短くて長い陸上400ｍ、バルセロナ大会の高野進－山本浩の五輪の風景（2）

久々のチャンス

歴史的に日本の陸上競技は戦前、幾度か跳躍で世界を驚かせる成績を残したが、この時代までマラソンを中心とした長距離を除けば振るわない。とりわけトラックの短距離種目では、1932年のロサンゼルス大会に出場した男子100ｍの吉岡隆徳以来、決勝レースに進むことさえできていなかった。

陸上競技のトラック種目では、この400ｍまでが最初から最後まで自分のレーンを走る「セパレートコース」と決められている。第1コーナーの辺りからのスタートでは、外側の選手ほど前の方にブロックが置いてあり、一番内側はずっと後ろの方からスタートするように見える。内側のレーンと外側とではカーブの半径が違うため、走る距離をそれぞれ正確に揃えるとこうなってしまうのだ。

おまけにペース配分に戦術が持ち込まれるから、レースを見慣れていない者にとっては甚だ勝敗の予想がつきにくい。バックスタンド側で2人の選手が並んだように見えても、そのままフィニッシュの順位につながるとは限らない。コンディションやライバルの顔ぶれで流れは千変万化する。

親子でゴールに駆け込んだ英選手

準決勝第1組に登場した高野は、白いユニフォームで第1レーンのブロックに身体を沈めた。一次予選を突破すると8月2日の二次予選では記録を伸ばした上でイギリスのデレク・レドモンドに次いで2組の2位に入っていた。ピストルが鳴って高野はスムーズにスタートを切った。序盤を抑え気味で行くと決めていたのだろう、第2コーナーを回って直走路に入っても外側の選手との差がなかなか縮まらない。「もっと行かないのか」「抑えてついて行き後半勝負だ」。私の心の中では二つの声がぶつかり合う。

とそのとき、高野のずっと前を走っていた黒人選手が突然スピードを落とす。太もも裏を押さえて止まってしまったようだった。アクシデント。高野は第4コーナーを回る頃にはスピードの落ちたライバル達を尻目に、堂々の4位で決勝進出。やれやれと安堵しながらも、すぐに振り返ってけがの選手を見る。それは予選で高野を押さえたイギリスのレドモンドだった。しばらくしゃがみ込んでいたがやがて、痛めた右足を引きずりながらゴールに向かってくるではないか。気づいた観客が立ち上がって拍手をし始める。レドモンドはホップを続ける。

父親とゴールするレドモンド（アフロ）

そこへ突然スタンドからがっしりした男が飛び降りたかと思うと、レドモンドに走り寄ってきた。役員が制止にかかる。「このままじゃ、助力になって失格だ」。当のレドモンドは寄り添ってきた男の腕を借りながら必死に前進を続けている。観客は拍手をしたまま総立ちになった。とうとうレドモンドは泣きじゃくりながらゴールを切った。後から聞けば、駆け寄ったのは父親だった。「この競技は俺が息子と一緒に始めたんだ。終わらせるときも一緒にさせてくれ」。役員を振り切る際に父親はこうまくし立てたと言われる。

「国家」が後退、「個」の時代に

決勝は、中一日を挟んだ8月5日。高野は一番外側のレーンにいた。スタートを切ってしばらくすると、内側の選手が高野に追いつき追い越していく。前半を抑えているのか。しかし第3コーナーにかかっても、差を縮めるどころか引き離されているように見える。最後の直線に入ったころには、高野に劣勢を挽回する爆発力は残っていないようだった。フィニッシュは結局8位。見ている自分の肩の力が急激に抜けていくのがわかった。

高野は終わった後でレースを振り返っている。「あまりのハイペースで自分のペースとフォームが一瞬にして崩壊してしまった」。並ばれた瞬間に、既に高野の心には亀裂が入ってしまっていたのか。それにしてもせめて内側のレーンを走れていたなら。大外を走ることになった高野には、全体を見ながらペースを調整するチャンスは残されていなかった。「結局自分のレースをさせてもらえないのが世界」。最後の五輪と覚悟して臨んだ高野のことばは、ずしりと重い。

89年のベルリンの壁崩壊という歴史的転換点後、初めての五輪となったバルセロナ大会。冷戦下では国と国の戦いが前面に出ていたのが、壁の崩壊後は「国家」がやや影を潜める。バルセロナでは替わって、選手の「個」の力が台頭してきたように見えた。高野は自分の努力と東海大の援助でなんとかここまで来たし、レドモンドもゴールで待ち構えていたのは父親であった。

陸上競技400ｍは決して長くない。しかし五輪の400ｍには、45秒では語り尽くせないストーリーが詰まっている。

バナー写真：バルセロナ五輪の陸上400メートル決勝で力走する高野進（時事通信）