戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件

占領下で始まった政界と特捜検察の闘い:戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件(1)

歴史 社会 政治・外交

国会で二つの重要な審議が進んでいる。一つは新型コロナウイルス対策。もう一つが、内閣の判断で検察官の定年を延長できる「検察庁法改正案」で、成立は見送りとなった。検察の存在が注目されるのは、政界捜査で時の政権に切り込むこともあるためである。昭和20(1945)年の終戦からの10年間に二つの内閣が倒れた「昭電疑獄」と「造船疑獄」を連載で検証し、検察とは何かを考えていきたい。

ばらまかれた「復興マネー」

敗戦で焦土と化した国内を回り、国民を慰め、励まされた昭和天皇の巡幸は、終戦の翌年の1946年2月に始まった。巡幸の最初に選ばれたのは、食糧生産に不可欠な化学肥料を作る「昭和電工」の川崎工場だ。当時は餓死者が続出する深刻な食糧不足で、日本の復興のため、食糧増産が最大の課題だった。

それから2年後の48年、この昭和電工の本社(当時は東京・赤坂)が舞台となる政界汚職事件が発覚する。政府は前年に、経済再建のため鉄鋼や石炭、肥料などの基幹産業の復興を目指して「復興金融金庫」を設け、民間企業に融資していた。この融資を獲得するため、基幹産業の各社は政界、官界に近寄った。昭電は戦前の財閥、森コンツェルンの中核企業で、公職追放された森一族の社長の後に、47年、別の化学工業会社を経営していた40歳代半ばの若い日野原節三社長が就任した。

巨額の現金をばらまいた昭電の派手な工作がうわさとなり、48年4月、衆議院の不当財産取引調査特別委員会では、「復興金融金庫から17億円(現在の貨幣価値だと百数十倍)の融資を受けた昭電が、数億円の政治献金をした」などと追及された。最初は、秦野章・捜査二課長(後に警視総監、法相)が率いる警視庁が捜査。日野原社長が同6月、贈賄容疑で逮捕された。しかし、同社長は2カ月ほど黙秘する。

難航した捜査を進展させたのは、帳簿を読むことが得意で捜査に加わった東京地検の河井信太郎検事だった。当時、検察庁にはまだ特捜部は存在してない。35歳と若かった河井検事は、復興金融金庫から計26億4000万円の融資を受けた昭電の帳簿に、1億5000万円(現在の約200億円)の使途不明金があることをつかみ、日野原社長にその使い道を迫っていった。賄賂の贈り先を自白させたが、その内容は河井検事が後に「あまり事件が大きくて調べる方が驚いた」と述べるほどで、政治家100人超を含む約2000人もの事情聴取が行われた。

福井盛太検事総長は、「犯罪容疑の確信があれば、首相だろうと大臣であろうと、検察独自の立場から正邪を公にして、処罰するものは処罰するよう努力する」と事件解明の意気込みを語った。

芦田内閣は倒れ、前首相を逮捕

当時はまだ連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で、政権は社会党委員長を首班とする片山哲内閣の後を継ぎ、民主、社会、国民協同の3党からなる芦田内閣だった。芦田均(ひとし)首相は吉田茂元首相の6年下の元外交官。同じ外務省出身だが、先輩の吉田に対抗し、吉田に不満を持つ議員らと民主党(自民党の前身となる日本民主党=鳩山一郎総裁=とは別)を創設して総裁となった。片山内閣では副総理格の外相として入閣。次の首相指名(48年2月)では、衆院で吉田にせり勝ち、片山の後を継いだ。

しかし、芦田内閣はスタートして間もなく、事件に巻き込まれた。昭電からの金は閣僚にも流れ、経済復興を担当する栗栖赳夫・経済安定本部総務長官に続いて、西尾末広・副総理(社会党書記長、後に民社党委員長)が同10月に逮捕されると、翌日、内閣は総辞職を決めた。

内閣が倒れても捜査が続く。芦田前首相本人にも、3件、計200万円の収賄容疑があったのだ。12月、前首相の逮捕許諾請求が衆院本会議で可決され、東京地検は翌日、芦田を逮捕した。政権はすでに、芦田と反目した吉田茂(第2次内閣)に移っていたのである。

この事件では、官僚も福田赳夫・大蔵省主計局長(後に首相)、元農林次官らが逮捕され、政官財界の計38人が起訴された。芦田の起訴事実は首相になる前の外相時代のことだが、捜査の中心となり、芦田を取り調べた河井検事はこう書き残している。

「芦田さんを起訴するかどうか、(検察内で)非常に問題になった」「私は戦後、特に米軍の占領下にあって総理大臣を逮捕、拘留して調べて起訴することが果たして適当か否かと非常に悩み、上司の意見、あるいは先輩の意見等を打診した。これだけの自白があり、事実と証拠が出てきた以上はやらなければならないだろうということが、大方の意見であったので踏み切ることにした」

検察が終戦後間もない大混乱の中で、内閣が倒れることが確実な、首相の逮捕、起訴をかなり躊躇(ちゅうちょ)していたことがうかがえる。

芦田内閣組閣へ向け、握手を交わす(右から)芦田均・民主党総裁、片山哲・社会党委員長、三木武夫・国民協同党委員長=1948(昭和23)年3月9日(共同)
芦田内閣組閣へ向け、握手を交わす(右から)芦田均・民主党総裁、片山哲・社会党委員長、三木武夫・国民協同党委員長=1948(昭和23)年3月9日(共同)

GHQの色濃い影

この疑獄にはGHQの影が色濃く残っている。昭電がGHQの幹部らにも相当な金品を渡していたからだ。当時、国内の実権を握っていたのはGHQだから、当然のことではあった。

捜査を先行していた警視庁が、政官界への捜査が始まる直前に、GHQの指示で捜査から外され、東京地検単独の捜査となった。捜査情報が漏れる警視庁の捜査をGHQが嫌ったからという説もあるが、事件の背後に、GHQ内部の主導権争いがあったためとも言われる。

GHQで占領政策の中心にいたのは、リベラルな姿勢で、保守政権の復活を嫌った「民政局」(GS)。徹底した日本の民主化や非軍事化を進めた。左派の片山内閣の後継として、中道と言われた芦田内閣を民政局は支持した。

しかし、間もなくソ連によるベルリン封鎖(48年6月)など、東西冷戦が始まると、米本国が対日政策を転換し、日本の保守派を復活させ、反共の国にしようともくろむ。こうして、GHQで保守的傾向を持つ、情報・治安担当の「参謀第2部」(G2)の勢力が増してきた。

昭電事件に絡んだ収賄疑惑は、民政局の中心人物だったケーディス次長に及んでいた。高額な金品の授受、派手な接待、女性問題……。そこで、ケーディス次長は自分の周辺を調べていた警視庁を、事件捜査から排除するよう命じたという。ケーディス次長はその後、芦田逮捕の翌日に帰国した。この事件で、GHQへの疑惑は明るみに出る前に、もみ消されてしまう。

GHQ内で民政局の勢力は衰退していき、保守・吉田政権を支持する参謀第2部に主導権が移っていく。こうしたことから、事件は参謀第2部が民政局を排除し、保守内閣を成立させる陰謀だったとも言われた。日本ではその後、1993年の細川内閣誕生まで、45年間、保守政権が続くことになる。

東京地検特捜部の誕生

一方で、検察にとってこの昭電疑獄は、警察とは別の単独捜査が認められる機会になった。刑事訴訟法191条1項の「検察官は、必要と認めるときは、自ら犯罪を捜査することができる」と、検察庁法6条の「検察官は、いかなる犯罪についても捜査をすることができる」の規定に基づき、独自捜査が可能となったのである。

この事件がきっかけとなり、翌49年5月、東京地検特捜部が誕生した。河井検事ら捜査を担当した検事と、戦後の混乱で隠されていた旧陸海軍や政府の物資に関する事件を担当する隠退蔵事件捜査部(2年前に設置)、さらに全国から選ばれた検事が合体して、文字通りの「特別捜査部」が設置された。

しかし、この昭電疑獄は裁判に移ると、全く違った展開を見せることとなる。

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:昭和電工からの収賄容疑について国会で逮捕許諾された芦田均前首相は、任意出頭の形で東京地検に入った=1948(昭和23)年12月7日(共同)

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