以外の衛星は、国際公開入札にかけなければならない、という内容で無期限の合意です。つまり、通信・放送衛星、気象衛星などの実用衛星が公開入札の対象となります。

これについて、その後、2015年ごろまでの動きをみると、政府等が調達した実用衛星13基のうち12基は米国から購入することとなりました。気象衛星1基のみ国内企業が受注を果たしています。官民協力の下、1990年以前に12基の受注を日本企業が得ていましたが、それ以降の12基は米国企業から購入することとなったのです。

90年代に、米欧のみならず、ロシア、中国、インドが宇宙ビジネス市場に参入してきました。そんな中、日本の衛星産業は、他国にはない公開入札制度の壁に阻まれ、出遅れていくことになります。

ロケットについては、政府は85年までに、完全自主開発の大型液体燃料ロケットH-IIの開発を決意します。そして、H-IIロケットの打上げは94年に始まりますが、最後まで100%国産技術とはいえない部分がありました。完全な国産大型ロケットH-IIAの打上げは21世紀に入ってのこととなります。

バナー写真:日本の宇宙開発において人工衛星打ち上げの中心的役割を担っている種子島宇宙センター(アフロ)

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