戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件

吉田茂・長期政権と検察の対決始まる:戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件(3)

歴史 社会 政治・外交

芦田均(ひとし)内閣が「昭電疑獄」で倒れてから6年後、海運・造船業界と政官界の「造船疑獄」が起きた。ワンマン宰相と言われた吉田茂の長期政権を支える自由党(自民党の前身)幹事長の逮捕を巡り、法相が逮捕延期を検事総長に命じる、前代未聞の「指揮権」が発動される。検察の汚職捜査は中断され、法相は辞任。これが吉田退陣の一因となる。吉田が後に「私の政治生活を通じて最も遺憾に堪えぬ出来事の一つである」と回想したこの事件を検証する。

吉田学校の佐藤、池田が長期政権の両輪に

終戦の翌年(1946年)に第1次内閣を率いた自由党の吉田は、総選挙で社会党に第1党を奪われ、1年で首相の座を降りた。その後、社会党首班の片山哲内閣の後を継いだ民主党首班の芦田内閣が、昭電疑獄で48年10月に瓦解(がかい)すると、吉田が返り咲き、第2次内閣を組織。官房長官には運輸次官を辞めたばかりで、まだ国会議員になっていない47歳の佐藤栄作(後に首相)が抜てきされた。

佐藤は吉田が後進を育てた「吉田学校」の門下生で、翌年の選挙で衆院議員に初当選。50年には政権党・自由党の幹事長となり、その後、閣僚を経て、53年から再び幹事長として第4次、5次吉田政権を支えていた。

「吉田学校」のもう1人の“優等生”、池田勇人(後に首相)は大蔵次官で退官し、佐藤と同じ49年の衆院選に出馬。当選していきなり蔵相となった。51年、占領の終結と主権回復が認められた「サンフランシスコ講和条約」の調印式に吉田に同行。その後、国会での問題発言で不信任案が可決され、閣僚を辞任したが、53年に党三役の政調会長に就任。佐藤と共に自由党の長期政権を支える両輪となっていた。

一方、芦田前首相が昭電疑獄で逮捕されて空白となった民主党の総裁は、犬養健(いぬかい・たける)が継いだ。白樺(しらかば)派の作家で、父は戦前の海軍青年将校らのクーデター「五・一五事件」で射殺された犬養毅首相だ。犬養健は保守連携を進め、50年に吉田の自由党に入党。このことも認められて、52年の第4次吉田内閣で法務大臣として初入閣し、第5次内閣でも留任した。

非国会議員ながら第2次吉田内閣の官房長官に就任した佐藤栄作(左、1948年10月15日撮影)、政界入り直後に蔵相に就任して衆院本会議で財政演説をする池田勇人(右、49年4月4日撮影)(共同)
非国会議員ながら第2次吉田内閣の官房長官に就任した佐藤栄作(左、1948年10月15日撮影)、政界入り直後に蔵相に就任して衆院本会議で財政演説をする池田勇人(右、49年4月4日撮影)(共同)

「S二〇〇」「I三〇〇」の暗号メモ

造船疑獄は1953年8月、有名な高利貸が「手形などが盗まれた」と東京地検特捜部に告訴したことから始まる。被害届の中に、当時、一流の海運会社だった「山下汽船」(その後、合併を繰り返して商船三井に)が振り出した1000万円の手形が3枚もあることに、河井信太郎検事は疑問を抱いた。昭電疑獄の捜査で活躍したことで知られ、今回の事件で主任検事となる。

「こういう会社なら、資金がなければメインバンクが資金手当てをするはずだ。その銀行が面倒を見ないような手形が振り出されているということは、重役が悪いことをしているか、会社が倒産寸前か、または表に出せない、なにか必要な金ではないか」と河井検事はにらんだ。

まだ、大きな事件に発展するとの確証はなかったが、翌54年の正月明けから山下汽船などの家宅捜査を続ける。すると、社長室の金庫などから、横田愛三郎社長がつけていた暗号メモや、日記帳が見つかった。

「S二〇〇」「I三〇〇」などと書かれた暗号メモを、特捜部は政治家のイニシャルと政治献金の額だと見破った。さらに数年分の社長の日記が、捜査陣を驚かせる。

「何日に誰大臣に会って、どういうことを頼んだ」「わが社は今度、二隻割り当てがあるのか一隻か、心配だ。外からの割り込みも大変だから大いに馬力をかけてやらなければ、また〇(金と見られる)がいるだろう」。贈収賄事件(汚職)を想像させる生々しい内容が、詳細に書かれていたのだ。

徹底捜査を行うと、特捜部は決断する。船会社の幹部を次々と呼んで調べると、多くの会社が山下汽船と同じように、国会議員や大臣に運動していたことが分かった。

船会社の利子負担半減の法が成立

今回の事件も、構造は「復興マネー」がばらまかれた昭電疑獄と酷似していた。2年前(1952年)に日本は独立を回復したとはいえ、敗戦の傷跡は残り、戦争で壊滅した基幹産業の再建が急がれていた。多くの船舶を失った海運業界もその一つで、政府は「海運ニッポン」の再建を目指し、計画造船を進めていた。

終戦後、政府は復興金融公庫を設けて、基幹産業の民間会社に融資していたが、昭電疑獄で贈収賄や政治献金に融資金が不正使用されたため、復興金融公庫は縮小された。代わってできたのが「見返り資金特別会計」。これは戦後の食糧不足で、米国から無償でもらった小麦粉、缶詰など大量の援助物資を民間会社に有償で払い下げ、その代金を積み立てたもので、基幹産業の再建に使われた。

この特別会計で船舶関係では、49年に始まった外航用大型船建造の第5次計画造船から、低利な融資が行われた。3年間据え置き、13年払い、金利6分5厘という好条件だった。53年の第9次計画造船まで290隻の船が建造されたが、融資総額は1890億円(現在の貨幣価値だと20倍以上の約4兆円)に上った。海運業者は建造船割り当ての獲得合戦を展開し、吉田内閣の閣僚や国会議員の力を借りる会社も出てきたのは、特捜部が入手したあの「社長日記」の通りだったのである。

朝鮮戦争の特需で海運業界は息を吹き返したが、3年後の53年に休戦となると不況に陥った。すると、船会社の集まりの「船主協会」が、融資の利子を半分にまけてもらおうと画策した。船会社が負担すべき金利の半分を国民の税金で払ってもらおうという手前勝手な計画だ。ところが、船主協会が望んだ「外航船舶建造融資利子補給法」が同年8月、わずか2日間の国会審議で成立してしまった。

首相の吉田茂は後に、「造船利子補給制度そのものは、戦争で壊滅したわが国商船隊の再建を促進し、国際収支の改善に貢献する適切な措置。当時の沈滞せる海運市況の実情からしても、また造船不振による人員整理の脅威のあった事実を鑑みても、緊急やむを得ない国策的立法であったと信ずる」と回想録で述べている。

船主協会から政権党に2000万円

だが、この法律の成立こそ、造船疑獄の核心になっていく。政権党の自由党に船主協会から2000万円が渡っていたのだ。同法によって船会社が免れる利子総額は年約33億円に上り、業界にとって2000万円は十分に元が取れる額ではある。しかしながら、その2000万円は現在の4億円超と巨額であり、それが法案成立の報酬であれば政界汚職となるのは間違いない。

特捜部は最初の家宅捜査の翌週に、あの社長日記の主で、暗号メモの「S」と「I」が誰であるかを知る山下汽船の横田社長を、会社に損害を与えた特別背任容疑で逮捕。翌日には船主協会を捜索し、事件は不気味に拡大の様相を見せてくる。

(この連載での参考文献は、最終回にまとめて掲載します)

バナー写真:記念撮影する第4次吉田内閣閣僚。前列中央は吉田茂首相、第2列の左から1人目は犬養健法相、第4列の左から1人目は池田勇人通産相、2人目は佐藤栄作建設相=1952年10月30日、首相官邸(共同)

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