東京五輪へ! アスリートの肖像

荒木絵里香:最後の目標は母国でのメダル。母として4度目の五輪に挑む、バレーボール日本代表主将―東京五輪アスリートの肖像(7)

スポーツ 東京2020

「自分で決めたことだから、東京五輪が終わるまでは絶対頑張る」――メンバー落選に始まった荒木絵里香のバレーボール日本代表のキャリアは、海外移籍、出産、大病を経て、4度目の挑戦として東京五輪に結実しようとしている。

挫折に始まった日本代表のキャリア

この夏、4度目の五輪に挑む女性アスリートがいる。バレーボール女子日本代表の主将にして、36歳で大会を迎える荒木絵里香(トヨタ車体)である。

荒木の五輪の記憶は、苦い挫折から始まっている。2004年、19歳だったミドルブロッカーの荒木は、初めて日本代表候補に選出されたが、その年のアテネ五輪のメンバーに残ることはできなかった。当時は同級生の栗原恵、大山加奈が「メグカナ」と注目され代表の中心となっており、東京・成徳学園高(現・下北沢成徳高)の後輩・木村沙織もメンバー入りしただけに、悔しさもひとしおだった。

ただ、アテネ五輪は挫折であると同時に、その後の荒木のエネルギー源になったと、今では振り返る。

「あの時は本当に悔しかったんですけど、それがエネルギーになったというか、ここまで長く続けられている原動力になっていると思う。だから今は本当に、あそこでオリンピックに行けなくてよかったなって、思えるようになっているんです」

アテネの落選で技術不足を痛感した荒木は、「うまくなりたい、強くなりたい」という一心で練習を重ねた。

186cmの長身を生かした荒木(左)の精度の高いブロックは、日本代表に不可欠だ(2021年5月1日、国際親善試合中国戦。東京・有明アリーナ)時事
186cmの長身を生かした荒木(左)の精度の高いブロックは、日本代表にとって不可欠な武器だ(2021年5月1日、国際親善試合中国戦。東京・有明アリーナ)時事

日本のミドルブロッカーはスピードを武器にする選手が多かったが、荒木には他の選手にはないパワーがあった。速攻だけでなく、時にはウイングスパイカーのように高いトスを打って得点につなげるなど、オンリーワンの強みを前に出してポジションをつかみ、日本代表に欠かせない存在になっていった。2008年の北京五輪を迎える前、荒木はこう語っていた。

「このポジションを絶対に離したくない。何年もかかってやっと立てるようになった場所だから、その大切さは、すぐに手に入れた人よりも絶対に分かっていると思います」

荒木は初めて出場した北京五輪で、高さや経験に勝る海外勢を相手に、ベストブロッカーに輝く活躍を見せた。

飽くなき向上心でつかんだ日本代表主力の座

その直後の2008-09シーズンには、所属していた東レアローズから、イタリア・セリエAの強豪ベルガモに期限付き移籍し、視野を広げた。

荒木の向上心に限界はない。得意とするセンターからのクイックだけでなく、ライト側に走るブロード(移動)攻撃も磨き、パワーに加えて技術も進化。苦手だった守備の強化にも積極的に取り組んだ。主将として臨んだ12年ロンドン五輪では、日本女子バレーにとって28年ぶりのメダルとなる銅メダルを獲得。16年リオデジャネイロ五輪にも出場した。ここ数年はサーブ力の向上に力を入れ、36歳になった今も、日本トップのミドルブロッカーであり続けている。

2012年のロンドン五輪で、荒木(左端)は日本女子バレーにとって28年ぶりとなる銅メダルに主力として貢献 AFP=時事
2012年のロンドン五輪で、荒木(左端)は日本女子バレーにとって28年ぶりとなる銅メダルに主力として貢献 AFP=時事

荒木はロンドン五輪翌年の2013年10月、妊娠を機に東レアローズを退団し、一時コートを離れたが、出産から約半年後、埼玉上尾メディックスで現役に復帰。14-15シーズンのVリーグでは、ブロック決定本数1位、アタック決定率3位と、ブランクを感じさせない結果を残した。

日本では、出産後もプレーを続けるトップアスリートはまだ少ない。しかし荒木は、イタリアでプレーした時に、海外の選手が出産後も当たり前にプレーを続けている姿を見ていたことや、母や夫が後押ししてくれたこともあり、産後も現役を続けることを決めていた。そして計画した通りに、短期間での復帰を果たし、トップレベルのパフォーマンスを取り戻してみせた。

しかしそんな荒木が、思わぬ引退の危機に直面した。

突然の病魔で知ったコートに立つ喜び

復帰直後の14-15シーズンで結果を残した荒木を、2015年、日本代表の眞鍋政義監督(当時)は代表に呼び戻した。ところが、代表に参加する前に行ったメディカルチェックで不整脈が見つかり、入院。代表復帰どころではなくなってしまった。

医師には「突然死する可能性もある」と言われ、あぜんとした。「もうバレーはいいでしょう」と諭された。

「えー、こうやって終わるのか……と。でも逆に、これが理由でもうバレーボールで追い込まれなくて済むんだ、と思った自分もいました(苦笑)。なんか、いろんなことを考えさせられた期間でしたね」

だが、さまざまな検査をするうちに、手術を行えば治ることがわかった。

「治るなら、(バレーが)できるし、できるならやりたい」と、再びバレーへの情熱に火がついた。

心臓のカテーテル手術を受け、療養したのち、15-16シーズンのVリーグには再び開幕から出場した。

「辞めなきゃいけない状況というのは、いつくるかわからない」と痛感した荒木は、コートに立てる1日1日を噛みしめた。また、それまで以上に体のケアや食事など、体調管理に細心の注意を払うようになった。

その年の夏場は療養していたためトレーニングができなかったにも関わらず、15-16シーズンも荒木は再びブロック賞を獲得。まさに鉄人である。

2016年には日本代表にも復帰し、リオデジャネイロ五輪で3大会連続出場を果たした。

日本代表合宿で、若手にアドバイスする荒木(2020年2月14日、味の素ナショナルトレーニングセンター)時事
日本代表合宿で、若手にアドバイスする荒木(2020年2月14日、味の素ナショナルトレーニングセンター)時事

代表選手であるがゆえの葛藤

ただ、代表に復帰すると、新たな葛藤が生まれた。合宿や試合のため長期間、愛娘と会えなくなるからだ。

出産後は、荒木の母が全面的にサポートをしてくれていたが、まだ幼い長女は、ママがそばにいないことが寂しくて耐えられない。「行かないで」と何度泣かれたかわからない。荒木を合宿に行かせまいと、玄関にヒモを張り、手作りのバリケードをこしらえたこともあった。

荒木は東京五輪でのメダル獲得を最後の目標に掲げ、そこにすべてを懸けてきたが、娘にとっては関係ない。そばにいられないのはバレーボールをしているからだと理解してからは、「バレーボール辞めて!」、「そばにいて欲しいのに、それでもやる意味あんの?」と言うようになった。

その度に、荒木は胸が締め付けられた。それでも、東京五輪までは突き進むと決めていた。

「本当に葛藤はあるんですけど、自分で決めたことだから。自分でやると決めたなら、最後までやらないといけないと思っているから。東京五輪が終わるまでは絶対頑張ると言ってきたし、ママは大好きなことをお仕事としてやっているから、ということは伝えています。『ママは、子供の頃から将来の夢がバレーボール選手だったんだよ。その夢がかなって今やっているんだよ』と。まあ、娘からしたら、そんなことよりそばにいてくれって感じなんですけど」

いつか娘が大きくなって、挑戦したい夢ができた時に、今の自分の姿や言葉を思い出してもらえたら……。そんな思いもある。

「まあ、私の都合のいい考え方ですけどね」と荒木は苦笑していた。

そんな家族に、今年、小さな変化があった。

この春、小学2年生になった長女が、5月の母の日に、お小遣いでプレゼントを用意してくれた。二つを合わせると一つになる犬のキーホルダーを片方、「離れているから、一緒に持っていようね」と渡してくれた。そして手紙にはこんな言葉が。

「頑張ってるママが好きだよ。一緒に頑張ろうね」

思いは伝わり始めている。

大好きなものに全身全霊を傾け、笑顔で打ち込む姿を、荒木はこの夏、一番大切な人の瞳に焼き付ける。

バナー写真:日本代表チーム最年長の36歳にして、いまだ主力として活躍する荒木(2021年5月1日・国際親善試合中国戦、東京・有明アリーナ)写真:YUTAKA/アフロスポーツ

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