杉原千畝の実像に迫る

「命のビザ」のため、母国日本との“闘い”-杉原千畝の実像に迫る(3)

歴史

独ソ両国の密約によって、スターリンのソ連に呑み込まれつつあったバルト3国の小国リトアニア。その暫定首都カウナスは、二つの全体主義から逃れてきたユダヤ難民であふれかえっていた。各国の諜報機関が入り乱れ、情報戦が繰り広げられるカウナスに赴任したのが杉原千畝だった。彼は「命のビザ」をユダヤ難民に発給し、彼らの人脈からも貴重な情報を手に入れていた。

世界的諜報戦の最前線カウナス

スターリン率いるソ連から入国を拒まれた杉原は、隣国フィンランドの首都ヘルシンキでの約2年間の勤務を経て、リトアニアのカウナスに赴いた。この地に新たに日本の領事館を開設し、その領事代理となった。1939年(昭和14年)8月のことだった。

元在カウナス日本領事館(現・杉原記念館)=白石仁章氏提供
元在カウナス日本領事館(現・杉原記念館)=白石仁章氏提供

リトアニアは、独ソ両国の鼓動が直に伝わってくるような地の利を有していた。それゆえ、暫定首都となったカウナスには、英米をはじめ欧州各国から情報士官や外交官が密命を帯びて、激しい諜報戦を展開していた。日本政府もまた独ソの最新の動向を探らせるため、インテリジェンス・オフィサー(情報収集と分析のプロフェッショナル)の切り札である杉原を送り込んだのだった。

杉原がカウナスに派遣される前年の38年、ヒトラー率いるナチス・ドイツはオーストリアを併合し、続いてミュンヘン会議でチェコスロバキアの国境に近いズデーテン地方の割譲を英仏に認めさせた。翌39年の初夏、モンゴルと満州(現中国東北部)の国境地で日本の関東軍とソ連・モンゴル両軍が激突する「ノモンハン事件」が勃発し、帝国陸軍は関東軍の精鋭を投入しながら、痛打を浴びてしまう。

そして、陸軍の統帥部が盟友と頼んでいたナチス・ドイツは、あろうことか、主敵であるソ連と「独ソ不可侵条約」を結んでしまう。日本の平沼騏一郎首相は「欧州情勢は複雑怪奇なり」と声明を残し、内閣総辞職した。当時の日本は情報戦で後れを取り、外交の羅針盤を粉々に砕かれたのだった。そうした情勢下で日本の指導部は、急ぎ杉原をリトアニアに赴かせた。

杉原がカウナスに着任した4日後、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の火蓋が切って落とされた。2週間後にはスターリンの赤軍が密約に従ってポーランドに侵攻し、この国は真っ二つに切り裂かれてしまう。だが、ポーランド政府は降伏せずに、パリ、次いでロンドンに亡命政府を樹立して、頑強に独ソ両国に抗い続けた。

ポーランド亡命政権の情報将校と協力

次第に情報のネットワークを整えつつあった杉原のもとに、ポーランド亡命政権の諜報機関につながるインテリジェンス・オフィサー(情報将校)たちが接触を求めてきた。ポーランドはかつて帝政ロシアを破った日本に親近感を抱き、その後も親日国であり続けた。1933年に日本が国際連盟を脱退した後、孤立化する日本に国際連盟での貴重な情報を提供し続けた。

ポーランドには当時、ヨーロッパで最も多い300万~400万人のユダヤ系住民が暮らしていた。そのポーランドが独ソに分割されてなくなり、迫害を恐れたユダヤ人が隣国リトアニアに押し寄せてきたのである。同時に、かりそめの独立国だったリトアニアを拠点に亡命ポーランド政府の情報将校たちが活躍していた。杉原は、ソ連軍に抑留されたポーランド兵の救援組織、ドイツやソ連に対する武装闘争同盟とも接触して、「杉原ネットワーク」を急速に拡大させていった。

日本政府が杉原の行動を評価した理由について、杉原研究を続ける外務省外交史料館の白石仁章氏は、「ポーランド側が提供する情報に大きな価値があったからだ」とみている。インテリジェンス・オフィサーだった杉原は、極秘の情報を入手し、優れた分析力を加えて、東京に価値ある情報を送り続けた。

初めは断ったユダヤ人へのビザ発給

しかし、カウナス着任1年目の杉原は、ユダヤ系住民に日本の通過ビザの発給を要求されても、日本の外国人入国令による必要条件(行先国の入国許可と、十分な旅費)を満たさない人にはビザの発給を断っている。同時に、一刻も早くリトアニアを脱出することを勧めていた。ソ連が間もなくバルト3国を呑み込んで併合するのを見抜いていた杉原には、自国日本の法を守ろうとする一面と、ヒューマニストの側面が混在していた。

バルト3国で、ソ連から最初の標的にされたのはリトアニアだった。現地でソ連兵が行方不明となったという事件をでっち上げたソ連は、リトアニアの外務大臣をモスクワに呼びつけて脅し、内閣を総辞職させた。新首相をソ連の相談なしに決めたと言いがかりをつけ、ソ連は40年6月、16万人の軍隊をリトアニアに進駐させた。やがてソ連は、日本など諸外国に在外公館の閉鎖を命じ、杉原も領事館を8月末までに閉じるよう迫られていた。

こうした混乱の中、同7月17日、カウナス日本領事館をユダヤ難民がビザを求めて囲み始めた。ソ連の暴虐を目の当たりにしていた杉原は、日本の外務本省にユダヤ難民へのビザ発給について問い合わせた。しかし、外務本省は条件を満たさない難民へのビサ発給を容易に認めようとしなかった。だが、独ソ両国の迫害に逃げ惑う難民が、十分な旅費や、行先国の入国許可などの条件を満たせるはずはない。杉原は懊悩の日々の末、ついにビザの発給を決断したのだった。7月26日のことだ。

杉原が昭和15年7月31日に書いたビザ(査証)=杉原千畝記念館提供「この杉原ビザ1枚で、ポーランドのワルシャワに住んでいた家族全員(父、母、娘の3人)が、福井県敦賀に上陸することができ救われた」
杉原が昭和15年7月31日に書いたビザ(査証)=杉原千畝記念館提供「この杉原ビザ1枚で、ポーランドのワルシャワに住んでいた家族全員(父、母、娘の3人)が、福井県敦賀に上陸することができ救われた」

初めはすべて手書きだったが、途中から渡航先、日付などを除き、スタンプになっている。後半の時期のビザは、杉原の署名もスタンプになった。1枚でも多くビザ発給をと、ポーランド人たちが作ったものだ。杉原ビザはポーランドとの協力で大量発給が可能になった。

大量発給ビザを無効とされないために

杉原と本国日本との“闘い”が始まる。ビザを発給し続ける杉原のもとに本省から、ビザ発給のルールを守るようにとの電報が送られた。杉原は「本査証はウラジオストクで日本行きの船に乗るまでに、行先国の入国許可を取り付けること、日本から出国する際の乗船券の予約を完了することを約束したので交付した」というスタンプを作り、それを押してビザの発給を続けた。

そして領事館閉鎖後に、そのような臨時措置を行っていると本省に電報した。本省からは直ちにそのような措置を止めるようにとの返事が来て、「以後は」ルールを厳重に守るようにと命じられた。「以後は」ということは、それ以前の大量発給したビザは目をつむることを意味するので,杉原はぎりぎりのところで,発給したビザの有効性を確保したのであった。

訓令違反で職を失う危険も覚悟したが、杉原が何よりも心配したのが違法のビザだからと無効にされてしまうことだった。難民たちがせっかく日本に着いても、上陸が認められなければ意味がないからだ。いろいろな工夫をしているが、白石氏は「インテリジェンス・オフィサーとして培ってきた杉原の能力が、本省向けに応用された」と述べている。

日本領事館は8月28日に閉鎖されたが、杉原はさらに驚きの行動に出る。疲れをとるためにと、カウナス市内のホテルに移り、9月5日ごろまで滞在。領事館にそれを伝える張り紙を残したから、難民たちはホテルに押しかけた。杉原はカウナス駅で列車が出るまで、ビザに代わる日本への渡航許可書を力の限り書き続けた――。

バナー写真:杉原が「命のビザ」を書いた在カウナス日本領事館の執務室をそのまま再現した杉原千畝記念館内の「決断の部屋」=同記念館提供

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