戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件

無罪判決続出だったが、裁判所は検察の起訴を評価:戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件(2)

歴史 社会 政治・外交

時の内閣を崩壊させた「昭電疑獄」。数カ月前まで首相だった芦田均(ひとし)氏をはじめ、政官財界の38人を起訴したが、最終的に前首相を含め過半数の23人が無罪に。大金をばらまいた昭和電工社長も有罪だが、執行猶予となった。検察は被告側から「政治的謀略だ」と攻撃された。しかし、前首相無罪の一審判決は「国民的疑惑が抱かれる社会情勢のもとで、裁判所の判断を求めたのは賞賛さるべきもの」と検察の起訴を評価した。

金品の授受は認められたが…

昭電疑獄は裁判に入ると一転した。被告たちが金品を受け取っていたことは認められたが、無罪判決が続出したのである。贈収賄罪(汚職)が成立するには、(1)議員を含む公務員の職務に関して(職務権限)、(2)不正な金品だと認識しつつ(賄賂性の認識)、(3)贈り受け取る(金銭の授受)――の3点が全て立証されなければならない。

昭電疑獄で逮捕・起訴されたのを機に大蔵省を退官した福田赳夫は、1952年政界に転じて衆院議員に初当選。自民党幹事長、農相、蔵相、外相を歴任した後、1976年首相に就任した=写真は76年12月30日撮影(共同)
昭電疑獄で逮捕・起訴されたのを機に大蔵省を退官した福田赳夫氏は、1952年政界に転じて衆院議員に初当選。自民党幹事長、農相、蔵相、外相を歴任した後、76年首相に就任した=写真は76年12月30日撮影(共同)

3件、計200万円(現在の貨幣価値だと百数十倍)の収賄罪を問われた芦田前首相は、金をもらって蔵相らに働きかけをしたことは認定された。しかし、その時期は首相になる前年の1947年で、外相だったので職務権限がないとして無罪になった。

当時は、他の公務員(この場合は蔵相)に職務上の不正行為をするよう、間に入って斡旋(あっせん)する収賄行為には罰則規定がなかった。芦田被告の無罪が確定した58年に刑法が改正されて、斡旋収賄罪が設けられた。その後、国会議員が同罪で逮捕される法的根拠が整った。

また、日野原節三・昭電社長から暮れのあいさつだとして現金10万円をもらった大蔵省の福田赳夫・銀行局長(逮捕時は主計局長、後に首相)も、賄賂だという認識がなかったとして、無罪になった。

大金をばらまいた昭電社長に執行猶予の温情判決

内閣を倒した疑獄事件は、相次ぐ無罪判決で竜頭蛇尾になっていく。事件の中心にいた日野原被告は、一審が懲役2年の実刑と追徴金5万円、二審は減刑され懲役1年の実刑と追徴金5万円。事件から14年が過ぎた62年の上告審で、さらに減刑となり、懲役1年、執行猶予5年が確定した。結局、これだけの事件で実刑となる者はいなかった。

最高裁の日野原減刑の理由はこうだ。「芦田内閣の総辞職を見るに至った大事件だが、その後の推移を見ると、日野原関係の事件では、収賄罪で起訴された西尾(末広元被告。元副総理、後に民社党委員長)、福田(赳夫元被告)がいずれも無罪とされ、一、二審で有罪とされた被告らもことごとく執行猶予となった。これらの事情を考慮すると、被告人日野原に対し実刑を科さなければ刑政の目的を達することが出来ないと断じ難く、刑の執行を猶予するのが相当である」。“温情判決”が下ったのだ。

前首相に犯罪の恐れがある行為が

一方、検察に対しては被告や弁護人から、法廷の内外で厳しい批判が飛び出した。「芦田内閣倒壊のための捜査だ」「十分な証拠もなく、有罪の確信がないのに起訴した」「政治的謀略だ」と。

結果から見ると、検察の敗北となるが、芦田被告を無罪とした1審(東京地裁)判決の中で、裁判所は注目すべき指摘をしている。少し長くなるが引用する。

「芦田被告に無罪の言い渡しは、慎重審理を尽くしたうえ、初めて真相を把握した結果である。(贈賄被告から)100万円を受領したのは、いかに芦田被告に有利に解しても純粋な政治献金とは認めがたく、政府支払い促進に関する尽力に対する謝礼とみるべきである」

「だが(芦田被告=事件当時は外相)職務との関連性について当事者の認識に関する証明が不十分という理由で、刑責を免れたものである。もし戦争中のように斡旋収賄行為が処罰されていたならば、犯罪と認定される恐れがある行為である」

昭電疑獄事件公判で無罪となり、報道陣に喜びを語る芦田均(手前中央)=1952年10月22日、東京地裁(共同)
昭電疑獄事件公判で無罪となり、報道陣に喜びを語る芦田均前首相(手前中央)=1952年10月22日、東京地裁(共同)

判決はさらに踏み込んでいる。「(首相在職中の)昭和23年(1948年)夏ごろから、芦田被告人の身辺は疑雲に包まれ、何らかの不正行為があるのではとの国民的疑惑を受けていた。当時の社会情勢のもとで、もし検察当局が前記のような犯罪の嫌疑十分なる事実があるにもかかわらず、これを不問に付したならば、世の疑惑はいっそう深まり、検察当局に対する不信を招き、世道人心(世の中の道徳と、人の心)に及ぼす悪影響は測りがたいものであったと思われる」

「検事が敢然(思い切って)公訴を提起して、裁判所の判断を求めたのは、公明なる態度として、むしろ賞賛さるべきものである。だから、本件起訴を政治的陰謀とする意見は、当たらざること遠いものがある(当たっていない)といわなければならない」

多くの無罪被告が政界などに復帰

検察は、事件について被告人を起訴して刑事責任を追及(刑事訴追)するか決める権限を独占する、極めて特殊な機関だ。芦田判決は、政権への国民の疑惑が深まる中、検察が独断で不起訴としないで、あえて裁判所の判断を求め、公判で大事件の真相を明らかにした姿勢を評価した。検察は、多くの国民が不信を持つ事件に関しては、犯罪の疑いがあるのなら、有罪か無罪かは別として、起訴する積極性が求められているとも解釈できる。

戦後最初の疑獄事件は、多くの被告が政界などに復帰。検察も強く非難を浴びることなく終わった。東京地検特捜部が陣容を整え、政権と対決するのは、昭電疑獄の捜査から6年後の「造船疑獄」である。

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:昭電疑獄の第1回公判が開かれ、傍聴希望者で満員状態の法廷内=1949年5月7日、東京地裁(共同)

事件・犯罪 司法 刑事司法 東京地検特捜部