杉原千畝の実像に迫る

死後14年の名誉回復-杉原千畝の実像に迫る(5・最終回)

歴史

独ソ開戦情報をいち早く日本に打電した杉原千畝は、ナチス・ドイツからも警戒され、ルーマニアの首都ブカレストに転勤を命じられる。終戦から2年後にようやく帰国を果たしたが、外務省から退職を告げられてしまう。戦後23年、民間の小さな商社にいた「チウネ・スギハラ」を見つけたのは、「命のビザ」で救われたかつてのユダヤ人難民だった。ようやく杉原の存在が世界に知られるようになったが、日本の外務省が杉原を顕彰したのは、彼の死後14年のことだった。

「ナチスも恐れた男」

杉原千畝が極秘暗号電報で独ソ開戦情報を東京に送って間もなく、ヒトラー率いるナチス・ドイツ軍がスターリン支配下のソ連に侵攻を始めた。1941年(昭和16年)6月のことだ。それから3か月後、独ソ国境に近い東プロイセンのケーニヒスベルクに勤務していた杉原は、欧州在勤が4年に及ぶことを理由に、外務省に帰国を願い出た。

杉原研究の第一人者、外務省外交史料館の白石仁章氏は杉原の心境をこう読み解いている。「インテリジェンス・オフィサー(情報収集・分析の専門家)としての活動が難しくなりつつあったことが大きいと思う。ナチス・ドイツ当局が、ポーランドに同情を寄せる杉原を“好ましからざる人物”と見なすようになり、自分と家族の身辺に危険が迫っていることを察知していたからだろう」

それを裏付けるように、ドイツの国家保安部がこの頃に作成した資料には、「杉原が引き続きケーニヒスベルクで職務を続けることは、日独関係を危険に陥れる」と書かれている。インテリジェンス・オフィサー杉原千畝は、ソ連だけでなく、同盟国ドイツにも恐れられ、警戒させるほどの逸材だった。

だが、外務省は杉原の帰国を認めようとせず、ドイツから遠いルーマニア・ブカレストに異動を命じた。着任の2日前、日本軍はハワイ真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入していった。

「杉原の残した情報網」がヤルタ密約情報をつかんだ

杉原が育んだポーランド亡命政府の諜報組織との協力関係。彼らとの絆は、杉原がケーニヒスベルクを離れた後も揺らがなかった。「杉原情報網」を引き継いだのは、中立国スウェーデンの首都ストックホルムに陸軍の駐在武官として勤務していた小野寺信(まこと)少将だった。1945年2月のヤルタ会談で、ソ連が対日参戦の密約をかわしたという極秘情報は、この「スギハラ・ネットワーク」を介して小野寺武官のもとに届けられた。

小野寺は最高度の暗号システムを用いて東京にこの密約を打電した。だが、参謀本部がこの重大情報を受け取り、検討した形跡はない。当時、陸軍はソ連を仲介として懸命の終戦工作を繰り広げていた。参謀本部はこれに水を差す情報を闇に葬り去った可能性がある。結局、ソ連を仲介とする和平工作は失敗し、原爆投下、そしてソ連の対日宣戦布告という最悪の結果を招いてしまった。

終戦後の杉原には苛酷な現実が待ち受けていた。敗戦国の外交官として、家族と共にブカレスト郊外の捕虜収容所に入り、47年4月、ようやく帰国を果たした。だが、2か月後、外務省から呼び出しを受けて出かけてみると、職務に復帰するポストはなく退職するよう告げられたのだった。

この退職をめぐっては、外務省の訓令に背いて、ユダヤ難民にビザを発給した責任が問われたという説と、当時の外務省は占領下で本格的な外交を行う状況になく、大幅な人員整理が必要だったという説がある。いずれにしろ、戦後の外務省は稀代のソ連通の外交官、杉原千畝を手放してしまった。外務省首脳陣の判断を支持する人は少ないに違いない。

外務省を去って間もなく、悲劇が相次いで杉原一家を襲った。「命のビザ」を発給したリトアニア・カウナスで生まれた三男が7歳で突然の病死。翌年には10年に及んだ欧州生活に同行した妻の妹も病で亡くなった。

岐阜県八百津町の人道の丘記念公園にある杉原千畝の銅像=白石仁章氏提供
岐阜県八百津町の人道の丘公園にある杉原千畝の銅像=白石仁章氏提供

杉原はその後、得意のロシア語を生かし、貿易会社やロシア語学校、NHK国際局などの職を転々とした。そして60年からは貿易会社のモスクワ所長などとして、現地で15年間勤め上げた。この間は単身でモスクワに暮らし、彼の地で75歳まで働き続けた。

「杉原ビザ」で救われたユダヤ人との対面

この間、一時帰国していた68年の夏、イスラエル大使館から思わぬ電話がかかってきて、「杉原ビザ」によって救われたかつてのユダヤ難民と対面した。杉原を探し続けていたこのユダヤ人は、日本の外務省に幾度も問い合わせたものの、杉原が自分の名前を外国人にも発音しやすい「スギハラ・センポ」と教えていたこともあって、外務省からは「該当者なし」という返事を受け取ったという。カウナス領事館に勤務していた杉原と言っても、外務省からの返答は変わらなかったという。

杉原が昭和15年7月31日に書いたビザ(査証)=杉原千畝記念館提供
杉原が昭和15年7月31日に書いたビザ(査証)=杉原千畝記念館提供

ユダヤ人との対面がきっかけとなって、翌69年、杉原は初めてイスラエルを訪問する。そして、「命のビザ」の受給者のひとりである現職の宗教大臣と再会を果した。この時、イスラエル側は杉原が自国の外務本省の許可なしに、失職も覚悟で大量のビザ発給を決断したことを初めて知ったという。85年には、イスラエル政府から幾多のユダヤ難民を救った功績を讃えられ、「諸国民の中の正義の人」の称号が日本人として初めて贈られた。

そして杉原は、翌86年に86歳で永眠した。杉原は最後まで「インテリジェンス・オフィサーは語らず」の教えを守り通し、ユダヤ難民へのビザ発給の経緯やインテリジェンス・オフィサーとしての功績を声高に言うことなく、静かに去っていった。

外務大臣が遺族へ異例のお詫び

それから14年後の2000年、日本政府は遅ればせながら、杉原千畝の顕彰にようやく踏み切っている。生誕100年を記念して外務省外交史料館(東京・麻布台)に「顕彰プレート」が設けられ、除幕式では河野洋平外務大臣が異例の挨拶をしたのだった。

「故杉原氏がご存命中にこのような式典ができておれば、更に良かったと思います。これまでに外務省とご遺族の間で、色々ご無礼があったこと、ご名誉にかかわる意思の疎通がかけていた点を、心からお詫び申し上げたい」。そして、「故杉原氏は60年前、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました」と述べた。

リトアニア訪問中に杉原千畝記念碑をご覧になる天皇、皇后両陛下(現上皇ご夫妻)=2007年5月26日(時事通信)
リトアニア訪問中に杉原千畝記念碑をご覧になる天皇、皇后両陛下(現上皇ご夫妻)=2007年5月26日(時事通信)

リトアニアを2007年に訪問した天皇、皇后両陛下(現上皇ご夫妻)が、現在の首都ビリニュスのネリス川岸辺にある公園の杉原千畝記念碑をご覧になった。両陛下は杉原の顔が浮き彫りにされたレリーフを見つめ、杉原の業績をしのばれた。リトアニアの大統領はその日の歓迎午餐会で、両陛下を前に「両国の間には、条約や外交を超えた特別な懸け橋ができました。それをつくった日本の外交官杉原千畝は、人道的な功績を残し、リトアニア国民の尊敬を集めています」と最大限の賛辞をおくった。

杉原が優秀なインテリジェンス・オフィサーであった事実が、これまで知られてこなかった理由について、白石氏は次のように説明している。

「現代史の研究は、史料だけでなく、当人や関係者本人へのインタビューを研究に用いることができるのが魅力的だ。杉原の場合には当人はあまり語ろうとしなかったのだが、救われたユダヤ人たちのインタビューが豊富に集められた。しかし、インタビューの研究が進む一方で史料研究が大きく遅れてしまった。その結果、ヒューマニストの側面だけが強調され、その陰でインテリジェンス・オフィサーの素顔が失われてしまったのではないか」

杉原はヒューマニストの側面のみを評価して満足するには、あまりにもスケールの大きな人物である。稀代のインテリジェンス・オフィサーの姿が加わってこそ、より鮮明に杉原千畝の実像が描き出し、後世に彼の素顔を伝えることができるのではないだろうか。

バナー写真:リトアニアの公園に設置された杉原千畝記念碑=白石仁章氏提供。碑の右側の真ん中は杉原が書いた「命のビザ」

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