連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信

スウェーデン王室通じた終戦打診工作も大本営から叱責:連合軍を震撼させた「諜報の神様」小野寺信(6)

政治・外交 国際 歴史 社会

中立条約を結んでいたソ連が日本に侵攻する密約を、ヤルタで連合国が交わしたことを掴んだ小野寺信(まこと)ストックホルム駐在陸軍武官は、親交のあったスウェーデン王室を通じて日本の戦争終結の機会を探れないか打診を進めた。バックチャンネル(裏ルート)としての工作であったが、帰国したウィダー・バッゲ駐日公使の終戦仲介工作と、スウェーデン政府内でバッティングしてとん挫した。

枢軸諜報機関の機関長

1944年3月、ポーランドの大物情報士官、ミハウ・リビコフスキが亡命政府のあったロンドンに退去すると、小野寺はドイツ、ハンガリーなど枢軸同盟国の情報士官とも親密に連携を始めた。ハンガリーの駐在武官補佐官、ヴェチケンジーが紹介したのがドイツ随一の情報士官といわれたカール・ハインツ・クレーマーだった。

ドイツ随一の情報士官といわれたカール・ハインツ・クレーマーとその家族(英国立公文書館所蔵)
ドイツ随一の情報士官といわれたカール・ハインツ・クレーマーとその家族(英国立公文書館所蔵)

ドイツ北西部ニーダザクセン州に生まれ、法学博士号を持つ弁護士から、ドイツ国防軍情報部(アブヴェール)に参加したクレーマーとの協力は格別だった。戦後、小野寺はクレーマーを、「ドイツの情報機関のスウェーデンでの親玉。ドイツの諜報部長(長官)シェレンベルクの直属の部下」(「偕行」1986年4月号)と評し、「クレーマーが西側(英米)、日本(小野寺)は東側(ソ連)を分担して情報収集し、ギブアンドテイクが上手くいった」と家族に語っている。英秘密情報部(SIS、通称MI6)の尋問で、クレーマーも小野寺を、「ストックホルムで最も重要なニュースソース」と答えた。

クレーマーは、自分が小野寺に与える情報より、小野寺から提供される情報の方が質量ともに高かったため、小野寺に総額で1万から2万クローネ(当時の1クローネは約1円にあたり、当時の1円は現在の貨幣価値の約1000円に相当するため約1千万円から2千万円)の報酬を支払った。小野寺情報によって、「ドイツ情報部門の北欧での第一人者になった」とさえ述べている。

連合国軍が44年6月6日、フランスのノルマンディーに約300万人の兵士を上陸させた「ノルマンディー上陸作戦」でも、小野寺は予測情報を得た。作戦直前の5月、フランスのドゴール派(ロンドン亡命政府側)のストックホルム駐在武官補のピエール・ガルニエ少佐から、「遅くとも秋までに必ず実行される」との情報を得て参謀本部に報告した。ガルニエ少佐はエストニア陸軍参謀本部情報部長のマーシングが親しくしていたエージェントで、小野寺は直接接触していないが、マーシングを通じて機密情報を入手した。

ノルマンディーに上陸した連合国軍がドイツに一敗地にまみれた同年8月のアルゴンヌの戦いでも、ガルニエ少佐が集めた連合軍の戦闘配置を伝える現地のフランス、ベルギー、オランダの新聞が、マーシングを通じて小野寺からクレーマーに渡ってドイツ軍は反攻に成功した。小野寺諜報網にドゴール派情報士官が関与していることに連合国は衝撃を受けた。

さらに翌9月、オランダ南東ヘルダーラント州アーネムを舞台に連合国軍は、ドイツ軍からライン川にかかる5つの橋を占拠すべく5千の戦闘機と3万人の空挺部隊を投入させ、2万の車両と約12万の兵士を動員しながら、史上最大の汚点となる空挺作戦「マーケット・ガーデン作戦」を決行した。4つの橋を占拠しながら、最後のアーネム橋を死守するドイツ軍と壮絶な戦闘となり、橋を確保できず、英国第1空挺部隊が壊滅するなど作戦は失敗した。

MI6は映画「遠すぎた橋」で知られる「アーネム作戦(マーケット・ガーデン作戦)」の情報を3日前に入手したと述べたクレーマーの諜報は、「唯一の大成功だった」と評価した。だが、情報源についてクレーマーは、小野寺とハンガリー人のジョセフ・フィリップだったと戦後、連合軍に答えた。

「マーケット・ガーデン作戦」情報を3日前に小野寺から得たとするクレーマーの供述調書(英国立公文書館所蔵)
「マーケット・ガーデン作戦」情報を3日前に小野寺から得たとするクレーマーの供述調書(英国立公文書館所蔵)

大戦末期の欧州で日本とドイツ、ハンガリーが緊密な諜報協力を展開し、43年8月に少将に昇進していた小野寺は階級が最も上だったため、「枢軸情報機関の機関長」と呼ばれ、英MI6は、日本陸軍武官の中で唯一、個人ファイルを作って警戒した。

プリンス・カール・ベルナドッテから提案 

「国王が心配されている。英国王室と親しい国王に、英国との仲介をお願いしてはどうか」。ドイツが降伏すると、その翌5月9日。軍属として陸軍武官室で嘱託だった三井船舶、本間次郎を通じて、スウェーデン国王グスタフ5世の甥のプリンス・カール・ベルナドッテと仲介者のスタンダード石油スウェーデン総代理店支配人、エリック・エリクソンが武官室を訪れ、小野寺にこう提案した。

プリンス・カールの父親、プリンス・カール・シニアは王弟で、スウェーデン赤十字社の総裁。国王の甥にあたるプリンス・カールは王族の称号も王位継承権も失っていたが、国王から愛され、よく招かれていた。エリクソンは反ソ主義者のスウェーデン系アメリカ人で、米戦略情報局(OSS)のエージェントを務め、実は米国の意向を受けて小野寺に打診工作を持ち掛けたことが戦後、判明している。

プリンス・カール・ベルナドッテが訪ねて終戦工作を持ち掛けたストックホルムの陸軍武官室があったアパート入り口(2016年12月、筆者撮影)
プリンス・カール・ベルナドッテが訪ねて終戦工作を持ち掛けたストックホルムの陸軍武官室があったアパート入り口(2016年12月、筆者撮影)

44年11月に2人と知り合って以来、小野寺は会うたびに和平の斡旋を国王に要請せよとアドバイスされたが、首を縦に振らなかった。小野寺自身、密かに別の和平の構想を抱いていたからだ。真珠湾攻撃から半年後(1942年5月)の珊瑚海海戦(開戦以来の日本軍の前進が阻止された日米間の海戦)の翌月に拝謁した国王グスタフ5世から、「戦いは勝つときばかりではない。適当な時期に終戦を図るべきだ」との忠告を受けた。以来、機会が来れば、国王の信任が厚い侍従武官長のトルネル大将か総軍参謀長伯爵エーレンスウェード中将に依頼して国王に仲介の労をとってもらい、英国国王を通じて和議の道を開くことを頭に描いていた。スウェーデン王室は、当時、故王妃も皇太子妃も英国から迎えて、王室同士の関係が深かった。

国王グスタフ5世が1942年6月12日午前12時30分に日本の(小野寺)陸軍武官と(三品)海軍武官と拝謁した、と記した国王の秘書の日記(ベルナドッテ・ライブラリー公文書館所蔵、バート・エドストーム氏提供)
国王グスタフ5世が1942年6月12日午前12時30分に日本の(小野寺)陸軍武官と(三品)海軍武官と拝謁した、と記した国王の秘書の日記(ベルナドッテ・ライブラリー公文書館所蔵、バート・エドストーム氏提供)

国王のグスタフ5世(国際テニス殿堂のサイトから)
国王のグスタフ5世(国際テニス殿堂のサイトから)

王室が和平仲介に意欲があったことを朝日新聞の衣奈多喜男ストックホルム特派員も戦後、証言している。「グスタフ5世陛下は、日本が戦争に突入してミリタリストが非常に強くなり、その厚い壁に囲まれて、日本の天皇陛下がたいへんお困りになっていられるのではないか、と言っておられた。スウェーデン王室は、親戚でもあるイギリス王室を通してアメリカとの交渉の道をつけてさしあげたいというのが、いつわらぬお気持ちであったと私は推測しています」『証言 私の昭和史』(東京12チャンネル報道部編)

この構想を実現するべくベルリンから45年3月、扇一登海軍大佐を海軍武官として迎えることを決め、扇は阿部勝雄海軍中将以下10数名とスウェーデンに移ることになった。ところが、入国できなかった。岡本季正(すえまさ)公使がスウェーデン外務省にビザ発給を依頼しなかったためだ。さらに岡本公使は小野寺らが和平交渉をたくらみ、阿部中将らが公使館乗っ取りの策謀を企てていると邪推した電報を外務省に打って、小野寺の構想を「妨害」した。

同じ45年3月末、ドイツのリッペントロップ外相がストックホルムでの独ソ和平交渉を図ろうと、密使に小野寺を指名してベルリンに招聘した。最終的にヒトラーが反対して和平は実現しなかったが、ドイツが終戦工作を行うにふさわしい日本人として岡本公使でなく、陸軍武官の小野寺を選択したことは特記しておきたい。

プリンス・カールの提案は、自分の構想と異なっていた。若いプリンスに仲介工作ができるか不安もあった。しかしドイツが敗れ、ソ連参戦の密約を知って、矢も盾もたまらなかった。一刻も早く戦争を終結させなければ、ソ連に占領される。和平交渉のルートはいくつあってもよい。提案を受けよう。小野寺は意を決した。

終戦工作打診について小野寺とプリンス・カール・ベルナドッテらが協議した日本陸軍武官室があったストックホルム市リネーガータン38のアパート。5階左の出窓のある部屋が武官室(2016年12月、筆者撮影)
終戦工作打診について小野寺とプリンス・カール・ベルナドッテらが協議した日本陸軍武官室があったストックホルム市リネーガータン38のアパート。5階左の出窓のある部屋が武官室(2016年12月、筆者撮影)

「もし国王が自発的に英国王室への和平斡旋に動いてくださるなら、必ず東京に正確に伝える。ただ一駐在武官に、和平条件は出せない。国王のお返事は小野寺に伝えてもらいたい」。小野寺がこう語ると、プリンス・カールは「国王に日本の天皇に、和平を講ずる親書を出すことを進言します」と答えた。そして、プリンスは明後日(5月11日)に国王と会うと約束し、次の水曜日(16日)に結果を報告すると言い残して去った。

小野寺は、「日頃の生活態度が信頼できない」岡本公使には工作内容を打ち明けなかった。東京の参謀本部へは、ベルリンから到着する阿部中将がストックホルムに来てから意見具申して、判断を仰ぐつもりだった。

オーソリティー(国王)に移る

約束の5月16日、小野寺が留守中に、エリクソンが訪れ、百合子夫人に伝えた。
「例の件はオーソリティーの手に移ったから、必ず成功しますよ」。オーソリティーとは国王と推測できた。小野寺は返事を心待ちにしたが、プリンス・カールから連絡はなかった。

約1カ月経った6月24日、大本営の梅津参謀総長から電報が届いた。
「最近ストックホルムにおいて、中央の方針に反し、和平工作をするものあるやの情報なり。貴官において真相を調査の上一報ありたし」
『和平工作などするな』との叱責だった。

スウェーデン政府内で思わぬトラブルに巻き込まれたからだ。4月下旬、8年間の駐日勤務を終えて重光葵(まもる)外相から日本と英米との和平仲介の依頼を受けて帰国したバッゲ公使の工作と、正面衝突したのだった。

バナー写真:ストックホルムの旧市街ガムラスタンにあるスウェーデン王宮(PIXTA)

皇室・王室 ドイツ スウェーデン ソ連 ノルマンディー上陸作戦