連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信

バックチャネルとして上海で和平工作:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(3)

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「ロシアウオッチャー」揺籃の地、ラトビアの首都リガから陸軍参謀本部ロシア課に戻った小野寺信(まこと)は、息つく間もなく上海に派遣された。イタリアのナポリから乗った帰国船が日本に着いてわずか4カ月後の1938(昭和13)年10月。拡大する日中戦争を終結出来ないか。その糸口を探るためだった。

ロシア課主導で蒋介石との直接交渉に挑む

北京郊外で「盧溝橋事件」が発生したのは、1年3カ月前の1937年7月7日夜だった。日本軍は終結させようと同年12月、国民政府の首都南京を陥落したが、蒋介石は中央政府を漢口から重慶へと移し、戦線は華中、華南まで拡がった。

危惧したのはソ連による共産主義の拡大を懸念していた参謀本部ロシア課だった。背後で米英が支援している中国との戦争の深みにはまると、北方の対ソ防衛作戦に支障を来すからだ。

しかし、参謀本部の主流、支那課が秘かに進めていたのが、国民党ナンバー2で和平派の汪精衛(汪兆銘)を擁立して親日政権を作る工作だった。中心人物は参謀本部謀略課課長だった影佐禎昭(かげさ・さだあき)。第24代自由民主党総裁を務めた谷垣禎一の母方の祖父である。

ロシア課は、「傀儡(かいらい)政権では中国国民の信頼は得られない。根本解決には、重慶(国民党政府)の蒋介石との直接和平しかない」と判断。若手の俊英・小野寺を南京に置いた支那派遣軍司令部付参謀に任じ、「国民政府要路者ト東亜再建ニ関シ協議スルノ権限ヲ委任ス」との委任状を送り、上海に派遣したのだった。

大本営が小野寺に送った「国民政府要路者ト東亜再建ニ関シ協議スルノ権限ヲ委任ス」との委任状(小野寺家提供)
大本営が小野寺に送った「国民政府要路者ト東亜再建ニ関シ協議スルノ権限ヲ委任ス」との委任状(小野寺家提供)

外交官とは別にインテリジェンス・オフィサー(情報士官)がバックチャンネルで、政府間の意思調整を行うこともある。近年では、リビアのカダフィ政権が米英と9カ月の秘密交渉の末、2003年12月、核兵器を含む大量破壊兵器開発の即時かつ無条件の廃棄を表明したが、最初に交渉ルートを切り開いたのはイギリス情報局秘密情報部(MI6)だった。

外交関係がなく敵対する国や国交のない国にもアプローチできる情報士官は、影の交渉役として適している。小野寺は、日中戦争でバックチャンネルとして蒋介石との直接和平工作というミッションを与えられたのだった。

共産党転向者ら梁山泊の「小野寺機関」

「小野寺機関」を設けたのが、日本軍が接収した「アスターハウスホテル」(浦江飯店)の一室だった。列強の陰謀が渦巻く「魔都」に建つ東洋一といわれた伝説のクラシックホテルである「アスターハウスホテル」は、南京条約締結から4年後の1846年、イギリス人のリチャードが創業した重厚なヴィクトリア朝バロック様式だ。モダンな都市文化が花開いた上海で最も格式が高かった。参謀本部はこのホテルに居宅と事務所を構え、「小野寺機関」として活動させたのだから、小野寺に寄せる期待は少さくはなかった。

「小野寺機関」のオフィスがあった上海アスターハウスホテル(同ホテルHPから)
「小野寺機関」のオフィスがあった上海アスターハウスホテル(同ホテルHPから)

そこに集まった約20人は、ソ連通の共産党転向者からユダヤ問題専門家、重慶情報提供者、台湾人まで多士多彩。軍人は一人もいなかった。人種、国籍、信条、思想を越えた梁山泊だった。近衛文麿首相の長男、文隆は東亜同文書院理事の肩書で参加。近衛文隆らを介して、日中ハーフの美貌の女スパイ、鄭蘋如(テンピンルー)も出入りした。

翻訳係として働いていた鄭蘋如は、中国国民党高官の父と、日本人の母との間に生まれたが、中国人としての愛国意識に目覚め、重慶政府の特務機関「中統」(CC団)に属していた。堪能な日本語と高度な知力、そして雑誌の表紙を飾る美貌を武器に、中国側のスパイとして、「魔都」を跋扈した。

スパイとして活動したのは、2年半に過ぎない。だが、その間、プリンス近衛や、親日派の大物、抗日テロ弾圧組織「ジェスフィールド76号」のトップ、丁黙邨と次々と恋愛関係になった。プリンス近衛を本気で愛するようになり、蔣介石と近衛文麿間の連絡ルートを作って、日中和平を図ろうとした。しかし、「中統」からの指令で丁黙邨を暗殺しようと試みたが失敗して、「ジェスフィールド76号」に捕らえられ、わずか25才で銃殺された。

欧州で民族の興亡を垣間見た小野寺は、傀儡政権では立ち行かず、共産主義を浸透させるソ連のコミンテルンの野望を懸念していた。そこで中国国民党の組織部副部長の呉開先と近衛文麿首相か板垣征四郎陸相を香港で面会させ、和平の突破口にする案を練った。

小野寺には秘策があった。和平は天皇陛下の鶴の一声で一気に持ち込まねば成功しない。そこで、天皇に最も近い近衛文麿に直々に直接和平論を説明し、同意を得ようと考え、文麿を説得するため、息子の文隆に親書を書かせた。

1938年12月、汪兆銘が重慶を脱出すると、小野寺は日本に帰国。文麿あての親書を携えて東海道線で京都から帰京する文麿に、車中で直談判したが、文麿は「軍が同意さえすれば」とだけ答え、消極的だった。しかし、半年後の39年5月、再び上京、板垣陸相、中島鉄蔵参謀次長と面会して、国民党が要求していた板垣陸相の会談の了解を得た。

ところが、その後、影佐は東京で必死に巻き返した。同6月6日、閣議で正式に「汪兆銘擁立工作」を進める「対支処理要綱」が決定する。その結果、蒋介石政権との直接交渉は寸前で取りやめとなった。小野寺は、影佐に気合負けしたのだ。今日、親日傀儡政権よりも国民から支持された蒋介石との直接交渉が戦争終結に合理的な選択だったことは、歴史が示すところだ。しかし、影佐には陸軍上層部を説き伏せる政治力があった。

40年3月、南京に汪兆銘政権は誕生したものの、戦局打開も事態収拾も実現しなかった。傀儡政権を目指す一方で、蒋介石との直接和平を模索する二股工作は、中国に日本への不信感を増幅させ、日中戦争はさらに泥沼化した。

蒋介石から「和平信義」のカフスボタン

小野寺は、事実上の左遷となる三笠宮担当の陸軍大学校教官の辞令が下り、失意のうちに帰国した。「小野寺機関」は解体となり、直接和平工作は終わりを告げた。

しかし、帰国する直前、蒋介石は部下を通じて小野寺に金製のカフスボタンを贈った。ボタンには蒋介石自筆の「和平信義」の文字が刻まれ、「国と国の間は和平、人と人の間は信義」との言葉を小野寺に伝えた。蒋介石は小野寺を信頼して、和平実現へいちるの望みを抱いていたのかもしれない。

工作は成功しなかったが、蒋介石と心を通わせることができた。上海でも多くの人と交流を深め、和平工作が出来たのは、小野寺の懐の深さからだろう。

「自分の一生のうちあれほど心血を注いで張り切って働いたことはなかった」(百合子夫人著『バルト海のほとりにて』)。精魂傾けた中国での和平工作を小野寺は、晩年、こう回顧している。

百合子夫人の肖像写真(小野寺家提供)
日本語で日付と署名をした百合子夫人の肖像写真(小野寺家提供)

後にストックホルムで、ソ連参戦密約を知り、天皇陛下の鶴の一声による終戦工作を構想して奔走するが、上海での工作は、その予行演習になったに違いない。

バナー写真:1938年3月、帰国が決まり、ラトビア陸軍参謀本部第二部(情報部長)のキックルス大佐に贈った小野寺信の肖像写真(小野寺家提供)と、戦前の上海

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